少年と優しさ
その日は冷たい雨が降っており、なんだか街は全体的に灰色に染まっていた。
雨自体が灰色なんじゃないかしらん。などと思って指にかかった水滴を見るも、もちろんそれは無色透明である。
俺の後ろをまっ黒くて尖ったこうもり傘を持った悪魔が歩いているが、奴も奴の傘も雨になどまるで濡れていない。
雰囲気作りか何かだろうか。やめよう、悪魔の思考などのぞき込むと俺が悪魔になってしまう。
学生のお勤めである学校通いを終えた俺は、右手に傘で左手にスコップという不審者丸出しの格好で歩いていた。
スコップに雨粒が当たり、不ぞろいなリズムを奏でる。
さて、なぜ俺がこんな物を担いで歩いているかというと、それはこいつでもって先輩と対決しにいく為だ。
まぁそちらの方は偶然勝てたら良いなぐらいのついでであり、一番の用は先輩へのお礼を言う為である。
で、お礼とはつまり、先週先輩に危ないところを助けてもらった件について。
先輩の話をしたところ美鶴さんもいたく感動し、俺の鞄に菓子折りまで持たせてくれた。
ついでの用事でぶちのめされに行くのもどうだろう。
そう思わなくもないが、まぁ世の中にはお礼参りという言葉もあるし良いだろう。
「ヒラク様。何やら高尚な事を考えているご様子で」
「俺は常に高尚な事しか考えておらん」
そんな風にして、しばらく歩く俺たち。
するとようやく先輩の家が見えたが、ここから玄関に回り込むまでもう少し歩かねばならない。
いっそスコップで地下を掘り進んで入ったほうが早いのではないだろうか。誤って先輩の部屋に進入してしまうというラッキー助平が登場してしまう可能性もなきにしもあらずだ。
などと妄想していたおかげが、塀づたいに歩く俺の目に、何やら豊満な尻が目に入った。
もとい、傘をさした女性がしゃがみ込んでいるのが目に入った。
そして俺にはその尻……もとい後ろ姿いいや尻で。尻に見覚えがあった。
「先輩!」
それは紛れもなく、今俺が会いに行く予定だった人。大きな尻と胸をもつ素晴らしき人生の先輩。西暮雷花先輩であった。
「あぁ、どうも……」
小走りで駆け寄った俺に対し、先輩は無表情に振り返る。
雨で前髪が濡れたのか。普段顔を隠している前髪が左右で分かれ、そのご尊顔がよく見える。やはり先輩だ。
雨霧にぼやけた先輩はまるで仙女のようだ。
そう思いながら、俺は彼女の様子を見た。
「どうしたんですか? もしかして腹が痛いとか。分かりましたさすりましょう」
そしてドクターヒラクは素早く診断をくだすと、先輩の前方へ回り込む
「……そうじゃない。ただ……」
すると、そう言いながら先輩が自らの指先に目をやる。
白く長くきめ細かいその指先に、ぬめぬめとしたものが這っていた。
小さな殻を背負ったそいつは、でんでんむしむしカタツムリである。
「あぁ、そいつを逃がしてたんですか」
先輩はつまり、道路の真ん中にいたこいつを道路脇へと待避させていたらしい。
事情を悟って納得の笑顔を浮かべる体の俺。
だがその内心は、にゅるにゅるとうごめく生物に這われ、粘液に濡れる先輩の指というエロスの体現のような光景に、妄想がはちきれそうになり暴発寸前である。
先輩がそいつを脇にある葉っぱの上に置くまで、俺はじっと彼女の仕草を瞬きもせずに見つめてしまっていた。
「……どうしたの?」
さすがに不審に思ったのだろう。先輩が上目遣いで俺の顔を覗きこんでくる。
「……はっ、いや、優しいんですね」
我に返った俺は、とりあえず先輩を褒めた。
いや、とりあえずではなく本当に本音である。
だが、それがこの前先輩を怒らせたセリフだと気づいたのは、言った後であった。
再びはっとして先輩を見る俺。
同時に、先輩が叫んだ。
「私は優しくなどない!」
雨音が一瞬止まって、それから一層大きくなったように錯覚させる。
そんな勢いの叫びだった。
「このカタツムリはきっと私に感謝などしていないだろうし、こいつを移したところでむしろ鳥に発見されやすくなり寿命が縮まったかもしれない」
先輩の口調が変わり、そして、言葉は止まらない。まるで現在の天気のように、先輩は言葉を降らせ続けた。
「これは自己満足だ。私は偽善者なのだ」
呟いて、自らを断罪し、先輩は唇を噛む。それから、俯いたまま立ち上がった。
そう言えば先輩は、この前優しいと評した時も急に豹変してあのレベル50状態になったのだった。
優しい。その言葉に先輩はどんな気持ちを抱いているのか。彼女の表情は、傘に隠され窺うことができない。
「……ごめんなさい」
しばらくの沈黙の後、今度は雨音に消え去りそうな小ささで、彼女はそんな風に呟いた。
そんな謝られかたをすると、なんだか俺のほうが全力で謝りたくなってくる。
「あ、あのぅ先輩」
「それじゃぁ」
しかし何をどう謝って良いものか。俺が逡巡していると、先輩は俺の脇をすり抜けスタスタと歩いて行ってしまう。
トン、と傘と傘とが触れあい、その音が妙に頭へと響いた。
半ば呆然としつつ、その場に立ち尽くす俺。
「なぁ、彼女の優しさのレベルってどんなもんなの?」
俺は彼女の後ろ姿を眺めたまま、隣に立つ悪魔に尋ねた。
「魂に優しさという項目はありません」
すると奴は、若干トーンを落とした状態でそんな回答を寄越した。
「え、そうなの?」
スコップ術やロリコンはあって、優しさっていう割と多くの人間に備わっているものがないというのか。
驚きの声を上げる俺に、悪魔は頷いて答える。
「優しさというものは、基準が人それぞれですからね。査定のしようがないのです」
そんなものなのか、と俺は考える。もしくは悪魔なんて生き物にとって、優しさなんて何の価値も無いものなのかもしれない。
先輩の言うように、自己満足が生み出す幻想なのかもしれない。
いや、でも自己満足だなんだって言うのなら、それで自分を傷つけていてはしょうがないのではないか。と、俺は思う。
自己満足だというなら、満足しようよ先輩。
「お前らも先輩も、みんな難しく考え過ぎなんだよ」
言って、俺は葉の上に乗ったカタツムリを見る。
「お前は助かったよな、多分」
呟いたが、答えが返ってくるはずもなかった。
ーー。
「さて、二重の意味でしめっぽい雰囲気になりましたが今日の所は帰りましょうか」
俺がカタツムリに話しかけていると、悪魔がパンと手を叩いて勝手に話を終わらせようとした。
「アホ言うな。俺が何の為にこんなもん担いできたと思ってる。追いかけるぞ」
が、この程度でめげる俺ではない。この程度でへこんでいてどうしてあの乳を手に入れられよう。いや指がもう一間接ぐらい増えないと手には収まらないサイズだがそこは置いておくとして実際手に入れたときの楽しみにしよう。
「……流石ヒラク様でございます」
その将来設計に俺が頬を緩めていると、悪魔が恭しく礼をしながら呟く。
悪魔の賛辞にそうだろうそうだろうと頷くと、俺は大股で先輩の家へと彼女を追っていった。
◇◆◇◆◇
「ふんっ!」
先輩の腕から木刀が繰り出される。
それを俺は、何とか受け止めた。
「と、おぅわ!」
続いて反撃に転じようとするが、そんな間もなく先輩の第二撃が繰り出され再びスコップで防御。
きゅっと道場の床が音を立て、重い衝撃がスコップ越しに伝わった。
あの後俺は先輩に試合を申し込み、現在彼女の家でこうして闘っている。
玄関前で再び声をかけたとき、先輩は髪の間から軽く目を見開いたが、あれがどういう意味かは俺には理解できない。
「お、と、と、と」
先輩の繰り出すときは指揮棒のような、受け止めると鉄骨のような、詐欺のような攻撃を受け止めつつ、俺は徐々に下がっていく。
悪魔によると先輩のレベルは25に戻っている。
だと言うのに俺は防戦一方。
おそらくは基礎体力の差だろう。
この前使ったスリの魂も同時に入れるべきだったかと後悔する俺だが、既に後の祭である。
悪魔に今からでも入れさせるかとも思ったが、あの痛みに耐えつつ先輩の攻撃を捌ききれる気はしない。
今、一瞬でも気を逸らしたら負ける。
くそ、ここを乗り切れば輝かしい女体が待っているのだ。
俺は集中力を振り絞る。
すると、次々と木刀を繰り出していた先輩の胸が、胴着に包まれたその胸が、ひときわ大きくぶるっと震えた。
その瞬間、俺の脳内にも電流が走る。
ーーこの震え方、見たことがある!
まるで通信教育で勉強した場所がテストに出たときのような手応えを感じながら、俺は体を動かした。
次に先輩が繰り出す木刀の角度はここだ!
勝機を感じた俺が、その場所に合わせ渾身の力でスコップを合わせようとした、その時である。
ピロリン。ピロリン。
俺の集中を見事にぶった切る、気の抜けた音が鳴った。
しかも二回も。
それに気を取られ、俺の力が一瞬抜ける。
打ち合わされ、鈍い音を立てるスコップと木刀。
弾かれたのは、俺のスコップの方だった。
「ヒラク様、エロスとスコップ格闘術のレベルが上がりました。おめでとうございます」
スコップを宙に泳がせる俺に対し、悪魔がのんびりと解説する。
その間にも、先輩の閃光のような斬撃は俺の頭へと迫っており。
正直後半は、意識を彼方に飛ばしながら、俺は悪魔の説明を子守歌にノックダウンされたのだった。
◇◆◇◆◇
「前日の戦いにおいて、ヒラク様のスコップ取り扱い技術、平たく言えば経験値は蓄積されておりました。それが今回の戦いで花開いた訳ですな」
座布団に座る俺。その右手側で同じテーブルを囲いながら、悪魔がペラペラと解説をする。
「よって、今回上がったのはヒラク様のスコップ魂でございます。レベルは1。ヒラク様のスコップ道がついに始まったわけでございます。お手本となるべき魂をつけていたおかげで、上昇も早かったことでしょう」
場所は先輩の家にある和室である。俺はついに先輩の居住空間への進入に成功したのだ。
「それと……エロスも上がっております。あの激戦の最中にそんな物を鍛えられるとは、流石ヒラク様」
そして俺の対面では、先輩が正座をしている。
心の平静のため悪魔のペラペラをなるたけ聞き流しながら、頭にでっかいたんこぶを作った俺は先輩へと笑顔を見せる。
「これ、感謝の菓子折りです」
そうして、鞄から取り出したそれを先輩にずぃっと差し出した。
先輩との勝負は今日の所あれで終わり。結果は先輩の辛勝といった形だ。
今の先輩は、なんと私服を着ていらっしゃる。
つまり俺は今日、先輩の三段変形を見てしまったわけだ。
顔は相変わらず隠していらっしゃるが、白いブラウスが清楚でありそれを下から押し上げる物体はエロスである。
「感謝?」
俺の言葉に、先輩が首を傾げる。長い髪がさらりと流れ、非常にプリティーである。
「この前助けていただいたではありませんか」
「大したことはしてないから……」
しかしそんな俺の視線がいけなかったのか。差し出された菓子折りを先輩はずいっと押し返す。
「いえいえ受け取って貰わなければ困ります。婚姻届も一緒に入ってますから」
なので俺は菓子に添えられた先輩の手をそっと取り、真摯な眼で彼女を見つめた。
「アホかアンタは」
しかしそんな俺の頭上に、恋のおじゃま虫からのチョップが振ってくる。
「うごっ」
それは先ほど作られたたんこぶへ見事に直撃し、俺はうずくまった。
「それでも手を離さないのは立派だけどさ」
土下座のような格好だがこの手だけは世界が終わっても離さないと誓う感じの俺に、信じられない事に先輩の血縁者、西暮弟から呆れたような声が降った。
奴は俺の右手側、悪魔の対面に座っており、みかんを食いながら事の成り行きを見守っていたがまぁそれはどうでも良いだろう。
「なおさら受け取れない」
先輩はそんな俺の手をあっさりとすり抜け、世界を滅ぼすと頑なにそう言い張った。
「冗談です。ちゃんと市販の奴ですから安心してください」
表情はよく分からない。この状態もミステリアスで悪くはないが、やぱり彼女の顔が見えていたほうがお得である気がする。
見えないかな? と思いつつじっと彼女の顔を見つめながら、俺はそう説明し直した。
「でも……」
だが、先輩は尚も菓子折りを受け取ることを渋っている。
まるで中に山吹色のお菓子でも入っているかのような拒否っぷりだ。
このままでは埒が明かない。
そう考えた俺は、とりあえず一計を案じることにした。
「先輩、そのお菓子は助けられた娘の母親。俺の敬愛する美鶴さんの気持ちが詰まっているのです」
若干顔を伏せ、熱を込めた口調で彼女に語りかける。
「それを断るということは母の娘への想いまでをも否定すること。それは酷だとは思いませんか……!」
そうして、ばっと顔を上げると真剣な俺の瞳が彼女の顔を捉えた。
先輩の表情は前髪によって伺えない。
しかしここは押すしかない。そう覚悟を決めた俺は、もう一度菓子折りを押し出した。
……部屋の中に、しばし沈黙が満ちる。
「ヒラク様。前半と後半がまるで繋がっておりません」
背筋を伸ばし正座をしている悪魔が、俺に茶々を入れる。
うるさい。俺だって苦しいとは分かっとるわ。
先輩へ顔を向けたまま、心中で呟く俺。
「分かった」
そうやって、俺が冷や汗を流しているところに、先輩がぽつりと呟いた。
「ありがとう。と伝えておいて」
そう言って、彼女は菓子折りを手元へと引き寄せ、口元でふっと笑みを浮かべてみせる。
つまり、俺の誠意が通じた形だ。
「せ、先輩」
先輩優しい……!
感動したついでにそんな言葉が口から出かけ、俺は慌てて口を塞いだ。
弟のほうが国家転覆でも狙っているかのような不気味な笑みを見せているが、おそらくは苦笑いをしているのだろう。
「お前にはやらんからな。食うなよ」
なんかムカついたので、俺は一応釘を刺しておく。
「はぁ!? アンタ本当に性格悪いな!」
すると西暮弟はひっくり返った声を出して、こちらへ凄んできた。
そんなに食いたいのかこの卑しん坊め。いい加減この面にも慣れたので怖くはないぞ。
「俺の事をお義兄さんと呼ぶのなら、ひと欠片ぐらいは食って良いぞ」
なのでそのままギブアンドテイクへと持ち込んだ。
「誰が呼ぶか!」
だが、西暮弟はお気に召さないようで、テーブルをばんばんと叩く。
ならばと俺がこの菓子折りの中身である明命堂の和菓子がどれだけうまいかを力説しようとしたその時である。
「フフッ……」
急に、先輩が笑い声を漏らした。
何か笑い所があったかと、不思議に思って俺たちは先輩を見る。
「弟は友達がいないから、末永く付き合ってやってほしい」
すると先輩は、肩を震わせたままでそんな頼みごとを俺にしてきた。
「友達いないは余計だろ!?」
それは奇しくも、西暮弟が俺に頼んだ事だ。その所為もあってか、弟は姉に赤い顔で抗議する。
こう、こいつが先輩の妹でかわいい顔をしてたら世の中が変わってたんじゃないかと夢想したが、虚しいのでやめておこう。
それはともかく、先輩はそんな弟の雑音は無視して俺をじっと見る。
彼女に見つめられるという世界でも有数の贅沢を味わう俺は、胸の奥からじわじわと沸き上がる衝動を抑えきれなくなってきた。
そして、決壊した感情のまま彼女に叫ぶ。
「先輩優しい!」
こんな顔の怖い弟の心配をしているだなんて、優しい以外の表現方法があろうか。
やっぱり先輩は優しい。悪魔業界では測定できなかろうと、俺の中ではレベル100だ。
「優しくない!」
だが、先輩はそんな俺に対し、机を叩いてそう言い張る。
「優しい!」
「優しくない!」
俺がつい張り合って腰を浮かすと、彼女もまた腰を浮かしてグルルと唸った。
……何故彼女はこんなに頑ななのだろう。
怒っても間近で見る先輩の顔は綺麗だなぁなどと思いながら、俺は首を捻ったのだった。




