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少年とバーゲン

 日曜の昼下がり、けだるい体を引きずりながら、俺はデパートへと買い物に来ていた。


 といっても、正確には俺の買い物ではない。


「ヒラク兄―何してんのー?」


 能天気な呼びかけに、俺は「はいはい今行きますよ」と手を振る。


 今日のヒラクさんのパートナーは、小学生だという事を置いても貧相な身体を持つ我がいとこ、我門夕である。


「休日デートとは、中々乙なものですな」


 休日もいつもの、背中以外は堅苦しいスーツを着こなした悪魔がのんきに呟く。


「何がデートだ。あいつのノート一式を買いに来ただけだろうが」


 そんな悪魔を睨んで、俺はぐちりとこぼした。


 事の起こりは数日前、急に勉学に目覚めた夕が、今までの落書きだらけのノートから卒業し、新しいノートを欲しがった所から始まる。


 世の中には綺麗なノートから、落書きノートへ落第する人間もいるというのに殊勝な事だ。


 その他にも簡単な問題集やらも探しているようで、彼女は普段の行動範囲からはちょっと離れたこのデパートに買い物へ来ることになったのだ。


 なぜだか俺を伴って……。


「ヒラク兄。今デートって言った?」


 悪魔への呟きを、結局自分からこちらへと戻ってきた夕が耳ざとく聞きつける。


「ノートだノート。美鶴さんに頼まれなければ、こんな所に来る気はなかったっつうのに」


 それを誤魔化しながら、俺は若干説明口調で自らの経緯を説明する。


 このご時世、こんなちびっ子と歩いているだけで変質者と思われかねないのだから世知辛いものだ。


「自分がデレデレしながら引き受けたんでしょ。自業自得だよ」


 俺がそんなリスクを抱えながら買い物に付き合っているというのに、このお子さまはそれをまるで理解せず、あまつさえそんな風に呆れた目まで向けてくる。


「電話口の応対で何故デレデレしてたなんて分かる」


「受話器がデレデレしてましたー」


「どういう状態だそれは……」


 どういうことかは分からないが、本当にそうなっていたとしたら、今すぐ電気屋にでも行った方が良い。


「で、俺をこんなところまで連れ出すからには、勉強の方は思わしく進んでいるのか?」


 これ以上この話を続けていると、俺の繊細な脳活動に支障が起きそうだ。


 というわけで俺は、再び歩きながら一般的な世間話へと華麗に夕の意識を逸らさせた。


「算数のドリル全部終わらせたら、先生に褒められたよ」


 すると夕はアホなので、俺の横を歩きつつも胸を張り、そんな自慢をしてくる。

 シャツに包まれたそのなだらかな平原を見ても、俺は欲情することもない。

 うむ、俺に湧き出た不名誉なステータス、ロリコンレベルとやらはまだ芽吹きはじめのようだ。


「ちなみにステータスって、下がるのか?」


 そんな中ふと気になって、俺はこっそりと夕の反対側、俺の右隣を歩く悪魔に聞いてみる。

 というかこいつ、普段は人の後ろにいるくせに、こういう時だけ意味なくポジションを変えよってからに。

 なんだか無性に腹が立つ。


「えぇ、勉強や運動であれば、サボったりすれば簡単に下がります。ある趣味をお持ちのお方が、急に熱が冷めてそのステータスががくっと下がることもよくある話ですね」 


 俺の腹立ちを分かっているのかいないのか。どうせ分かっているのだろう。

 悪魔は爽やかな笑みを浮かべ、しかし腐った目でそんな解説をした。


 ……まぁとりあえず、俺のロリコンレベルというのもきちんと下がる、もしくは治療される見込みがあるらしい。


 ほっと一安心である。

 息を吐きながら、俺はエスカレーターに乗った。


「ちょっとー、ヒラク兄聞いてるー?」


 そんな俺に早足で追いつきながら、夕がじとっした視線で見上げてくる。


 自分で話を振っておいて、とっとと歩いていってしまう――ように見える俺にお冠のようだ。


「うむ、その調子でまい進し、美鶴さんの評判をガンガン高めるが良い」


 その冠を破壊すべく、俺は奴の頭を乱暴に撫でた。

 すると夕はくすぐったそうに首をすくめた後、照明が当たった為のキラキラした目で俺の顔を覗きこみ尋ねた。


「ね、ご褒美は?」


 非常に即物的な童女である。

 げんなりしながら、俺はエスカレーターを降りる。


「今のなでりなでりがご褒美だろうが」


 そうして物質的社会(マテリアルワールド)に住まう奴をそう言って適当にあしらった。

 古今東西ハンサムな男の頭なでは、それだけで頭の病気が治るという女子垂涎の行為なのだ。


「今時そんなので落ちる女の子いないよ。だからモテないんだよヒラク兄」


 だが、ネバーランドとは対極にいるその女はエスカレーターからぴょんと降りると、俺に容赦のない言葉を浴びせてくる。


 髪の毛が静電気で逆立ってアホ毛くるくるになっているような子供に説教などされたくはない。 


「痛いところを突かれましたな」


 一本取られたとばかりに、腐り目で快活に笑う悪魔。


「痛くなどない!」


 俺はその首を掴んでぎゅうぎゅう絞めた。


「いや、急にそっぽ見て叫び出すのは相当イタいよヒラク兄……」


 急にパントマイムを始めた俺を、夕が本気で心配そうな目で見た。


 周囲の客や警備員も、俺に対して何かしらのアクションを起こそうかと迷い気味である。


 こほん。落ち着いた俺は、誤魔化すために咳をし、エスカレーターから早足で離れる。


 俺が首を絞めた悪魔は、酸素を求める様子もなく襟をサッサと整えたのみだった。


 そんな俺の様子をもはや慈愛も混じった目で見ていた夕だが、ふと視線を周囲にさまよわせ始めると、その中の一角を指さして言った。


「じゃぁ、あそこのバーゲン品で良いから」


「じゃぁの意味が分からん」


 脈絡が無いにもほどがある。

 そもそも俺は、褒美をやるなどと一言も言った覚えはない。


 つっこみを入れながら、とりあえず夕の指す方に目をやると、俺はこいつに何か買い与えてやろうという気がますます失せた。 


「あの中に突っ込めってか」


 なぜならそのバーゲン品売場はすごい量の人間がひしめいており、顔を突っ込めば即座に整形手術が必要になるであろう様相だったからだ。


 バーゲン品に群がるおばちゃんなど存在しないと思っている諸君。

 彼女らは実際に存在する。平日の通常営業日には滅多にいないが、休日のバーゲンセールになるとどこからともなく現れ、目的の物を見つけるとハゲタカのように飛び去っていくある種機械的、そして圧倒的野生を持つ生き物が、確かに世界には存在するのだ。

 

 たとえば、このデパートの婦人服売場の一角に。


 服の引っ張りあいなどは発生していないようだが、おばちゃん達がぎゅうぎゅうに敷き詰められそれらが我先にと前へ前へ自らの体を押し込む様はまさに地獄絵図である。


「つうかあれじゃ何売ってるかも分からんし」


 そしておばちゃんの壁に阻まれ、あの人だかりの中で何が売っているかはまるで判別できない。


 もしかしたらあそこに群がっているおばちゃん達ですら、自分が何を買っているか理解できていないのではないだろうか。

 

 そんな危惧をしつつ俺が呟くと、夕は肩にかけた小さな鞄から、ごそごそとなんぞかを取り出し始めた。


「えーと、私あったらで良いんだけど、このブランド型落ちワケアリブーツキッズサイズ限定品が欲しいな」


 夕が広げて眺めだしたのは、一枚のチラシ広告である。

 その中には赤丸がつけてある箇所がいくつかあり、夕が今言った長ったらしい商品名も、その中に含まれていた。


「お前……最初からそれが狙いで、この場所へ買い物に来たな」


 ようやく夕の狙いに気づいた俺は、奴にじとっと半眼を向けた。


「大丈夫。お母さんに靴代も貰ってきてるから」


 すると、夕はしれっとそんな事を言い、鞄の中から諭吉さんを取り出す。


 美鶴さんも巻き込んで、現生まで確保しているらしい。つまり俺が金を出す必要は無いようだ。


 さらにつまりの要するに、俺があの中に入ってヒィヒィ言いつつ物を取ってくるのが、夕にとっての報酬となるらしい。


 それって単純に物欲しがるよりまずくない?

 などと年の離れた従姉妹の性癖の歪みを心配する俺だが、そもそもこいつの願望が叶えられる事は無いだろう。


「無理。あんなの現役アメフト選手でも抜けるか。バッファローでもつれてこい」


 おばちゃん達はまるで一固まりの壁である。あんな中をかいくぐって目的の物を手に入れる筋力など、自慢じゃないが俺にあるわけがない。

 そんな物があったら、もうちょっとは愛しの西暮雷火先輩と渡り合えるだろうし、乳だって一回ぐらいは揉めただろう。


「えぇー」


 俺がそう答えると、夕は不満そうな声を出す。

 俺をなんだと思ってるんだこいつは。

 確かに小学生の目から見れば、俺は完璧な憧れのお兄さんに見えるかもしれない。

 だがそんな俺にも、揉める乳と揉めない乳があるのだぞ。


 などと考えていると、そんな俺の肩をとんとんと叩くものがあった。


 ちらりと視線を向けると、それは悪魔である。

 奴は俺の肩を叩いた手の人差し指をピンと伸ばし、俺が顔ごと振り返っていたらそれが刺さるようにセットしていた。


「……」


 俺はその人差し指を無言で掴むと、折れろとばかりに力を込めて倒す。


「痛うございますヒラク様」


 悪魔は涼しい顔でそう言ってのけ、反対側の手で懐から電子えんま帳を取り出した。


「ヒラク様。こういった場合にぴったりな魂を用意してございます」


 そんな事を言う奴の指が、九十度を超えても余裕で曲がる事を確認した後で、俺は「言ってみろ」という意味を込めて顎をしゃくった。


「ありがとうございます。では今日の商品はこれ。すり抜けの魂でございます」


 すると奴は、電子帳を自らの掌の上でパッパと振る。

 ぽとり。まるで木から落ちたかぶと虫のごとく、茶色をした魂が奴の手に落ちた。 


「すり抜け?」


 夕に聞こえないように、小さく呟く俺。すると悪魔はその地獄耳で俺のウィスパーボイスを聞きつけ、説明を続ける。


「物理的に透ける訳ではありませんが、これがあればどんなに狭い人波もするりとすり抜けることができるのでございます」


 ほほう、確かに便利そうな能力だ。これがあれば学食だろうが満員電車だろうが怖くはない。


 しかしまぁ、随分と限定的な魂である。

 そんな細かい魂があるのか? 悪魔達の定義付けは相変わらずよく分からんなどと俺が首を捻っていると。


「ただし気をつけてください。気を抜くと相手の持ち物を勝手に奪っていることもあります」


「ん?」


 などと、悪魔がよく分からないことを申した。


「どしたのヒラク兄」


「いや……」


 大きめの声を上げてしまった俺を、夕が不思議そうに見る。

 それを制して、俺は自らの考えをまとめるために額に手を当てた。


 持ち物を勝手に奪う……すり抜け……スリ抜け……スリ……。


「なぁ、それスリの魂じゃ……」 


「すり抜けの魂でございます」


 導き出された答えを、俺は悪魔にぶつけてみる。


 だと言うのに、悪魔はがんとしてそう言い張る。


 ……いやもうこれ絶対にスリの魂だ。

 悪魔の態度を見て、俺はそう確信した。


「ねぇヒラク兄。さっきからどしたの? 風邪でも引いた?」


 先程からそっぽを向いたりあらぬ所に話しかけている俺を見て、夕が本格的に不安そうな表情になる。


「いや、そういう訳じゃなくてだな……。あー」


 一旦夕に視線を戻すも、どう釈明すべきか迷う俺。

 横にいる悪魔と話しているなどと言えば、一発で何らかの病院行きである。


「ヒラク様ヒラク様」


 だと言うのに、空気を読まない悪魔がしつこく俺の肩を叩いてくる。

 イラッときた俺は、怒鳴りつけたいという抑え難い衝動に従い、背後をむいた。


「少しだまっふぇ……!」


 すると振り向いた先、俺の肩口あたりには、先程の指よろしく悪魔が件の茶色い魂をセットしていた。


 勢いあまり、俺はそれを口に入れてしまい、さらにはいつの間にかゴム手袋を着用していた悪魔が、口に入ったそれをぐいっと押し込む。


 ごくん。まさしく一杯食わされた俺は、悔しさとともにそれを飲み込んでしまう。


「ぐおおおおお!」


 そして、胸の奥から焼け付くような痛みが発生した。


「ひ、ヒラク兄ー!?」


 叫び声をあげた俺を、夕がもはや涙目になって俺の体を揺さぶる。


 夕が動揺しながらも気をしっかり持ち、俺のポケットから携帯電話を取り出してどこぞへとかけようとしたところで、俺は我に返った。


 奴から慌てて携帯電話を取り上げると、大丈夫だとジェスチャーする。

 ディスプレイを見ると、やはり動揺していたのか110の文字が浮かんでいた。


 危うく警察を呼ばれるところだったな……。


「あのままでは、確実に変質者としてお縄でしたね」


 悪魔が他人事のように呟くので、誰のせいだと睨んではおく。


 それはともかく、夕を落ち着かせて立ち直った俺がバーゲンセールが催されている一角を見ると、何やら先程までとは違う感情がむらむらと沸いてきた。


 押し合いへし合いをするおばちゃんの尻を見て、欲情したわけではない。

 ただ、ああやって人が寄り集まっている現場を見ると、血沸き肉踊りその尻ポケットやバッグに無性に手を伸ばしたくなるのだ。


「ヒラク兄。目が危なくなってるけど、本当に大丈夫?」


「お、おう。何とか」


 夕に声をかけられ、俺は何とか我を取り戻した。

 頬をパチパチと叩くが、やはりあの場所につっこみたい衝動は抑えきれない。


「少しでも理性が残っている内に、目的の物を盗ってきたほうがよろしいのではないでしょうか?」


「盗るか! ちゃんと金払うわ!」


「ヒ、ヒラク兄!?」


 思わず大声を出してしまった俺に、またしても夕がおののく。


 いかん。この悪魔太郎と話していると、理性ゲージがガンガン削り取られていく。


 ついでに夕が俺を見る目がかなりヤバい。

 褒美でも何でも与えて気をそらさないと、本気で通報されてしまう。


「と、とりあえずブーツだな。さっさと盗ってくるから」


「む、無理しなくていいよ? あとなんかセリフが不穏な響きなんだけど」


 そう判断した俺は、夕にそう告げておばちゃんの群れへと突撃した。

 その勢いたるや、引き絞られたパチンコ玉の如しである。


 すぐに目の前におばちゃんの尻。

 それに潰されミンチになりそうなところを、おばちゃん達の間が離れた瞬間スッとくぐりぬけ、おばちゃん同士がぶつかり合うときには絶妙なタイミングで前に出、押し出されることによって目的地に加速する。

 ついでにおばちゃんのバックからサイフを……っと危ない。

 人様のバッグに手が伸びそうになってターン。その回転の力をも利用しワゴンの前にたどり着いた俺は、その中から件のブーツをあっさり手に取った。 


 そのまままるで帯回しをされる町娘のように回転しながら、人の輪から離脱する。


「ふぃー。ざっとこんなもんよ」


 ブーツを摘んで夕の元へと戻った俺は、くるしゅたっと回転を止め、ブーツを奴に手渡した。


「す、すごいよヒラク兄! プリマになれるよ!」


 それを受け取りながら、感動の眼差しで俺を見つめる夕。

 先程までの疑念はすっかり吹き飛んだようだ。


 なるほどプリマ。そういう活かし方もありか。しかし男ってプリマになれるもんだっけ?


 夕の賞賛にそんな事を考えていると、急に吐き気が胃の奥からせり上がった。

 

「うぶっ」


 寸でのところで口を押さえ、第一波をやり過ごす俺。


「んもー。調子に乗ってあんなに回るからー」


 そんな俺を、夕が呆れたような視線で見やる。


 ち、違う。これは回転のせいじゃなくて、いや、回転のせいでもあるが、飲み込んだ魂が吐き出されようとしているのだ。


 だが、そんな抗弁も今はできない。


 口を押さえながら周囲を見回すと、おばちゃんの群れ……園芸用品売場……ベンチ……あった! トイレだ!


 確認した俺は、夕にトイレ脇のベンチにいろ! とジェスチャーし、自らはトイレへと駆け込んだのであった。



◇◆◇◆◇



 トイレに駆け込んだ俺は、洗面台の前でスリの魂を吐き出そうとした。


 したのだ、が……。


「おえっ!ぺー! ぺぺー!」


 お聞き苦しい音声を申し訳ない。

 だが、吐き出そうとした魂は、喉に引っかかり一向に出てこようとしない。


 幸いにも胃の内容物をぶちまけることも避けられたが、喉の奥に出来物でもできたような異物感がある。

 もしくは魂がつっかえたおかげで、吐かずに済んだのかもしれない。 


「ふぅむ、排出されかけた魂を無理に押し込めたせいで、どこかに引っかかってしまったのかもしれませんね」


 そんな風に苦しんでいる俺の後ろで、悪魔が顎に手を当て解説をする。

 こいつは悪鬼の類のくせに、生意気にも鏡に映るのだ。

 

 変なところってどこだ。僕の心のやらかい場所か。

 鏡越しに悪魔を睨みながら、とりあえず胃液を飲み込む。


「もしくはスリの魂がヒラク様にぴったり馴染んだおかげで、出てきにくいのかもしれません」


「今スリって認めたな。しかもそんなもんが清らかな俺の魂に馴染むとか言いやがったな」


 ようやく喋れるようになったので、つっこみどころには全てつっこみを入れていく。


「ボーナスタイムということで、満喫しては如何でしょうか?」


 が、悪魔は俺のつっこみは全てスルーした上で、いつもの胡散臭い笑みを浮かべるとそんな提案をしてくる。


「こんなもん満喫したら、お縄になるだろうが……」


 もちろんそれを承諾するわけにはいかない。

 俺が現代っ子希に見る良識派ということは差し置いて、こいつの話では俺と悪魔の契約には神様とやらが絡んでいるらしい。

 スリなど堪能した後で「じゃぁお前地獄行きね」などと言われてはたまらない。

 いやもう悪魔と契約した時点で地獄行きが確定しているとしても、それならばせめて巨乳やらおっぱいやらを堪能してから堕ちていきたい。 


 そんな事を考えながら、俺はとりあえず魂を吐き出すことは諦めた。

 こういうのは焦ると出ない。トイレというこの場所で、俺が学んだ事の一つだ。

 

 そうだ。トイレに来たからには本来の用途にも使ってやろう。

 

 そう考えた俺は、小便器の前に立つと、チャックを開けてするべき事を行った。


 潜水艦のバラストから水が抜けていくような浮遊感を味わい、体を震わせる。


 普段であればこのまま、自分の他には愛ある関係の女子にしか見せないような惚けた顔をしてしまう俺なのだが、今はちょいとできない訳がある。


「真後ろに立つな、気色悪い」


 俺の後ろに、相変わらずニコニコと何が楽しいか分からぬ笑みを浮かべる不気味な悪魔がいるせいだ。


 自宅のトイレや風呂に入るときは外に出ていることを承諾させたのだが、油断するとすぐこれである。


「前に回って小便器と一体になった方がよろしいですか?」


「んなリクエストしとらん。……夕が蝶でも追って迷子にならないように見張ってろ」


 いらぬサービスをしようとする悪魔を一蹴し、俺はしっしと手を振ってみせる。


 そのジェスチャーに、悪魔が大仰に身を引いた。

 失礼な、手にひっかけるような雑なコントロールしとらんわ。


「しかしヒラク様。たちの悪い性犯罪者兼同性愛者にヒラク様が狙われないとも限りませんので……」


「俺にとってはお前が正にそうだ! 良いから外に出てろ!」


 訳の分からない想定をしている悪魔を怒鳴りつけ、俺は奴を外へと追い出した。


「まったく……」


 ようやく一人になれたトイレの中で、俺はため息を吐く。


 もしかしてあいつ、本当にそのケがあるんじゃ。

 考えると、第二波の震えが体を襲う。


 ともかく用を足し終えた俺が手を洗い、ハンケチで手を拭き拭き(ハンカチは男の常備品である。何時女子を泣かせるか知れないのだから)していると、出ていったはずの悪魔が即座にひょっこりと戻ってきた。


「ヒラク様、少々厄介なことになっております」


 しかも出直し頭にこの台詞である。


「お前といると厄介続きだ」


 ハンケチを仕舞いながら俺がため息を吐くと、悪魔は心外そうな顔をする。


 しかしすぐに表情を引き締め、珍しいことにまじめな顔を作ると自分が入ってきたトイレの出入り口を手で指した。


「とにかく外を見てください。入り口から、ゆっくりと」


 そして、俺にそんな指示をしてくる。


 こいつに従うのは癪だが、とりあえず外で何かが起きているのは間違いないようだ。


 俺は言われた通りに、ゆっくりとトイレの出入り口から顔を出した。


「げっ」


 そしてその先の光景を見た途端、俺は思わず紳士らしからぬ声を上げてしまった。


 なんとそこには、先ほどのバーゲン品に群がるおばちゃんよろしく、黒服を着た男達が十数人たむろしていたのだ。


「俺が優雅にリラックスしている間に、大量の待ち人が……!」


「落ち着いてくださいヒラク様。誰かがトイレに入っているからといって外で待つ必要はありません」


 俺が抑えた音量で驚きの声を上げると、俺の頭に乗せるようにして顔を出した悪魔が、俺の間違いを訂正する。


 つうかお前壁をすり抜けられるし他の人間からは見えないんだから、そんな姿勢をする必要はないだろう。


 目で訴えるが、逆に「よく見てください」と逆に諭されてしまう。

 屈辱のまま俺が黒服を見ると、どうやら彼らは壁際にいる何かを囲むように、半円を描いて寄り集まっているようだ。


 黒い壁のようなその様子に、中を窺い知ることはできない。

 だが、確かあそこには休憩用のベンチがあり、あそこでは夕が俺を待っており……。


「夕!?」


 それに思い当たった途端、俺はトイレから飛び出していた。

 俺の叫び声に振り向いた黒服をすり抜けの魂を使ってするりとすり抜け、その内部に入る。


「ちょ、やめて! 離して!」


 黒服の輪の中では……まず夕が迷惑そうに、引かれた手から逃れようともがいていた。


 生きてはいるようだ。これで美鶴さんに悲しまれずに済む。


 そして問題は、夕の手を引いている人物だ。

 ひざまずいてはいるが、その身長は夕より少し大きい程度しかない。しかしその横幅は、夕の三倍はある。

 ぱっと見た印象は運動会で使う大玉転がし。体も赤いスーツに包まれている。

 悪魔の表すステータスに丸さという項目があれば、前人未踏の域に達するのではないかと推察されるほどのまんまる男であった。


「じゅてーむ」


 そんな奇怪な生物が、夕の手を取り「じゅてーむ」と呟いた。

 それが聞こえた俺にも信じられなかったが、確かに奴はそう呟いた。


 男の奇っ怪な言葉に一瞬固まった夕だが、すぐに飛び込んできた俺に気づいてパッと顔を明るくする。


「た、助けてヒラク兄!」


 そして、この何もかもが意味不明な状況の中、夕は大声で俺に助けを求めた。


 まんまる男。そして黒服達の目が一斉に俺へと集まる。

 

 きっと悪い魂は、悪い出来事しか呼ばないのだろう。


「は、ハロー……」


 そんな教訓めいたオチがつけば、このどう考えても絶体絶命な状況もお仕舞いにならないだろうか。

 そんな風に思いながら、俺はその場の人間に国際派な挨拶をしたのだった。 

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