少年と成長
「じゃぁヒラク兄。ここは?」
「え、ちょっと待て。えーと……」
階下に降りた俺と夕。
リビングのソファーで隣に座る夕の問いかけに、俺は教科書と睨めっこをした。
小学生の宿題など物の数ではないわ! と思っていたのだが、人間は忘れる生き物であり、俺にも若干のシンキングタイムを必要とさせる。
結局俺は、夕に負けて奴に勉強を教える羽目になっていた。
後ろにたたずむ悪魔の微笑ましげな視線には、胸のむかつきを覚えてならない。
「つうか、俺に頼らず自分でやれ」
「えー、めんどいじゃぁん」
「じゃぁんじゃない。俺は忙しいのだ」
すり寄ってくる夕にそう言って頬を押しのけると、彼女はそのつぶれ饅頭顔のまま、唇を尖らせて呟いた。
「ちょっと前までは、よく家に来てたじゃん」
「それは、まぁ」
痛いところを突かれた、というか墓穴を掘った形になり、俺は言葉を濁す。
確かに俺は、中学を卒業する辺りまではこいつの家によく行っていた。 入り浸っていた。半分はあの家の住人だったといっても良い。
「私に飽きちゃったのかって、お母さん言ってたよ」
「飽きる訳あるか!」
夕の呟きに大声で反論してしまってから、奴がニヤニヤと笑っていることに気付く。
俺がこいつの家に入り浸っていた理由は、この娘の母。つまり俺の叔母であるところの、ついでに人妻であるところの我門美鶴さんにある。
「やっぱりまだお母さんのこと好きなんだ?」
俺を上目遣いで見ながら、夕が問いかけてくる。
「お前には関係なかろう」
心の中を覗こうとしているかのようなその視線から、俺は顔をぷいと逸らして逃れた。
「いとこが母親にそそうしてるって言うのは、娘に無関係じゃないと思うなー」
「粗相じゃなくて懸想」
追い打ちをかけようとして空中分解した感がある夕に対して、訂正を入れてやる。
それから俺は、目線だけ彼女に向けなおし、その顔色を伺うように尋ねた。
「……で、本当に言ってたのか?」
「何が?」
「俺が来なくて美鶴さんが寂しそうに『私に……飽きちゃったのかな?』などと呟いたという話だ」
「嘘ですけど」
「ですよねー……」
俺は、この娘の母であるところの、つまり俺の叔母であるところの、ついでに人妻であるところでの我門美鶴さんに懸想していた。
美鶴さんは、スレンダーで包容力溢れる知的美人である。今年で三十二になったが、年を取る毎にますます美しくなるようなお方だ。
彼女は俺が幼い頃からの憧れであり、物心つく前からお姉ちゃんお姉ちゃんと追い回していた。
俺が一番に喋った言葉も「お姉ちゃん」であったという話もまことしやかに両親から聞かされている。
俺の愛は彼女が結婚してからも変わらず、というか俺が園児の頃にはもう結婚していたので一切揺らぐこともなく、叔ー母ーロードを突き進んでいたのだが……。
「さすがにこの年になってまで、ノロケを聞かされるのは辛い」
うちの家系は、おそらく性の話に関して欧米並にだいぶオープンなのだろう。
美鶴さんは優しく、そしてのほほんとした口調で俺に北海道土産の定番である木彫り人形、あまり動かない、むさいがコンセプトのhigumaとの愛ある生活を語るのだ。
それは幼い頃から続けられた呪いのようなノロケであり、俺が人より早熟だったのはそのおかげだったと思われる。
そして、想い人の口から語られる人体の不思議を正しく理解した時、俺は驚愕し、打ち震え、現在ちょっとだけ彼女と距離を開けている。
「だが俺は諦めたわけではない! この愛の試練に打ち勝って必ず彼女を迎えに行く! 具体的には美鶴さんが公然猥褻の罪で捕まる前に!」
「わりと秒読みだからがんばってね」
力強く宣言する俺に対し、さらっと恐ろしいことを言う夕。
……どこか遠くを見るような瞳でそう呟くこの娘には、若干同情しないでもない。
「成功のあかつきには、お前は俺の義娘となるわけだからな。法律の中できっちり守ってやるからな」
ついセンチメントの季節に入った俺は、そう言って夕を慰めた。
「ヒラク兄とお母さんは結婚出来ないでしょ。だって三頭……」
「三親等」
「今三親等って言おうとしましたー」
「今はっきり「さんとう」って聞こえましたー」
が、少し同情した途端にこれだ。意見の相違からにらみ合う俺たち。
そのうち夕が目をつぶり唇をつき出したので、俺は奴の両頬に手を添え。
「良いから勉強しろ勉強」
と、首を捻って正面を向かせた。
「勉強なんて、将来役に立たないじゃん」
不満げな表情の夕が、代わりにぐちりとこぼす。
「さっきから会話していて、お前には少なくとも国語の勉強が必要だと感じたぞ」
そんな奴に、俺は半眼になって言い返す。
あと倫理も必要だ。これは中学生になったら選択することを推奨する。
「算数なんて、もっと役に立たないし」
現在夕が取り組んでいるのは、うさぎが時速三十キロメートルで走っています。亀は時速五メートルで走っています追いつくの何十分後でしょうといういわゆる距離と時間の問題である。
これだって、俺がやってるちんぷんかんぷんな数学よりはずっと身近な問題だ。
いや、どう役に立つかというと、ぱっと具体例は浮かばないのだが。
「ともかくそんな事考えなくて良いの。良い高校に入って良い大学に入って麗しのキャンパスライフを堪能するにはそれが必要なの。子供はバリバリ宿題をやれい」
めんどくさくなった俺は、一般的にもっとも使われるであろう説教を使って夕の疑問をはねのけた。
自分の成績? そんなもんはとっとと棚上げて棚ごとポイである。
「もう、また子供扱いする」
しかしそんな俺に対して、夕は頬を膨らませて抗議する。
「実際子供だろうが」
その仕草が俺の主張を裏付けていることに気づかない辺りが、完全に子供である。
「そんなこと無いもん。私今年で背が三センチも伸びたんだよ」
「俺は一センチ伸びたわい。どんぐらいで追いつくか計算してみろ」
その上奴はそんな事を言い出したので、俺はふと思いついてそう言い返してやった。
目の前の宿題に詰まっているような奴なら、めんどくさくなってそのまま黙ると思ったからだ。
「む……ちょっと待ってて」
しかし夕は、俺の予想を裏切り、ぶつぶつと彼我の身長を呟きながら計算を始めた。
俺がバカにしたような顔をしたのも利いたのかもしれない。
やがて計算が出来たのか。顔を上げてこちらを見る。
「二十一年だって……お母さんより年下だからセーフだよね」
「その頃にはお互い190センチ越えてるだろそれ」
お互いに成長期だという事を忘れている夕につっこむ俺。
いや、出題した時点で最終的な背の高さなんて規定しなかったが。
「ていうかそれが計算できるなら、宿題の問題も出来るだろ。ちょっとやってみろ」
それからふと気づいて、俺は夕に言ってやる。
「えー……これは全然違うよ」
だがしかし、どれだけ応用力がないのかこの娘は、面倒そうにそんな抗議をしてくる。
「一緒だっての。何時間でどんだけ伸びるかって話だろ。ここをこうやってだな……」
仕方なく俺は、単位の変換の仕方だけは夕に教えてやった。
俺が机に向かって背を丸めると、夕が無駄に顔を寄せてくるのでまた押しのける。
そうして、今度は奴にペンを取らせた。
――俺にバトンタッチされてからも、夕はしばらく唸っていた。
だが、唐突にぱっと顔を明るくすると声を上げる。
「あ、分かった。そういうことね」
そうして、奴はたどたどしくだが問題を解き始める。
そして書かれた答えを俺が検算してみると……うむ、合っている。
俺が頷くと、夕はパァっと年相応の嬉しそうな笑顔を見せ、先ほどの感触を忘れない為にか即座に次の問題へと挑んでいく。
「すごい。大体の問題って、私とヒラク兄の問題に置き換えると簡単に解けるよ」
「おかしな法則に目覚めるな」
どんな置き換えをしているというのだお前は。
しかし俺のツッコミを聞いた様子もなく、夕は喜々として問題を解いている。
何かのスイッチが入ったような感じだ。
なるほど。こいつはこうやって勉強させればいいのか。
俺が考えていた、その時だ――。
ピピロン。
と、何か突然、チープな音が鳴った。
「何の音だ?」
「何が?」
「いや……」
夕が不思議そうに俺を見上げる。
どうやらコイツには聞こえていないようだ。
ついでに俺の回りには、あんな音を出すような機械はない。
聞き間違いか? 俺がとりあえずその結論で片づけようとしていると。
ピピロン。
「ほらまた」
「んもぅ、今良いところなんだから、ヒラク兄邪魔しないでよ」
やはり同じ音が聞こえ、俺は周囲をきょろきょろと見回す。
だが、夕は俺の悪戯だと決めつけたようで、もはや相手にもしてくれない。
奴は算数の問題を俺との問題に置き換えているそうだが、俺自身はすっかり邪魔なようだ。
いや、先ほどまでは相手するのがめんどくさいと思っていたが、ここまでないがしろにされるとそれはそれで面白くない。
いたずら(公共良俗に反しないもの)でもしてやろうかと俺が画策していると、トントンと、俺の肩を何かが叩いた。
びくりと飛び上がる俺。
そんな俺がこわごわと振り向くと、悪魔がえんま帳の画面を指さしている。
……存在をすっかり忘れていたが、そういえば居たなこいつ。
ともかく、悪魔が指さしているえんま帳。そこに表示されているのは夕のステータスであった。
勉強系が軒並み低い。ちょっと不憫だ。などと俺が思っていると――。
ピピロン。
またしても、例の音が鳴った。同時に、夕のステータスを表す棒グラフが、一つ上に伸びる。
なるほど。あの音はつまり、画面に表示されているステータスが変動したときに鳴るらしい。
納得した俺が改めて画面を見ると、しかし、上がっている項目は、国語である。
今勉強しているのは算数のはずだ。何故と俺が首を捻っていると、悪魔がリビングの奥にあるキッチンを手で示す。
少し離れて会話しようということか。夕には聞こえないんだから口で言えば良いものを。
空気の読み方が訳わからん奴だ。
ともかく俺は奴の誘導に従い、キッチンのほうにあるテーブルへと移動した。
夕は勉強に集中していて、俺が離れたことも気づかない様子である。
「……何で他の教科が上がってるんだ?」
一応声をひそめて、向かい側に座った悪魔に尋ねる。
するとまたしても例の音が鳴り、今度は理科のレベルがあがった。
「全ての勉学という物は、繋がっているのです。人類の祖先のように。そして竹の根のように」
「日本語が読めないと問題文が読めないみたいな?」
竹の根っこが繋がっているなんて豆知識も今知ったぐらいの俺が、とりあえず思いついたことを言うと、悪魔は分かってないとでも言いたげにため息を吐いた。
「ヒラク様にはあまり縁のない話のようですね。まぁ、大きいのは彼女が「勉強」というものに対して広く興味を持ったおかげでしょう。知識欲の増大と言い換えても良いかもしれません」
「悪かったな」
こんな奴にまで教養がない扱いされるとは腹が立ったが、こいつが見えない夕の前で見た感じ一人プロレスを行う訳にも行かず、俺は不満を腹に収めた。
知識欲の増大ね。要するに好きこそ物の上手なれ。もしくは興味あることに関しては人間はぐっと集中できるというアレだろうか。
「あの年頃であれば、そんな小さなきっかけで能力値が大きく上昇する事があります。真綿が水を吸うように、という奴ですね」
悪魔の説明を聞きながら、俺は勉強している夕の姿をぼんやりと眺める。
動機はあれだが非常に熱心な様子だ。
……俺も小学生の頃にきっかけがあれば、勉強を好きになったりしたのだろうか。
「……ヒラク様も」
若干遠い目をしていた俺に、先ほどまではきはきと喋っていた悪魔が口調を変えて呟いた。
まるで俺の思考を読んでいるかのようなその変調に、俺がそちらに目を向けなおすと。
「ヒラク様もふとしたきっかけで、あのような上がり方をする能力があるかもしれません」
悪魔は何やら柔らかく微笑んで、そんなことを言う。
汚れを知らないいたいけな女子なら、ことりと心臓が鳴ってしまうような表情である。
「あるのか? そんなもん」
だが、俺はすいも甘いも噛み分けた男子なので、そんな甘言に騙されるものか。
ただでさえちびっ子を遠巻きに男二人が向かい合っている様は、よろしくない噂が立ちそうな光景であるのに。
俺がうさんくさげに呟くと、悪魔はえんま帳の画面を向けて見せた。
そこには、俺のステータスが映っている。
そこには燦然と輝くスケベ心の文字。そしてその横に、ぴょこんと小さなブロックが寄り添っていた。
「んん?」
NEWと頭についたその項目の名前は……「教師」。
レベルは1だったが……確かにある。
教師って、夕に勉強を教えたからか?
最初にあの音が鳴ったとき、あれは夕ではなく俺の能力が上がっていたのか。
「ゆっくり探していきましょう。ワタクシももう少しの間はお付き合いできますので」
「……なんか気持ち悪いぞお前」
妙に優しい悪魔に言ってやると、奴はいつもの胡散臭いスマイルを浮かべて誤魔化した。
教師か……悪くないかもな。
毎年新しい女子高生と沢山お近づきになれるし。
しかし生徒第一号は、早速俺の手から離れて行ってしまったようである。
猛然と勉強をする夕の背中を見ながら、ほんのちょっと、少しだけ、寂しさ……に近しいものを感じる俺であった。
◇◆◇◆◇
「今日はありがとうねヒラク兄」
夕日の中で、夕が俺に礼を言う。
この時間になって、ようやく夕は帰らなきゃと言い出した。
まぁ、あれからはこいつ、ずっとドリルに集中してたから楽なものだったが。
ちなみに俺も台所のテーブルで勉強らしきものをしてはみたが、三十分ももたなかった。
この道に関しては断念した方が良いのかもしれない。
「別に、礼を言われるようなことはしとらん」
俺がしたのは、ちょっとしたきっかけを与えることだけだ。
それにしたって、あの言葉が偶然コイツのツボにはまっただけだし。
「ようし、帰ったら他の教科もやってみよっと」
「あんまり根を詰めるなよ」
そんな俺に構わず、夕はガッツポーズを取るとそんな呟きを漏らす。
やる気満々の様子だが、こいつがいきなり勉学に目覚めたなんて知ったら美鶴さんもびっくりするだろう。
そう思って、俺は夕に注意した。
「大丈夫だって。こういうのはノってるときにやらなきゃ」
本当に、今の夕は波に乗っているようだ。この調子なら、このビッグウェーブを乗りこなして物凄い遠くまで行ってしまうかもしれない。
うちに来る回数も減る。俺も悩みの種が一つ減るというものだ。
そんな風に、考えていると。
「また、勉強教えて」
言って、夕が俺の袖を引っ張った。
急な不意打ちに対応できず、思わずバランスを崩し、そのままどたんと地面に手と膝をつく俺。
「小学生に引っ張られただけで、四つん這いにならないでよ」
「……いきなり何をする」
呆れた顔で自分を見下ろす夕に対し、そのままの姿勢で抗議する。
「もう、ちょっと屈んでもらおうと思っただけなのに」
「屈む?」
俺が疑問符を浮かべていると、膝を畳んだ夕の両手が、俺の頬を包んだ。
「お、おい?」
裏返った声を上げる俺にも構わず、夕の顔が段々と近づいてくる。そして――。
ちぱっ。と音がして、額に暖かいものが触れた。
唖然とした俺が、顔を離した夕を見ると、彼女ははにかんだ表情で微笑んでいる。
「これなら、身長差も関係ないよね」
俺を見下ろすその顔は、夕日に照らされ赤く染まり、さる日の美鶴さんを想起させる。
不覚にも俺がその表情に目を奪われていると、夕はすっと立ち上がった。
「それじゃ!」
それから誤魔化すように元気良く言って、止める間もなく夕はかけていった。
しばし唖然とする俺。
ピロリン。
そこへ、またしても例の音が鳴った。
「おや、ロリコンレベルが3になりましたよ」
「うるさい黙れ」
余計なことを言う悪魔を殴り、俺も家へと帰った。




