第九話-7
やや苛立ちを感じながらも、その『誰か』の顔を思い出そうとしている。
暗闇にも似た惑いの中に、僅かに見える横顔。
あれは・・・懐かしい顔だ。
真の笑顔。
まだ男だった頃の、真の寂しそうな笑顔。
今ではもう見る事の出来ない・・・記憶とスマホの中にしかないその顔・・・姿。
そして隣には、心配を隠したままの瑠璃。
そうか、俺はお前たちを置いて行く事になるのか・・・。
まだ立ち上がれていないのに・・・。
口に含んだコーヒーが、喉を通す時に乾きを癒す。
それでも、喉が干上がるような感覚が続き、目に熱が籠る。
肺に籠った不穏が何かの形を成そうと、胸の内に広がり始め・・・。
その刹那。
来客を知らせる電子音が小さく響き、まるで風に沿うかのように高く渡って来る。
軽やかなステップと共に、小柄な女の子が店内から歩き出してきた。
お客・・・?
それにしては、随分と楽しそうだが。
・・・あっ!
途端に俺の思考への落下が止まり、現実へと引き戻される。
俺と同じ学校の制服。
さらりとした黒髪のサイドロングボブ。
優しい笑顔の彼女がそこには居た。
秋山柚葉。
彼女が俺を見詰め、微笑んでいた。
その笑顔には、先程の男から拒絶された時の影はない。
拒絶がいつもの事過ぎて慣れてしまったのか、それとも笑顔で隠しているのか・・・。
俺の目では、彼女の心は見る事が出来ない。
いや、彼女以外・・・もしかしたら、彼女ですら心の中を見る事は出来ないのかもしれない。
今、俺の前のには、いつもの『可愛い』を纏った彼女の姿がある。
俺は少しだけ微笑んで、「バイトお疲れさま」とだけ告げ、先程買ったカフェ・オ・レを差し出した。
・・・それにもし『あの男の影』が見えたとして、俺に何が出来る?
『あの男』をこのコンビニから排除する?
出入り禁止にする?
そんな事は不可能だ。
このコンビニに『あの男』が来てるのは、当人の意思であり、他人がそれに口出しなど出来ない。
もし口出し出来るとしても、それは『このコンビニ』が決める事。
であれば、彼女を・・・秋山さんを『このコンビニ』から引き離すのか?
これだって不可能だ。
彼女が自分の意思で辞めるならともかく、他人が口出しする事じゃない。
つまりは、この件で俺に出来る事は何も無い。
ただ、今の様に、バイトを終えた彼女に、少しばかりの笑顔を添えて労いの言葉を贈るくらいしか、俺に出来る事は無い。
彼女の『仕事に対する熱意』を称える事しか、俺には出来ない。
俺の顔と差し出されたカフェ・オ・レに、交互に目を遣る彼女。
その笑顔と瞳には、驚きの影はない。
ゆっくりと俺の目を見つめ、その笑顔を大きく咲かせる。
・・・いくら鈍い俺でも、今は彼女の心が見える。
俺がここで・・・コンビニの外で待っている事を信じていたんだろう。
約束をした訳でもないのに。
気持ちが通じ合う程、お互いを知っている訳でもないのに。
俺が勝手に待っていただけなのに・・・。
なのに、信じてくれた。
その事実が、心にあかりが灯ったように感じられる。
彼女の笑顔が、柔らかな温かさを俺に届けてくれたんだ。
柚葉ちゃんの細いしなやかな指が伸び、俺の手にあるペットボトルに触れる。
少しだけ俺の指に触れると、僅かに緊張が走るのが判る。
それでも、彼女は笑顔を崩さない。
優しく柔らかい笑顔。
今は俺だけに向けられている、その笑顔。
ああ・・・。
遠い記憶の彼方。
そうか・・・。
瑠璃の笑顔を向けられた真に、俺は嫉妬していたんだな・・・。
瑠璃の明るい笑顔を独り占め出来る真が、俺は羨ましかったんだ。
幼馴染と言いながら、瑠璃の心に俺は居場所は無かった。
いつもいつも、瑠璃の心は真に向いていた。
瑠璃は真しか見ていなかった。
それが言語化出来ていなかっただけで、俺の心の奥底では判っていたんだな。
だから、真と一緒に剣道に打ち込んだ。
・・・真の隣にいれば、きっと瑠璃が俺も見てくれると思ったから。
真に勝てれば、瑠璃は俺を認めてくれると信じたから。
・・・
でも、現実は違った。
きっと瑠璃には判っていたんだろうな。
俺が剣道を始めた理由なんて・・・。
好きで始めた事じゃない、邪な理由があるって事を。
だから、瑠璃は俺を毛嫌いしたんだ。
俺が邪魔だったんじゃない。
俺の浅ましさを嫌ったんだ。
そっか・・・。
ふと、手にあった重さが消えた。
意識のベクトルが、俺の過去から目の前の柚葉ちゃんに戻ると、彼女の手に収まったペットボトルが目に入る。
その向こう・・・。
目を細め、僅かに赤みを増した頬で愛らしい笑顔を作る柚葉ちゃん。
今は・・・今だけは、彼女の笑顔を独り占め出来ている。
俺の周り、クラスメイトでも、柚葉ちゃんに憧れる奴は多い。
実際に告白した奴だっていた。
でも、彼女に気持ちが届いた奴は居ない。
この笑顔。望んでも得られない笑顔が、今は俺だけに向けられている。
「ありがとう、如月くんっ」
軽やかな声が耳に響く。
彼女はその両手でペットボトルを抱えるように持つ。
まるで、温もりを逃がさないように。




