暗闇の爪
ロイの背中を追うだけで、息が少しだけ楽になった。
温室にいた時の、喉の奥を締めつけるような苦しさが薄れていく。
……それが悔しい。
(私、こんなに弱かったっけ)
廊下の冷たい空気が肌を刺す。
それでもロイが隣にいるだけで、足が前に出る。
やがて、執務室の前でロイが立ち止まった。
「ミア様。こちらです」
扉が開き、灯りの下に騎士団長がいた。
机の上には書類が積まれ、地図が広げられている。
団長は顔を上げ、私に目を向けた。
「……来たか」
「はい」
声が震えないように答える。
団長は次に、ロイへ視線を向けた。
「ロイ。下がれ」
空気が変わる。
温度が、ひとつ下がった気がした。
ロイの肩がぴくりと揺れる。
けれど彼は何も言わず、一歩退いた。
「……承知しました」
扉が閉まり、私は団長と二人になる。
静かすぎて、自分の呼吸がうるさい。
団長は淡々と口を開いた。
「聖女。アリシアと会ったな」
「……はい」
「何を言われた」
私は言葉に詰まった。
“優しさは人を弱くする”
“近すぎる”
“あなたは必要とされたかったのでしょう?”
言われたことを思い出すだけで、胸が苦しくなる。
それでも私は、絞り出した。
「……倒れないよう、気をつけるようにと……言われました」
団長は一拍置いて言う。
「嘘はつくな」
低い声だった。
怒鳴っていないのに、背筋が凍る。
私は唇を噛み、俯いた。
「……副長のことを……言われました」
団長の視線が鋭くなる。
「ロイは優しい。だから狙われる」
狙われる。
その言葉に、心臓が跳ねた。
「……アリシアは聖女だ。聖女として正しく振る舞う。
だが、正しさは人を切る」
私は息を止めた。
団長は淡々と言葉を続ける。
「お前が折れれば、ロイが折れる」
胸が締めつけられる。
私のせいで――そんな未来が来るのが怖い。
「……私は……」
声が震えた。
団長は机の上の書類に視線を落としたまま言った。
「聖女として生きたいなら、“断る強さ”を持て」
断る強さ。
私が一番できないこと。
団長は最後に短く告げる。
「今日は休め。次の討伐は三日後だ」
三日後。
その言葉で、現実が戻ってくる。
「……はい」
「下がれ」
命令だった。
でも、不思議と追い出された感じはしなかった。
私は頭を下げ、扉へ向かった。
廊下に出た瞬間、そこにロイがいた。
動かず、待っていた。
「……ミア様」
その声を聞いただけで、胸の奥がほどけそうになる。
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……ロイ様」
たったそれだけの呼びかけに、ロイはほんの少しだけ目を細める。
「大丈夫ですか」
私は頷いた。
頷いたのに、涙が落ちそうだった。
(……断る強さ)
それを持てたら。
私はもっと、ちゃんとこの人に「ありがとう」を言えるのだろうか。
三日後。
王宮の中庭は、朝靄に包まれていた。
馬の吐息が白く揺れて、甲冑が擦れる音が静かに響く。
討伐。
あの日の瘴気が喉の奥に蘇り、私は無意識に指先を握りしめた。
(……また、戦場に行く)
逃げられない。
でも――今度は倒れない。
私はそう決めて、馬車に乗り込んだ。
外では騎士たちが整列し、団長が短く指示を飛ばしている。
その声はいつも通り冷たく、迷いがない。
その隣に――白いローブが見えた。
アリシア。
陽の光を受けて髪が淡く輝き、聖印が胸元で揺れている。
「……え」
喉が引きつった。
(来るの……?)
彼女が戦場に?
ロイが馬車の扉の前に立っていた。
表情は変わらないのに、目だけが硬い。
「ミア様。出発します」
私は頷いた。
「……アリシア様も、同行なんですか」
小さく聞くと、ロイは一瞬だけ沈黙した。
「……団長の命令です」
それだけだった。
余計な言葉がない分、胸がざわつく。
馬車が動き出し、車輪が石畳を離れていく。
窓から見える騎士たちの列の中に、白が混じっている。
それだけで空気が変わったみたいに感じた。
(私の居場所……)
また小さくなる気がして、息が苦しい。
日が傾き始めた頃、騎士団は森の手前で足を止めた。
討伐地までは、さらに半日。
「ここで野営する」
団長の命令が落ちる。
騎士たちは手慣れた動きでテントを張り、火を起こしていく。
乾いた薪の匂いが立ち、鍋の湯が音を立てた。
私は火のそばで座らされ、ロイが水筒を差し出した。
「飲んでください」
「……ありがとう」
そう言いかけて、私は途中で飲み込む。
(言えるのに、言えない)
怖い。
言ったら、甘えてしまいそうで。
ロイは気づいたように少しだけ目を伏せたが、何も言わなかった。
――その時。
「ミア様」
甘い声がした。
振り向くと、アリシアがそこに立っていた。
「お加減はいかがですか? 前回、倒れかけていましたでしょう」
私は笑えず、小さな声で返した。
「……大丈夫です」
アリシアは柔らかく微笑む。
「良かった。聖女が倒れてしまったら困りますもの」
困る。
また、その言葉。
胸が冷える。
「それに……」
アリシアの視線が、私の隣のロイに向く。
「副長様も、困ってしまいますよね」
ロイが一歩前に出た。
「アリシア様。夜は冷えます。お戻りください」
丁寧な口調。
でも明らかに“線”を引いている。
アリシアは少しだけ目を細めて、笑った。
「……ええ。副長様は本当に優しいのですね」
まただ。
優しいのですね、という言葉が、私の胸を刺していく。
アリシアは私に向けて、花のように笑う。
「おやすみなさい、ミア様」
「……おやすみなさい」
そう答えた声は、自分でも驚くほど小さかった。
深夜。
焚き火は小さくなり、森の奥は黒く沈んでいる。
騎士たちは交代で見張りに立ち、眠りにつく者も増えていった。
私はテントの中で横になっていたが、眠れなかった。
(怖い)
静かすぎる。
前世の夜も、こんなふうに静かだった。
誰もいない部屋で、ただ明日が来るのを待っていた。
――その時。
外で、風と違う音がした。
葉が揺れる音。
枝が折れる音。
「……?」
私は身体を起こした。
次の瞬間。
「敵襲!!」
叫び声が夜を裂いた。
金属音が一斉に響く。
剣が抜かれ、足音が走る。
テントの外へ出ると、黒い影が森から溢れてきていた。
獣の形。
でも目が赤く光っていて、牙が長い。
魔物――夜行種。
「守れ!」
団長の声が響く。
騎士たちが壁になるように立ち、斬りかかる。
火花が散り、血の匂いが混ざる。
私は息を呑んだ。
(……夜襲)
こんなの、聞いてない。
ロイが私の前に立つ。
「ミア様、下がってください!」
「でも……治癒……!」
「今は守るのが先です!」
ロイは迷いなく剣を振るう。
黒い影を斬り払っても、次が来る。
多い。
数が多すぎる。
その時、横から白い光が走った。
「――浄化」
アリシアの声。
彼女の掌から放たれた光が、魔物の群れを一瞬怯ませる。
眩しいほど清らかな光。
(……すごい)
私の光とは違う。
迷いがない。
綺麗で、強い。
アリシアは淡々と言った。
「団長様、周囲の穢れは抑えます。前へ」
団長が短く頷く。
「助かる。ロイ、戦線を維持しろ」
「……承知しました!」
ロイが前線へ踏み込む。
その背中が遠くなる。
私は思わず手を伸ばしそうになって、止めた。
(触れない)
触れたら、崩れる。
でも――怖い。
次の瞬間。
ロイの足元に、影が潜り込んだ。
地面から突き出す黒い爪。
「――ッ!」
ロイが反応するより早く、爪が鎧の隙間を裂いた。
赤いものが、闇に飛ぶ。
「ロイ!!」
叫んだのは私だった。
ロイの身体がぐらりと揺れ、膝が落ちる。
「……っ、ミア様……下がって……!」
声が、掠れている。
私は動けなかった。
頭の中が真っ白になって、呼吸ができない。
(ロイが……)
まただ。
また、目の前で大切なものが落ちていく。
「副長!」
騎士が駆け寄るが、魔物が阻む。
「近づくな!」
団長の声が飛ぶ。
「聖女ミア! 治癒だ!」
命令。
冷たい声。
でも私は、その瞬間だけは救われた気がした。
(……行ける)
役に立てる。
救える。
私はロイの方へ走った。
足がもつれる。
怖い。
でも止まれない。
ロイの身体が地面に倒れ、呼吸が浅い。
鎧の隙間から血が滲んでいる。
「ロイ様……!」
私は膝をつき、震える手を伸ばした。
――温かい。
いつも私を温めてくれた手が、今は冷え始めている。
胸の奥に熱が集まり、光が滲む。
(お願い……!)
でもその瞬間、ロイが微かに首を振った。
「……やめ……」
「やだ……!」
私の声が震える。
「やめない……! 私、今度こそ……!」
ロイは薄く目を開けて、私を見た。
その瞳は、まだ優しい。
「……無理を……するな……」
たったそれだけ。
その言葉が、泣きたくなるほど優しくて――
私はもう、涙を止められなかった。




