温室のお茶会
部屋の灯りが揺れていた。
湯気の立っていた薬草茶は、もう冷めている。
私は湯呑みに指を添えたまま、ぼんやり窓の外を見ていた。
ロイは来ない。
分かっているのに、耳が足音を探してしまう。
(……会いたい)
そう思った瞬間、胸の奥が痛んで、私は小さく首を振った。
――その時。
コンコンコン、と控えめな音がした。
「ミア様、失礼いたします」
メイドが入ってくる。
手には白い封筒。
金の縁取りがされた、上等な紙だった。
「こちら……聖女アリシア様より、お手紙でございます」
聖女。
その言葉だけで、喉がきゅっと締まる。
「……私に?」
「はい。『どうか今夜中にお渡しして』と」
私は指先で封を切った。
硬い紙の感触が、なぜか冷たい。
中には、香の匂いが残っていた。
整った文字。
丁寧すぎるほど丁寧な文面。
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ミア様
本日は討伐、お疲れ様でございました。
同じ聖女として、あなた様のお力に敬意を抱いております。
つきましては、明日の午後――
王宮の温室にて、ささやかなお茶会を開きたく存じます。
お話できるのを楽しみにしております。
聖女アリシア・ハインツ
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私は息を吸って、吐いた。
(……お茶会)
そんなもの、今までしたことがない。
そもそも、聖女として生きることすら、まだ慣れていないのに。
“敬意”。
その言葉が、余計に怖かった。
(……断れるの?)
そんな疑問が浮かぶのに、答えはもう分かっている。
断ったら――
「協調性がない」と言われる。
断ったら――
“使えない聖女”だと思われる。
私は唇を噛んだ。
「……分かりました。明日……行きます」
口から出た言葉は、震えていなかった。
震えていないふりをするのが、昔から得意だった。
メイドは安心したように頷く。
「では、返書をご用意いたしますね」
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
私は手紙を握りしめたまま、ベッドの端に座り込んだ。
(……怖い)
あの笑顔。
あの目。
柔らかい声で、胸に刺す言葉。
私の中の何かを、全部見抜いている気がする。
(ロイがいてくれたら)
そう思った瞬間、自分が情けなくて泣きそうになった。
いないと怖い。
――そんなふうに思ってしまう自分が、怖い。
私は手紙を机の上に置き、両手で顔を覆った。
明日が来るのが、怖い。
それなのに。
どこかで私は思ってしまっていた。
(……もし、明日ロイに会えたら)
その期待が、胸をもっと苦しくした。
翌日の午後。
王宮の温室は、外の冷たい空気とは別世界だった。
硝子越しの陽光が床に落ち、花の香りが甘く漂っている。
こんな場所に、自分がいていいはずがない。
そう思うのに、メイドは当然のように私を案内した。
「ミア様、こちらでございます」
白いテーブルクロス。
銀のティーセット。
焼き菓子の甘い匂い。
そこに、ひとりの少女が座っていた。
淡い金髪が光を受けて透ける。
白いローブに、胸元の聖印。
アリシア・ハインツ。
私を見つけた瞬間、彼女はぱっと笑みを深くした。
「ミア様。来てくださったのですね」
鈴の音みたいな声。
丁寧で、優しくて――だからこそ、怖い。
「……お招きいただき、ありがとうございます」
私はなるべく礼儀正しく頭を下げた。
アリシアは満足そうに頷き、席を勧めた。
「どうぞ。お疲れでしょう? 甘いお菓子もご用意しましたの」
私は椅子に座り、膝の上で手を握りしめた。
(落ち着いて)
ここは戦場じゃない。
剣も、瘴気も、血もない。
それなのに、心臓だけがうるさい。
ティーカップに紅茶が注がれる。
香りがふわりと立って、喉が少しだけ楽になる。
「昨日の討伐、素晴らしかったです」
アリシアが言った。
「核を浄化するなんて……私でも簡単なことではありません」
褒められている。
――なのに。
胸がぎゅっとなる。
「……いえ、私は……ただ必死で……」
アリシアはふふ、と笑う。
「必死。……そうですよね。聖女は“必死”にならないと生き残れませんもの」
その言い方が、少しだけ棘を含んでいて、私は息を止めた。
(……何を言いたいの?)
アリシアは紅茶をひと口飲むと、柔らかい目で私を見る。
「ミア様。昨日、倒れかけていましたよね」
心臓が跳ねた。
「……」
答えられない私を見て、アリシアは心配そうに眉を寄せる。
「怖かったです。あなたが倒れてしまったら……第二騎士団が困ってしまう」
困る。
またその言葉。
「……気をつけます」
アリシアは嬉しそうに微笑む。
「ええ。どうか無理はなさらないで」
そう言いながら、彼女はカップを置いた。
カチ、と陶器が鳴る。
次の言葉は、とても穏やかな声だった。
「ミア様は、ロイ副長に随分と庇われていらっしゃいますよね」
――息が止まる。
それを、言われたくなかった。
「……副長は、私の世話係なので……」
震えないように言ったつもりだった。
でも、声が少しだけ掠れた。
アリシアは首を傾げる。
「世話係。そうですね」
そして、唇を柔らかく笑わせたまま言う。
「でも……世話係にしては、近すぎる気がしました」
胸の奥が冷たくなる。
(見られてた)
私は笑うこともできず、ティーカップを握りしめた。
アリシアは続ける。
「副長が優しいのは、騎士団の皆さまも知っています。
けれど……優しさは、ときに人を弱くします」
優しさは、人を弱くする。
それは否定できなくて、私は視線を落とした。
だって私は、ロイの優しさに救われているのに。
その優しさがなければ、立っていられない。
アリシアは私の沈黙を“正解”だとでも言うように頷いた。
「団長様は冷徹です。けれど正しい」
その言葉に、胸が痛む。
「聖女は戦力。倒れたら意味がない。
……厳しいですけれど、戦場では当たり前ですものね」
私は唇を噛みしめた。
(……当たり前)
そうだ。
だから私は頑張らなきゃいけない。
倒れたら終わり。
なのに――
私はまた、ロイの手の温かさを思い出してしまう。
(やめて)
考えちゃだめなのに。
アリシアは静かに言った。
「ミア様。あなたはきっと、とても真面目で優しい方」
優しい。
それも、言われ慣れていない言葉だった。
「だから……頼られると断れないのではありませんか?」
その瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。
断れない。
前世でもずっとそうだった。
私は息を吸って、でも言葉が出ない。
アリシアの瞳が、光の中で優しく細まる。
「ねえミア様。あなたは“聖女”でなくても、誰かに必要とされたかったのでしょう?」
――やめて。それを言わないで。
私はぎゅっと拳を握った。
指先が白くなる。
「……私は……」
声が震えた。
アリシアは優しいまま、追い打ちをかけるように囁く。
「だから、ロイ副長の優しさが心地よいんですよね?」
心地よい。
その言葉に、私は耐えきれなくなった。
「……違っ……」
違う、と言いたかった。
でも違わない。
だって私は、あの人がいないと怖いと思ってしまった。
涙がこぼれそうになる。
その瞬間――
温室の扉が開く音がした。
「失礼いたします」
低い声。
私は反射的に顔を上げた。
そこに立っていたのは、ロイだった。
外套の裾に、騎士団の紋章。
いつもの穏やかな表情――なのに、目だけが鋭い。
「ミア様。団長より、報告のためお呼びです」
それは“迎え”の言葉だった。
助けに来たわけじゃない、と言い訳できる言い方。
でも私は分かってしまった。
(……来てくれた)
アリシアは驚いたように瞬きをして、それから微笑む。
「まあ。副長様、お忙しいのに」
ロイは微笑まない。
ただ丁寧に頭を下げた。
「失礼いたします」
その一言で、温室の空気が変わった。
私は立ち上がり、かすかに足が震えた。
ロイが私のすぐ隣に立つ。
触れない。
触れないのに、守られている感じがした。
アリシアの声が背中に降りかかる。
「ミア様。またお話しましょうね」
私は振り返れず、小さく頷くことしかできなかった。
温室を出た瞬間、花の香りが途切れる。
廊下の冷たい空気が、肺に刺さる。
「……ロイ様」
私が小さく呼ぶと、ロイは一瞬だけ足を止めた。
「……大丈夫ですか」
その声は、いつもの優しさだった。
私は頷いた。
頷いたのに、涙が落ちそうになる。
「……すみません」
「謝らないでください」
ロイはそれだけ言って、歩く速度を少しだけ落とした。
私がついて行けるように。
それだけで胸が痛い。
(ありがとう)
今度こそ言いたい。
でも、言ったら泣いてしまう。
私はただ、ロイの背中を見つめて歩いた。
その背中が遠くならないことだけを祈りながら。




