冷たい正しさ
アリシアは微笑んだまま、私の手元――外套の端を“確認するように”一瞬だけ見た。
ほんの一瞬。
でも、見逃さない目だった。
「ミア様、今日の討伐……大変でしたでしょう」
柔らかい声。
労わるようで、距離が近い。
私は小さく頷いた。
「……はい」
「瘴気の核を浄化なさったとか。さすがですね」
さすが。
褒めているはずなのに、胸がざわつく。
アリシアは首を傾けて続けた。
「でも……ご気分が優れないようですね。お顔が少し青いです」
私は息を止めた。
(見られてる)
ロイが一歩、私の前に出る。
「ミア様は戦闘後です。休ませてください」
アリシアは驚いたように目を丸くして、それからすぐ微笑んだ。
「まあ……副長様は本当にお優しいのですね」
お優しい。
その言葉が、刃みたいに刺さる。
団長が口を開く。
「ロイ、下がれ」
ロイの肩がぴくりと揺れる。
けれど彼は黙って一歩退いた。
アリシアは私に向き直り、囁くように言った。
「聖女のお役目は、とても大切ですもの。無理をして倒れてしまっては……困りますよね?」
困る。
その言い方が、私を“戦力”として見ているのが分かって、息が苦しくなる。
「……気をつけます」
やっとそれだけ言うと、アリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。良かった」
そして、最後に一言だけ落とす。
「これからは私もおりますし、安心なさってくださいね。ミア様」
――私もいる。
その言葉が、優しい顔のまま押し付けられた。
私は笑えず、小さく頷いた。
背後で、ロイの拳が握られる気配がした。
王宮の離れに戻った頃には、空がすっかり暗くなっていた。
扉を閉めた瞬間、張りつめていた息が抜ける。
足元がふらついて、私はその場に座り込んだ。
(……終わったんだ)
無事に帰ってきた。
それだけなのに、涙が出そうになる。
部屋の中は静かで、燭台の火だけが揺れていた。
さっきまで耳に残っていた剣の音も、団長の冷たい声も、ここにはない。
私はベッドに手をついて立ち上がり、鏡の前に立った。
頬はまだ青白い。
目の下に薄く影があって、まるで別人みたいだ。
(私、本当に聖女なんだ……)
そう思って、胸がきゅっと縮んだ。
机の上には、メイドが置いていった湯と薬草茶。
湯気が立っているのに、手を伸ばす気力もない。
その代わり、私は自分の手を見つめた。
指先が、まだ温かい気がする。
ロイの手。
触れそうで、触れなかった距離。
(……あんな顔、ずるい)
優しいのに。
苦しそうで。
私のために抑えているのが分かってしまって、胸が痛くなる。
――コンコンコン。
扉が叩かれて、私ははっと顔を上げた。
「ミア様。スープをお持ちしました」
メイドだった。
私は小さく頷いて受け取る。
そして、どうしても聞いてしまった。
「……ロイ副長は?」
メイドは一瞬だけ迷う顔をして、それから丁寧に答えた。
「副長様は、団長様に呼ばれております。討伐の報告と、今後の方針の確認だと……」
呼ばれている。
団長に。
胸の奥が冷たくなる。
(……私のせいだ)
私が倒れたせいで。
私が弱いせいで。
メイドが退出して、また部屋に静けさが戻った。
私は湯を飲んだ。
苦い味が舌に残る。
それでも、頭の中に浮かぶのはロイの声ばかりだった。
「頑張らなくても、ここにいていいんです」
(嘘だよ)
頑張らなかったら、居場所なんてすぐ消える。
そう思ってしまう自分が、また怖い。
窓の外を見た。
遠くの廊下に、人影はない。
ロイが来る気配も、足音も聞こえない。
私はベッドの端を掴んで、小さく息を吐いた。
(……会いたい)
会って、何を言うの。
ありがとう?
それとも、ごめんなさい?
どちらも言えないのに。
ただ、あの手の温かさを思い出すだけで胸が痛くなる。
――今夜、ロイは来ない。
そう確信した瞬間、私は初めて「寂しい」と思ってしまった。
そしてそれが、ひどく怖かった。
廊下は冷えていた。
甲冑の継ぎ目に残る汗が、今になって肌を刺す。
ロイは団長の執務室の前で立ち止まり、息を整えた。
――コンコンコン。
「失礼いたします」
扉を開けると、灯りの下に団長がいた。
机の上には地図と報告書。
その横顔は討伐の最中と同じ、冷たく静かなまま。
「遅い」
「申し訳ありません」
団長は紙から目を上げない。
「聖女の状態はどうだ」
ロイの喉がわずかに詰まる。
「……かなり消耗しています。今夜は休ませるべきかと」
「想定内だ」
淡々とした声が返る。
ロイは拳を握りしめ、ゆっくり息を吐いた。
「団長。ミア様は……以前より聖力の扱いが不安定です」
団長のペンが止まる。
「不安定?」
「はい。出力が急に上がります。代わりに、反動が大きいようです」
団長はようやく顔を上げ、ロイを見た。
その視線は剣みたいに鋭い。
「だから倒れる、と言いたいのか」
「……そうです」
沈黙。
団長は低く告げる。
「ならば尚更、戦力としての価値は下がる」
ロイは一瞬、言葉を失った。
――価値。
またその言葉。
戦場では正しい。
でも、正しいだけで人は守れない。
「……団長」
ロイは押し殺した声で言った。
「ミア様は、道具ではありません」
団長の眉がわずかに動く。
「ロイ。お前は感情で動きすぎる」
「動いていません。……動けません」
ロイは言い切った。
「私は副長です。命令があれば従います」
団長はしばらくロイを見つめ、それから短く言った。
「ならば次からは倒れる前に止めろ」
ロイの胸が痛む。
止められるなら、止めている。
でも彼女は、止まらない。
頑張らないと居場所がないと信じている目をしている。
「……承知しました」
ロイがそう返すと、団長は紙に視線を落とした。
「聖女アリシアが王宮に来た」
ロイの呼吸が、わずかに乱れる。
「……はい」
「ミアが使えなくなった時の補填だ」
補填。
ロイの中で何かが冷えた。
「ミア様を……切り捨てるおつもりですか」
団長は顔を上げ、ロイを見た。
「使えないものは守れない。戦場ではな」
その言葉に、ロイは唇を噛みしめる。
――守る。
守ると言ったのは自分だ。
ミアを守ると言ったのに、
守るためにはもっと強くなければいけない。
「……失礼いたします」
ロイは深く頭を下げ、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、息が漏れる。
会いに行きたい。
今すぐ、ミアの部屋へ。
でも行ったら、彼女はまた無理をする。
優しさに縋って、立ち上がろうとする。
だから――行けない。
ロイは拳を開き、指先を見つめた。
あの小さな手が震えていたことを思い出す。
(……大丈夫だ)
心の中でだけ呟く。
――大丈夫にする。
誰にも聞こえない場所で、ロイは静かに踵を返した。




