淡い時間
朝の光が、薄くカーテン越しに差し込んでいた。
ロイは、先に目を覚ました。
腕の中に、温もりがある。
昨夜と変わらない体勢で、ミアが静かに眠っていた。
呼吸は穏やかで、規則正しい。
頬はほんのり熱を帯びたまま。
(……やりすぎたな)
そう思う一方で、
その体温がここにあることに、確かな安堵も感じていた。
騎士としての自制心と、一人の男としての欲。
その狭間で、わずかな後悔が胸に残る。
ロイは、起こさないように指先でミアの髪をそっと撫でた。
その動きに、ミアが小さく身じろぎする。
ゆっくりと、瞼が開いた。
「……ん……」
声にならない声。
まだ身体が重い。
ロイの魔力が、内側を巡っている感覚が、完全には抜けていない。
頭も、ぼんやりして、うまく考えがまとまらない。
ミアは視線を動かし、
すぐ近くにあるロイの胸元を認識してから、はっとする。
「……ロイ……?」
名を呼ぶと、すぐに返事が返ってきた。
「おはようございます、ミア」
昨夜とは違う。
からかうような響きも、追い詰めるような低さもない。
ただ、穏やかで、柔らかい声。
ミアは、ゆっくり顔を上げようとした。
しかし身体が重く目線だけでロイを見た。
「無理しないでください」
そのまま、包み込むように抱き寄せる。
「……まだ、ぼーっとしてますね」
ミアは、情けないと思いながらも、抵抗できなかった。
「……頭が……働かなくて……」
正直な言葉。
ロイは小さく笑い、ミアのおでこに額を寄せる。
「それでいいです」
囁くように。
「今は、何も考えなくていい」
手のひらで、背中をゆっくり撫でる。
魔力を流すわけでもなく、ただ落ち着かせるように。
「昨日は……頑張りましたから」
ミアの喉が、きゅっと鳴る。
「……頑張った、ですか……?」
「ええ」
即答だった。
「ちゃんと、ここにいます」
「逃げなかった」
その言葉に、ミアの目が揺れた。
ロイは、それ以上踏み込まない。
ただ、静かに甘やかすように、抱きしめる。
「……もう少し一緒にいたい……」
ミアの小さな本音。
ロイは、一瞬だけ目を伏せ、そして優しく首を振った。
「気持ちは同じですが、仕事に行かないと」
頭を撫でる。
「もう少し、寝ていてください」
名残惜しそうに、だが確実に距離を取る。
「起きたら、紅茶を用意してもらいます」
「今日は、ゆっくり休んでください」
ロイはベッドを離れ、身支度を整え始めた。
騎士服をきちんと着込み、書類を手に取る。
振り返り、もう一度だけミアを見る。
「……行ってきます」
ミアは、半分眠ったまま、かすかに頷いた。
扉が、静かに閉まる。
執務室には、すでに人の気配があった。
レオナルトは机に向かい、書類に目を通している。
「……早いですね」
ロイが声をかけると、レオナルトは顔を上げずに答えた。
「習慣だ」
一拍。
それから、ふっと空気が変わる。
レオナルトの視線が、ロイに向いた。
「……妙だな」
低い声。
「魔力の巡りが、落ち着きすぎている」
ロイは苦笑した。
「……察しますか」
「お前のことは、長いからな」
少し間を置いてから、静かに言う。
「ミアに、無理はさせてないだろうな」
責める響きではない。
確認だった。
ロイは、正直に答える。
「……正直に言えば」
一拍。
「手加減は、足りなかったかもしれません」
レオナルトの筆が、止まる。
目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……まったく」
だが、声に怒気はない。
「分かっていて、やるのがお前だ」
ロイは苦笑を深める。
「ええ。自覚はあります」
「なら」
レオナルトは視線を戻しながら言った。
「責任は、ちゃんと取れ」
「はい」
即答だった。
短い沈黙。
だが、その沈黙は、重くない。
「……戻ってきてから」
レオナルトがぽつりと言う。
「随分、賑やかだな」
ロイは、少しだけ微笑んだ。
「悪くないでしょう」
「……ああ」
そう答えたレオナルトの声は、どこか柔らかかった。
朝の王宮は、静かに動き始めていた。
昼過ぎ。
執務の合間を縫って、レオナルトは王宮の離れへ足を向けた。
急ぐ様子はないが、歩調は自然と速くなる。
(……起きているか)
扉の前で一度だけ立ち止まり、控えめにノックをする。
起こさないように、音は最小限に。
返事はない。
だが――中の気配が、完全に眠っているものではなかった。
「……入るぞ」
小さく声をかけ、扉を開ける。
ミアは、ベッドの上で上半身を起こしていた。
だが、明らかに様子がおかしい。
背筋は伸びきらず、視線も定まっていない。
「……ぁ……レオナルト、様……」
声に、力がない。
「起きたのか」
そう言いながら、すぐベッドの端に腰を下ろす。
「無理に起き上がったな」
「……ちょっとだけ……」
ミアはそう言って、眉をひそめた。
「起きたら……ぐわん、ってして……」
その言葉だけで、状況は察せた。
レオナルトは、ミアの様子を一瞬だけ魔力で確かめ、低く息を吐く。
「これは……」
小さく呟く。
「……かなり、やられたな」
ミアは、申し訳なさそうに視線を伏せた。
「……ロイの魔力……強くて……」
「止めようと思ったんですけど……」
「止まらなかった、か」
責める声ではない。
確認だけ。
ミアは小さく頷いた。
「……レオナルト様の時は……」
「強いのに……ちゃんと、調整してくれてたんだって……」 「今になって、分かりました……」
レオナルトは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……あいつは、加減を忘れる」
苦笑にも似た声音。
「特に……余裕がない時はな」
ミアは、少しだけ困ったように笑った。
「……はい……」
「気持ち悪さは?」
問いは短い。
ミアは、ゆっくりと首を横に振る。
「……ないです」
「ただ……力が、入らなくて……」
「ならいい」
レオナルトは、そう言ってから、少し姿勢を正した。
「目を閉じろ」
「……はい」
従う声は、素直だった。
レオナルトは、そっと手を伸ばし、ミアの肩口に触れる。
力は込めない。
流すのではなく――整えるための接触。
「今は、ロイの魔力が、主張しすぎている」
低い声で、ゆっくり説明する。
「お前の聖力と、ぶつかっているわけじゃない」
「……馴染みきれていないだけだ」
ミアは、目を閉じたまま、浅く呼吸をしている。
レオナルトは、意識を集中させ、静かに魔力を巡らせた。
押さない。
引っ張らない。
間に入り、流れを揃えるだけ。
「……どうだ」
「……あ……」
ミアの声に、少しだけ力が戻る。
「……頭と体が……すっきり、してきました……」
「だろう」
レオナルトは、さらに一拍だけ整え、そっと手を離した。
「これでいい」
ミアは、ゆっくりと目を開ける。
さっきまでの、ぼんやりした焦点の合わなさが消えている。
「……ありがとうございます……」
「礼を言うことじゃない」
きっぱりと。
「今日は、無理をするな」
「……はい」
「起き上がるのも、最低限だ」
「……はい……」
素直すぎる返事に、レオナルトはわずかに口元を緩めた。
「……分かったなら、それでいい」
立ち上がり、仕事へ戻ろうとして――
一度だけ、振り返る。
そして。
ミアの額に、軽く口づけた。
一瞬で終わる、触れるだけのキス。
「……ちゃんと、休め」
低い声。
ミアは、少し驚いたように目を瞬かせてから、頷いた。
「……はい……」
レオナルトは、それ以上何も言わず、部屋を出た。
扉が静かに閉まる。
ミアは、しばらくそのままベッドに座っていた。
(……ちゃんと、見てくれる……)
それが、今は何よりも心強かった。
身体を横たえ、深く息を吐く。
今度こそ、ゆっくり休めそうだった。




