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『ありがとうを知らない聖女』  作者: 音香(Otoca )


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代償

夜の静けさの中で、ミアはゆっくりと目を覚ました。


最初に感じたのは、身体を包む温もり。


腕。 呼吸。 鼓動。


顔を動かすと、すぐ隣にロイがいた。


背中からミアを抱き締めるようにして眠っている。


無意識のまま、守る位置を取るその腕は、まだ少し力が入っていた。


(……ロイ)


小さく身じろぎした、その瞬間。


「……ん」


ロイが、浅く息を吐いて目を開ける。


すぐに状況を理解したのか、安心したように目を細めた。


「……起きましたか」


声は低く、柔らかい。


ロイはそっと腕の力を緩め、ミアの頭を撫でる。


乱れた髪を整えるように、指先が優しく動く。


額に、軽く口づけ。


「……体調は?」

「どこか、苦しくないですか」


医師のようでもあり、恋人のようでもある問いかけ。


ミアは少し考えてから、静かに首を振った。


「……大丈夫です」

「それより……」


胸の奥が、静かに騒めいている。


今までとは違う感覚。


欠けていた場所が、塞がっていくような―― 曖昧だった感情が、はっきり輪郭を持っている。


(……戻ってる)


全部ではない。 でも、ほとんど。


ミアは、自分でも驚くほど、はっきりそれを理解していた。


そして――


「……レオナルト様は?」


その名を口にした瞬間、ロイの視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。


「……団長は」

「終わったあと、私室に戻られました」


事実だけの言葉。


けれど、声の奥に、わずかな感情が滲む。


ロイは、ミアの髪を撫でながら、静かに続けた。


「……少し、疲れていたようです」


ミアの胸が、きゅっと締まる。


(……そうだ)


さっきまで、あんなに近くにいたのに。

あんなに強く、確かに、求められていたのに。


ロイは、言葉を選ぶように、少し間を置いた。


(……求めていた)


確かに、あれは――


激しく。 真剣で。 抑えきれないほどの、熱だった。

それなのに。


(……行ってしまった)


ロイは、無意識のうちに、ミアを抱く腕に少しだけ力を込める。


「……」


言葉にはしない。

けれど胸の奥には、消えない感情が残っていた。


――さっきまで、あんなにも深く、彼女を求めていた男が。

――何事もなかったかのように、距離を取ったことへの、静かな痛み。


ミアは、その変化を感じ取り、ロイの胸にそっと額を寄せた。


「……ロイ」


小さな声。


ロイは一瞬驚いたように瞬きをしてから、ゆっくり息を吐いた。


「……大丈夫ですよ」


自分に言い聞かせるような声。


「今は……あなたが、ここにいる」


それだけでいい、と。


けれど。

ミアの中では、もう一つの温もりが、確かに残っていた。

抱き締める腕とは違う。 離れていく背中の、重さ。

部屋の空気には、まだレオナルト気配が残っている気がして。


(……探さなきゃ)


そう、はっきり思った。


守られるだけじゃなく。 与えられるだけでもなく。


今度は、自分が――


ミアは、静かに目を閉じた。



――――――


レオナルトは、私室の扉を閉めた瞬間、壁に手をついた。


呼吸が、浅い。


魔力を探る。


――ある。


確かに、まだ残っている。


だが、それは“使える力”ではなかった。


(……やはりな)


生み出す感覚が、ない。


湧き上がるはずの場所が、沈黙している。


魔力を生む“器官”が、壊れている。


「……終わったか」


呟きは、静かだった。


嘆きでも、怒りでもない。 ただの事実確認。



翌朝。


目は覚めた。

だが、身体は重い。


剣を取らずとも分かる。 魔力の反応が、ほとんどない。


流せる力は残っていても、増えない。 回復しない。


朝になっても、夜になっても、同じ量のまま。


騎士団長として必要な“基準”に、届かない。


(……辞めるしかない)


決断は、早かった。


それ以上、迷う理由がなかったからだ。



数日後。


正式な退職願は、極秘裏に処理された。


理由は「体調不良」。


王宮も、それ以上踏み込まない。 むしろ、都合が良かったのだろう。


レオナルトは最後の日まで、団長としての職務を全うした。


ミアとは、必要最低限しか会わなかった。


理由は、仕事。


「しばらく立て込んでいる」


その一言で、すべてを済ませた。


彼女に、余計な負担を背負わせたくなかった。


(……知らなくていい)


守るために、距離を取る。


それが、最後まで変わらない彼の選択だった。



出立の前日。


ミアにだけ、短く伝えた。


「しばらく、アイゼン領に行く」 「領地の件でな」


それ以上は、言わない。


団長職を辞めたことも。

戻らないかもしれないことも。


ミアは少し不安そうにしたが、強くは引き留めなかった。


――信じているからだ。



それが、胸に痛かった。


ロイは、すべてを察していた。


だからこそ、何も言えなかった。



自分が目標としてきた背中。

超えるべき存在。

守るべき盾。


その男が、誰にも真実を告げず、一人で去る。


(……ずるいですよ)


心の中で、そう呟く。


ミアを守るためだと分かっていても、 割り切れるものではなかった。



――――――


レオナルトは、アイゼン領の屋敷に戻った。


久しぶりの、静かな場所。


領主としての仕事は、問題なくこなせる。


書類。 采配。 交渉。


魔力を必要としない業務ばかりだ。


だが、身体は正直だった。


日に日に、倦怠感が増す。


胸の奥が、時折、軋む。


(……回復させなければ)


微かな魔力を、どうにか循環させようと試みる。


瞑想。 古い魔術書。 補助具。


あらゆる方法を試した。


だが――

魔力は、身体に馴染まない。


むしろ。


「……っ」


生成器官だった場所が、悲鳴を上げる。


鋭い痛み。


内側から、引き裂かれるような感覚。


魔力を流そうとするたび、 壊れた器官が、それを拒絶する。


(……再生しない、か)


床に膝をつき、息を整える。


魔力持ちの人間は、 完全にゼロになれば、生きていけない。


今は、まだ“かろうじて”残っている。


だが、このまま削れ続ければ――


(……それでも)


レオナルトは、ゆっくりと立ち上がった。


後悔はない。


ミアの心は、ほとんど戻った。

ロイも、支えになっている。


自分がいなくても、 世界は、回る。


(……それでいい)


そう、何度も言い聞かせる。


だが、夜になると、 どうしても思い出してしまう。


あの温もり。 眠る前の、静かな呼吸。 腕の中の重さ。


(……傍にいたかった……)


遅すぎる自覚。


それでも、選んだ。


壊れる役を。


静かな屋敷で、 レオナルトは一人、灯りを落とした。


光は、もう戻らないかもしれない。


だが――


それでも、彼は生きている。


守った未来の、その外側で。

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