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『ありがとうを知らない聖女』  作者: 音香(Otoca )


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欲の静寂

湖は、思っていたよりもずっと静かだった。


水面は風を映してきらきらと揺れ、遠くで鳥の声がするだけ。

王宮の喧騒が嘘のように、世界は穏やかだった。


「……綺麗ですね」


ミアが、湖を見つめながら言う。


「ええ。ここは人があまり来ません」

「私の好きな場所です」


ロイはそう言って、

馬から降りると自然な仕草で手を差し出した。


迷いはない。


女性を気遣うことが、癖のように身体に染みついている。


ミアは、その手を見て、ほんの一瞬だけためらい―― それから、そっと指を重ねた。


触れた瞬間、ロイの指がわずかに力を持つ。


逃がさないが、縛らない。

“連れていく”ための手。



二人は湖畔に腰を下ろし、籠を開いた。


簡単な食事。


けれど、風と水音の中では、特別に感じられる。


しばらくは、他愛ない話をした。


神殿のこと。

最近の体調。

団長の真面目すぎるところ。


ふと、会話が途切れる。


ミアは湖を見つめたまま、ぽつりと零した。


「……こうしていると、心が落ち着きます」


「私もです」


即答だった。


「あなたが、こうして笑っているのを見ると」


ロイは、言葉を選ぶのをやめた。


「……手放したくない、と思ってしまう」


ミアの肩が、わずかに揺れる。


「それは……」


「独占欲です」


はっきりとした言葉。


けれど、強引さはない。


「団長のように、抑え込むことはできません」

「あなたが欲しいと思ったら……そう思ってしまう」


ミアは、ゆっくりとロイを見る。


拒絶はない。 逃げもない。


ただ、少し潤んだ瞳で。


「……私も」


声が、震えた。


「ロイに、触れてほしいと思っていました」


その瞬間、ロイの中で何かが決壊した。


けれど、押し倒すような衝動にはならない。

代わりに―― そっと、確実に、ミアを引き寄せる。


腕の中に閉じ込めるようでいて、苦しくない。

身体を預けられる抱擁。


「……っ」


ミアの額が、ロイの肩に触れる。


「逃げませんか」


「……逃げません」


その答えを聞いてから、ロイはゆっくりと顔を上げる。


視線が絡む。


「愛しています」


「…私も……愛しています……」


焦らさない。

確認するように、額に軽く口づける。


それから―― 深く、長いキス。


急がない。 何度も、唇を重ねる。


ミアの背に回した手が、自然と位置を探し、 女性を安心させる場所に落ち着く。


「……ん……」


小さく漏れる声。


ロイは、そこで一度だけ離れた。


「……嫌なら、止めます」


その問いは、優しいが、覚悟を含んでいた。


ミアは、首を振る。


代わりに、ロイの服を掴む。


「……もっと」


その一言で、ロイの独占欲は完全に形を持った。


再び、深く口づける。


今度は、逃げ場を残さない。

湖畔で、二人だけの時間。

誰の影も入らない、静かな甘さ。


それは―― 団長にはできない、距離の詰め方だった。



夕暮れ。


二人は、馬の背に揺られながら、王宮へ戻る。


距離は近い。 指先が、時折触れる。


何も言わなくても、通じている感覚。


ロイは衝動を理性で包み込み、


ミアは触れられた場所の感覚が消えないまま、


それでも心が満ちていることに戸惑っていた。



――――――


その頃、団長の私室。


レオナルトは書類を置き、窓の外を見ていた。


理由もなく、胸がざわつく。


(……今頃、どうしている)


答えは分かっている。

それでも、思考は止まらない。


(……独占されたな)


苦く、だが静かな自覚。


嫉妬はある。 欲も、まだ消えていない。


けれど――


(それでも、否定はできない)


ミアが誰かの腕の中で、 “守られる”のではなく、“選んで寄り添う”時間。


それを奪う権利は、自分にはない。


レオナルトは目を閉じ、深く息を吐いた。


(……これは、試されているな)


共有を選んだ覚悟を。


欲を知った男としての、在り方を。





王宮の離れに戻る頃、夕闇が静かに降りてきていた。


ミアはロイの隣を歩きながら、何度も自分の指先を見つめていた。


さっきまで、確かに誰かの温度を覚えていた場所。


「……ミア」


ロイの声は、穏やかだった。


「無理をさせたなら、言ってください」


それは謝罪ではなく、確認だった。


自分の独占が、彼女を縛っていないかどうか。


ミアは小さく首を振る。


「……いいえ」


そして、少し考えてから、正直に言った。


「大切に、されているって……感じました」


ロイの歩みが、ほんの一拍だけ遅れる。


「それなら……よかった」


それ以上、踏み込まない。


今日の距離を、今日のまま大切にする選択。

それが、彼なりの誠実さだった。




夜。


団長の私室に灯りが入る。


レオナルトは書類を閉じ、椅子の背に体を預けた。


胸の奥に残る、説明のつかないざわめき。


(……戻ったな)


気配で分かる。


ミアが王宮に戻ったことも、

そして――何かが変わったことも。



扉が控えめに叩かれた。


「……入れ」


ロイだった。


「ただいま戻りました。ミア様も、無事です」


「そうか」


短い返答。


だが、視線は自然とロイに向いた。


沈黙。


先に口を開いたのは、レオナルトだった。


「……湖か」


ロイは一瞬だけ目を瞬かせ、それから頷く。


「はい」


責める声ではない。


だが、試すような間があった。


「どうだった」


ロイは、逃げなかった。


「……大切な時間でした」


真っ直ぐな答え。


「彼女は、笑っていました」


その言葉に、レオナルトは小さく息を吐いた。


(……それなら、いい)


嫉妬がないわけじゃない。


だが、それ以上に――


彼女が“選んだ時間”を否定できない。



レオナルトは言葉を飲み込んだ。


「……ッ……」


元々二人は想い合っていた。

そこに割って入ったのは自分じゃないか……

そんな事を考え言葉に詰まってしまった。


「ロイも休め」


ロイは、深く頭を下げた。


対立はない。


ただ、同じ一点を守っているだけ。


その夜、ミアは自室で一人、胸に手を当てていた。


湖で感じた温度。


団長のそばで感じた重さ。


どちらも、本物だった。


(……私は)


誰かを選ぶことで、誰かを失うのが怖い。


けれど、選ばないままでいることも、もうできない。


半分戻った心が、静かに形を求めている。


「……欲の、波……」

自分でも驚くほど、はっきりとした言葉が浮かんだ。


欲しい。

守られたい。

触れたい。

それでも、壊したくない。


ミアは、ゆっくりと息を吸う。


(……時間をください)


誰にともなく、そう願った。




翌朝。


王宮はいつも通り動き出す。


平穏に見える日常の下で、

三人の関係は、確実に次の段階へ向かっていた。


独占か、共有か。


恋か、責任か。


答えは、まだ出ない。


けれど一つだけ、確かなことがある。


もう、後戻りはできない。


それぞれの欲が、

静かに、しかし確実に――


重なり始めているのだから。

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