折られる盾
ロイが異変に気づいたのは、ほんの些細な違和感だった。
廊下ですれ違った瞬間。
いつもなら迷いなく進むはずの足取りが、一拍だけ遅れた。
「……団長?」
声をかけると、レオナルトは振り返る。
表情は、いつも通りだ。
背筋も伸び、視線も鋭い。
だが――
「何だ」
短い返答。
ほんの少し、呼吸が浅い。
(……無理をしている)
確信に近い感覚だった。
「少し、顔色が――」
「気のせいだ」
即答だった。
それ以上話を続けさせない声音。
ロイは、それ以上踏み込めなかった。
団長が“隠す時”の声だと、知っていたから。
数日後。
王宮から、正式な命令が下った。
名目は「確認」と「監査」。
だが実態は――拘束だった。
理由は曖昧。
書類は揃っているが、中身がない。
「前例のない魔力運用に関する聴取」
「聖女管理責任者としての適性確認」
そして――
「念のための拘束」
レオナルトは、何も言わずに従った。
抵抗すれば、
“やましいことがある”と証明するだけだと分かっていたから。
拘束は、理不尽だった。
王宮地下。
光の届かない部屋で、結界だけが淡く脈打っていた。
両手足は鎖で繋がれている。
レオナルトは、膝をついたまま顔を上げない。
両腕と胸元に刻まれた紋様が、ゆっくりと明滅している。
拘束具ではない。
魔力干渉具――魔力そのものに傷をつけるためのものだ。
「……まだ、耐えるのか」
低い声。
次の瞬間、結界が鳴った。
音ではない。
魔力が、内側から削られる感覚。
「……っ」
息が詰まる。
肉体ではなく、
“魔力回路”そのものが焼かれる。
剣で斬られるより、
呪いより、
はるかに厄介な痛み。
呼吸をするたび、魔力が逆流し、内臓を圧迫する。
(……なるほど)
思考は、まだ冷静だった。
(殺す気はない。折る気だ)
痛みに強い自覚はある。
それでも、視界の端が白く滲んだ。
「聖女に、触れるな」
「お前の独断は、王宮にとって危険だ」
「共有など、戯言だ」
言葉と同時に、紋様が強く光る。
魔力が、引き剥がされるように震えた。
「……っ、く……」
喉から、押し殺した息が漏れる。
これ以上続けば――
魔力が壊死する。
騎士として、魔力を持つ人間として、致命的な損傷だった。
それでも、レオナルトは言わなかった。
「……必要な処置だ」
その一言だけを、繰り返した。
その頃。
ロイは、王宮の回廊に立っていた。
顔色は悪い。
だが、背筋は崩れていない。
「副長殿、これ以上は――」
「下がりません」
声は、震えていなかった。
「団長は、違法な行為をしていない」
「命令違反もない」
「監査という名の拘束は、越権です」
若い。
だが、逃げない声だった。
「このまま続けるなら、正式に記録を残します」
「騎士団として、抗議します」
貴族たちの視線が、冷たくなる。
「……覚悟のない発言だな」
「覚悟はあります」
一拍。
「副長として、団長を守る責任があります」
拳は握りしめられていた。
爪が食い込み、血が滲む。
それでも、ロイは目を逸らさなかった。
「団長は、盾になっているだけだ」
「これ以上削れば、戻らない」
沈黙。
やがて――
「……解放しろ」
短い命令。
それ以上の言葉はなかった。
謝罪も、説明もない。
拘束が解かれた瞬間。
レオナルトは、一歩踏み出そうとして――崩れた。
「団長!」
ロイが受け止める。
重い。
想像以上に。
「……ロイ……」
意識は、途切れ途切れだった。
「……ミアには……言うな……」
それだけを言って、完全に意識を失った。
私室。
寝台に横たえられたレオナルトは、三日、動かなかった。
四日目も、五日目も。
医師は首を振るだけだった。
「魔力損傷が深い」
「回復には、時間が……」
ロイは、レオナルトの私室に籠もった。
書類を片づけ、報告を代行し、団長の名で決裁を回す。
眠らない夜が続いた。
そして――七日目。
「……」
微かな息遣い。
ロイは、はっと顔を上げた。
「……団長?」
瞼が、ゆっくりと開く。
「……ここは……」
「私室です!」
ロイは、駆け寄った。
安堵と、怒りと、恐怖が、一気に溢れる。
「どれだけ……!」
「一週間です!」
「医師が……もう……」
言葉が、途切れた。
涙が、止まらなかった。
レオナルトは、少し驚いたように目を瞬かせる。
「……すまない」
掠れた声。
「……ミアには……言うな」
「……はい」
ロイは、頷く。
「でも……団長……」
感情が、堰を切った。
「こんなふうに倒れるの、初めてでしょう!」
「あなたがいなくなったら、どうすればいいんですか」
「一人で背負いすぎです!」
レオナルトは、苦笑に近い息を吐いた。
「……そうだな」
静かに続ける。
「……俺にも、限界はあるらしい」
ロイは、唇を噛んだ。
そして、はっきりと言う。
「……だからこそです」
視線を逸らさず。
「ミア様に、癒してもらってください」
一拍。
「それは、弱さじゃありません」
「三人で選んだことです」
レオナルトは、しばらく黙っていた。
やがて、低く答える。
「……分かっている」
それは、降参だった。
その夜。
ミアは、理由の分からない胸の痛みを感じていた。
ロイは、眠らないまま、団長の傍にいた。
レオナルトは、静かに思っていた。
――盾でいるだけでは、足りない。
守るとは、耐えることではなく、頼ることも含むのだと。
三人の想いは、まだ交わらない。
けれど確かに、同じ場所へ向かって、静かに、重なり始めていた。
夜半。
王宮の回廊は、ほとんど音を失っていた。
ロイは、静かに私室の扉を閉める。
「……ミア、こちらです」
小さな声。
ミアは一瞬だけ躊躇い、それから頷いた。
理由は、聞いていない。
けれど――胸の奥が、ずっとざわついていた。
(……呼ばれている)
そうとしか、思えなかった。
レオナルトの私室は、灯りが落とされていた。
寝台の上に横たわるその姿は、
いつもよりずっと静かで、脆く見える。
ミアは、息を呑んだ。
「……レオナルト様……?」
返事はない。
眠っている――が、深い。
魔力の流れが、ほとんど感じられなかった。
ロイが、小さく説明する。
「……王宮で、無理をしました」
「魔力に……直接、傷をつけられています」
ミアの胸が、きゅっと縮む。
(……だから……)
理由の分からない不安は、最初から彼女の中に流れ込んでいたのだ。
「……私に、できることは……」
「あります」
ロイは、はっきりと言った。
「団長は……あなたの魔力だけは、拒まない」
一拍。
「いえ……正確には」
「拒めない、んです」
ミアは、そっと寝台に近づく。
レオナルトの額に、触れる寸前で、手が止まった。
怖かった。
傷つけてしまうかもしれない。
拒絶されるかもしれない。
でも――
(……置いていかれたくない)
その想いが、足を進めさせた。
ミアは、静かに腰を下ろし、
両手でレオナルトの手を包んだ。
温度が、低い。
指先から、胸の奥が痛くなる。
「……レオナルト様」
呼びかける。
すると――
ほんの、わずかに。
彼の眉が動いた。
「……ミア……?」
掠れた声。
ミアの喉が震える。
「……はい」
それだけで、十分だった。
ミアは目を閉じる。
意識を集中させる。
治すためではない。
押し返すためでもない。
――寄り添うために。
ロイと繋がった時とは、違う。
もっと、静かで。
もっと、深い。
自分の魔力を“流す”のではなく“置いていく”感覚。
レオナルトの魔力の傷に、そっと触れるように。
(……痛かったですね)
言葉にはしない。
でも、感情は確かに伝わる。
すると――
レオナルトの呼吸が、ゆっくりと深くなった。
乱れていた魔力の流れが、少しずつ、整っていく。
「……無茶、するな……」
半分眠ったまま、呟く。
ミアは、微笑んだ。
「……それは、団長様の言葉です」
初めてだった。
こんなふうに、対等な声で返したのは。
レオナルトは、かすかに息を吐く。
「……すまない……」
その一言に、ミアの胸が、じんと熱くなる。
「……謝らないでください」
声は、小さいが、はっきりしていた。
「守ってくれたこと……」
「一人で、全部背負ったこと……」
言葉が、詰まる。
でも、続けた。
「……私は、嬉しかったです」
レオナルトの指が、わずかに動いた。
ミアの手を、握り返す。
力は、弱い。
けれど――
確かに、繋がった。
ロイは、その様子を少し離れた場所で見ていた。
胸の奥が、じんわりと温かい。
(……これが、癒しなんだ)
競うものじゃない。
奪うものでもない。
ただ――
必要な場所に、必要な人がいる。
それだけのこと。
しばらくして。
レオナルトは、完全に眠りに落ちた。
呼吸は穏やかで、魔力の流れも、安定している。
ミアは、そっと手を離そうとして――
止まった。
レオナルトが、眠ったまま、微かに呟いた。
「……離れるな……」
無意識の声。
ミアは、驚いて目を見開く。
ロイは、そっと視線を逸らした。
ミアは、ゆっくりと答える。
「……はい」
そのまま、手を握り続けた。
この夜。
レオナルトは、久しぶりに夢を見ない眠りに落ちた。
ロイは、初めて胸の奥から安堵した。
ミアは、はっきりと知った。
――癒すことは、
――与えることではなく、
――一緒に、在ることなのだと。
三人は、まだ完全じゃない。
けれど。
この夜を境に、「共有」は、ただの選択肢ではなく――
現実になった。




