逃げられない朝
馬車の外、馬の蹄が地面を叩く音が規則正しく続く。
先頭に騎士団長の黒馬が進み、他の騎士団員も続いて歩いていた。
胸がきゅっと縮む。
昨夜の冷たい視線が、脳裏に蘇る。
「……あの、ロイ副長」
私が声をかけると、ロイはすぐに視線を向けた。
その反応が優しすぎて、逆に怖くなる。
「どうしました?」
「団長様は……ずっと、あんな感じなんですか」
ロイは少しだけ沈黙した。
「……団長は、誰より部下を死なせない人です」
「え……」
「だからこそ、甘い言葉は選びません」
その言い方がどこか苦しくて、私はそれ以上聞けなくなった。
その瞬間、馬車が急に減速する。
外が騒がしくなり、甲冑が擦れる音が聞こえた。
「到着しました」
ロイの声が低くなる。
扉が開き、冷たい朝の空気が流れ込んできた。
目の前には、森――いや、森のように見える“黒い何か”が広がっていた。
地面に染み込んだような暗い靄が、木々の根元を這っている。
息を吸うだけで喉が痛い。
(……なに、これ)
「瘴気です」
ロイが短く言った。
「ミア様。ここからは私のそばを離れないでください」
頷いた瞬間――
「ミア様」
冷たい声が背中を刺した。
振り向くと、団長がそこに立っていた。
背の高い影が、朝の光を遮る。近くにいるだけで空気が重い。
「立てるな」
「……はい」
「ならば前へ。浄化の範囲は最前線寄りにする」
最前線――その言葉に、心臓が震える。
「団長、ミア様はまだ――」
ロイが口を開きかけた。
団長は一瞬も表情を変えず、ロイを見る。
「ロイ。情では守れない」
……情。
その一言が、ロイの言葉を止めた。
「……承知しました」
ロイはそう言って、私の前に立つ。
「ミア様。歩けますか」
私は頷いた。
歩ける……けれど、足の裏が震えている。
(怖い……)
でも、怖いと言ったら、ここでは役に立てない。
私はミアで――聖女で――治癒ができる。
そうでなければ、ここにいる意味がない。
騎士たちが前へ進む。
剣が抜かれ、金属音が森に響いた。
次の瞬間、靄がうねった。
黒い影が地面から立ち上がる。獣のようで、虫のようで、形が定まらない。
「来るぞ!」
誰かが叫ぶ。
剣が振り下ろされ、火花が散った。
騎士の一人が吹き飛び、地面を転がる。
「……っ!」
思わず息をのむ。
ロイが私の肩を支え、低く囁いた。
「見ないでください」
「でも……!」
「今は、あなたの仕事がある」
その声が冷静で、優しくて――私は頷くしかなかった。
斬っても、斬っても、黒い靄はまとわりつく。
そして、ついに――
「ぐぁっ!」
悲鳴。
倒れた騎士の鎧の隙間から、黒い染みが肌に広がっていく。
「穢れだ!」
ロイが一歩踏み出し、私を見る。
「ミア様」
私は喉を鳴らし、震える指先を握りしめた。
(やるんだ)
私は前へ出る。足が重い。
でも、一歩でも遅れたら、この人は死ぬ。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟き、手を伸ばした。
胸の奥に、熱が集まる。
空気の中に、柔らかい光が滲む。
(これが……聖力?)
私の掌からこぼれた光が、倒れた騎士を包んだ。
黒い染みが、ジュウっと音を立てて薄れていく。
傷が閉じていく感触が、指先に伝わった。
騎士は目を見開き、息を吸い込む。
「……助かった……」
その声はかすれていたけれど、確かに私に向けられた言葉だった。
「ありがとう……聖女様……」
胸が、ぎゅっとなった。
(ありがとう……)
私は、言われたことがなかった言葉を、今聞いている。
それだけで――泣きそうになった。
でも、涙は落とせない。
周囲ではまだ戦いが続いていた。
「こちらもお願いします!」
ロイが叫ぶ。
私は頷き、次の負傷者へ向かおうとして――
ぐらり、と視界が揺れた。
(……あれ)
足元が、遠い。
体の中の熱が一気に引いていく。
「ミア様!」
ロイの声が、遠くから聞こえた。
私は倒れそうになる身体を支えようとしたが――
足に力が入らない。
(……また、倒れるの?)
次の瞬間、誰かの腕が私を抱きとめた。
温かい。あの手の温かさだ。
「……言ったでしょう。無理をしないでください」
ロイの声が、すぐ耳元にあった。
「……でも」
助けたかった。役に立ちたかった。
そう言いかけた私を、ロイは強く抱き寄せた。
「十分です」
たったそれだけの言葉で、心がほどけそうになった。
遠くで団長の声が響く。
「戦線を押し上げろ。穢れを断て」
冷たい声。冷たい命令。
だけど、ロイの腕の中だけは――温かかった。
「……ごめんなさい」
私が絞り出すと、ロイは少しだけ目を細めた。
「謝る必要はありません」
「でも……私、また……」
「倒れるのは弱さではないです」
静かな声。
その言葉が、胸の奥にすっと入ってくる。
近すぎて、鼓動が聞こえてしまう。
(……近い)
なのに、不思議と嫌じゃなかった。
「ミア様」
ロイが、私の名前を呼ぶ。
その響きが丁寧で、それだけで胸が熱くなる。
「あなたは、今――“ありがとう”と言われて戸惑いましたね」
私は息を止めた。
見られている。
心の奥を、静かに。
「……分かるんですか」
「分かります」
迷いがない言い方だった。
「あなたは、誰かを救ったのに……救われた顔をしていた」
その一言で、涙が出そうになった。
私は慌てて顔を伏せる。
泣いたら迷惑をかける。泣いたら、また足を引っ張る。
そう思ったのに――
ロイの指が、そっと私の頬に触れた。
涙が落ちる前に、拭うみたいに。
「……泣いてもいいですよ」
低い声が、耳元で囁いた。
私は首を振る。
「だめです……聖女なのに……」
「聖女も、人です」
ロイはそれだけ言って、私の頭を軽く引き寄せた。
強くではない。逃げられる程度の力で。だから余計に、逃げられなかった。
(……この人、ずるい)
優しいのに。触れ方が丁寧なのに。
私の逃げ道をちゃんと残す。
その全部が、心をほどいていく。
「……私」
口を開いた瞬間、自分の声が震えているのが分かった。
「“ありがとう”って……あまり言われたことがなくて」
言ってしまった。
言った瞬間、胸の奥が痛い。
ロイの腕の中で、私は初めて「恥ずかしい」と思った。
情けない。みっともない。
でもロイは笑わなかった。
「……そうですか」
それだけ。
なのに、次の言葉が続いた。
「では、言わせてください」
ロイは私の目を見て言った。
「あなたがここにいてくれて、助かります」
その言い方は、職場で言われた“助かるわ”とは違った。
胸をすくうみたいに、軽くなる。
私は言葉が出なくて、ただ頷く。
ロイは少しだけ目元を柔らかくして、私の外套を肩にかけ直した。
「……今は休んでください。ここから先は私が守ります」
声の奥に、焦りが滲んでいた。
その一言が、私の中の何かを壊した。
今までずっと、守られる側になれなかったのに。
私は、小さく息を吸い込む。
(……ロイ様)
名前を呼びたくなった。
でも、呼んだらダメな気がした。
私たちはまだ、主と従者で、聖女と騎士で。
だから私は代わりに、口の中で小さく呟く。
(……ありがとう)
ロイは聞こえないはずなのに、少しだけ瞬きをした。
そして、ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ、私の手を握り返した。




