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『ありがとうを知らない聖女』  作者: 音香(Otoca )


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18/45

反撃の影

夜明け前の空気は、いつもより澄んでいた。


空が白む、その直前が一番いい。


アリシアは、誰もいない治療用テントの裏で立ち止まった。


足元に影が落ちる。


それは自分のものではない。


(……来てる)


呼んだわけじゃない。


けれど、黒は必ず応える。


アリシアは手袋を外し、指先を噛んだ。


一滴、血が落ちる。


血は地面に触れる前に――消えた。

吸われたのだ。


「……大丈夫」


誰に言うでもなく、そう呟く。


これは呪いじゃない。

殺しでもない。


――“戻れなくする”だけ。


アリシアは胸元から、小さな聖具を取り出した。


元は治癒用のもの。


だが今は、内側が黒く濁っている。


(守る力が、心の代わりになるなら)

(その心ごと、沈めればいい)


詠唱は、ほとんどない。

必要なのは言葉じゃない。

感情だ。


焦り。

恐怖。

嫉妬。

それらを、静かに混ぜる。


「……気づかれないように」


声は、祈りのようでいて、呪詛だった。


魔力は直接ミアには触れない。


守護聖力の“隙間”に染み込ませる。


水に落とした墨のように。


ゆっくり。


確実に。



(今すぐ倒れなくていい)

(戦って、称賛されて――その後でいい)



聖女は、結果でしか測られない。


だから。


(結果を出した“後”に壊れるのが、一番きれい)



黒い魔力は、

心臓ではなく、

頭でもなく――


“感情が芽生えかけた場所”に絡みついた。


そこが、一番脆い。


アリシアは、ゆっくりと息を吐いた。


不思議なほど、落ち着いていた。


「……目覚めなければ」


「誰のものにも、ならない」


その言葉と同時に、

聖具の中の黒が、ぴたりと静止した。


あとは、待つだけ。


守る者がいる限り、


気づくのは遅れる。


――それを、彼女は知っていた。



――――――


討伐前の陣形。


ミアは中央寄り、

その左右をレオナルトとロイが自然に固めていた。


言葉はない。


だが、誰が見ても分かる配置だった。


――触れさせない。


――近づけさせない。



ロイは剣を構えながら、視線だけで周囲を確認する。


(……団長と、同じ判断だ)


それに気づいた瞬間、胸の奥が微かに痛んだ。


だが今は、それでいい。


レオナルトは前を向いたまま、低く言う。


「ミア、無理はするな」


「はい」


感情のない声。


それでも、ミアは二人の間から一歩も外れなかった。


それが、答えだった。



討伐が終わり、陣が落ち着き始めた頃だった。


ロイは剣を鞘に収めながら、ふと足を止める。


(……?)


風向きが変わったわけでもない。


血の匂いでもない。


瘴気とも、違う。


――甘い。


わずかに、腐りかけた花のような匂い。


胸の奥が、ざわつく。


(……知っている)


理由は分からない。

記憶にも、名前にもならない。

けれど身体が先に反応していた。


ロイは無意識のうちに視線を巡らせる。


――ミア。


彼女は討伐後の処置を終え、静かに立っていた。



表情は穏やか。

魔力の乱れもない。


(……なのに)


近づくほど、匂いが強くなる。


それは外から漂うものじゃない。

彼女の内側から、滲んでいる。


ロイは、息を詰めた。


(……黒魔法)


確信ではない。


だが、治癒を長く扱ってきた騎士の感覚が、警鐘を鳴らす。


「……副長?」


部下の声に、ロイははっとして顔を上げた。


「……いや、なんでもない」


そう答えながらも、視線はミアから離れなかった。


(今は、表に出ていない)

(だが……潜んでいる)


それが、余計に不気味だった。



――――――


レオナルトも、少し離れた位置からミアを見ていた。


異変は、ない。


魔力循環も安定している。

守護聖力も、過剰ではない。


――それなのに。


(……静かすぎる)


討伐で力を使った直後にしては、回復が早すぎる。


疲労が、残っていない。


いや――


“残っているはずのものが、消えている”。


レオナルトの視線が、ミアの手元に落ちる。


指先。


微細な魔力の揺れ。


それは、治癒後に見られるものに酷似していた。


(……上書き)


思考が、冷える。


治癒に似せた魔法。


即効性がない。


だが、効果が出始めた時には、止めにくい。


(これは……)



(“効かせる”魔法じゃない)

(“待つ”魔法だ)


レオナルトは、ゆっくりと息を吐いた。



(今は無事に見える)

(だが、感情が戻った瞬間――)



守護聖力が反応し、その奥に仕込まれた“黒”が、噛み合う。


(……狙いは、心だ)


即死させない理由も、理解できた。


死ねば、原因を探られる。


だが、眠り続ければ――

「力の反動」で片づけられる。


レオナルトの視線が、自然とアリシアの立っていた方向へ向く。


(……やったな)


確信だった。


「ロイ」


低く名を呼ぶ。


ロイが振り向いた瞬間、その表情で察した。


――匂いに気づいている。


だが、ロイは“感覚”止まりだ。


全体像までは掴めていない。


レオナルトは、告げる。


「今は、騒ぐな」


「……団長?」


「これは即効じゃない」


一拍、置いてから。


「効くのは、後だ」


その言葉に、ロイの目が見開かれた。


レオナルトはミアへと歩み寄り、ごく自然な仕草で、外套を掛け直す。


守る動作に見せかけて、魔力を探るために。


(……間に合え)


祈りに近い思考を、誰にも悟らせず胸の奥に沈めながら。



――――――


討伐は、完璧だった。


ミアが展開した守護聖力は、


騎士たちを傷一つ負わせずに包み込み、魔物だけを弾いた。


「すごい……」

「これが、本物の聖女……」



賞賛の声が、自然と集まる。


アリシアは、微笑みながらそれを聞いていた。


(……ええ、すごいわ)


だからこそ。


(もう、十分)


人々は結果しか見ない。


代償など、気にしない。


――だから。


その力が“重すぎる”ことを、


身をもって知ればいい。


アリシアは静かな暗闇でミアを眺めていた。



――――――


討伐を終え、王宮への帰路。


レオナルトは迷わずミアを自分の馬に乗せた。


抱えるようにして。


周囲がざわつくのも構わない。


軽い。

あまりにも。


(……まただ)


この軽さを、もう何度目だろう。


ミアは何も言わず、ただ自然にレオナルトの胸元に身体を預けていた。


拒絶も、戸惑いもない。


それが、痛い。


「……少し眠れ」


「はい」


応える声は穏やかだった。



――その数時間後だった。


「……ミア?」

馬の揺れが、突然崩れた。


レオナルトが腕を締めた瞬間、ミアの身体から力が抜ける。


「っ……!」


呼吸が浅く、唇の色は紫色に変化していた。

脈が乱れている。



(……呪いだ)


即座に理解した。


ロイが馬に乗ったまま駆け寄る。


「団長、これは――」


「分かっている」


歯を食いしばる。


(遅かった)


守っていたはずなのに。


気づいていたはずなのに。


ミアは、意識を失ったまま動かなかった。



――――――


白い天井。


消毒薬と薬草の匂いが混じる、冷えた空気。


ミアは寝台に横たえられていた。


目は閉じたまま。

呼吸は安定している。


脈も、魔力循環も、異常はない。


「……生命反応に問題はありません」


治療師の声は淡々としていた。


「聖力の枯渇も見られませんし、外傷もありません」

「ただ……目を覚まさない理由が、分からないのです」


その言葉に、ロイは拳を握り締めた。


(分からない……?)


そんなはずはない。


突然、あの匂いの後で。


「……黒魔法の痕跡は」


声が低くなる。


治療師は一瞬だけ、言葉を選んだ。


「……薄すぎます。通常の検知では、ほぼ“残っていない”と判断されます」


ロイの胸が、嫌な音を立てる。


(消えている……?)


いや、違う。


“消えた”のではない。 深く、沈んだのだ。


ロイは、寝台の脇に立つ。


ミアの顔は穏やかだった。


眠っているだけのように見える。


「……ミア」


呼びかけても、返事はない。


(遅かった)


あの時、もっと強く止めていれば。


匂いに気づいた時点で、声を上げていれば。


後悔が、遅れて押し寄せる。


「……俺が、忘れていたせいで……」


言葉が、喉で途切れた。


その時。


「違う」


低い声が、室内に落ちた。


レオナルトだった。


彼は壁際に立ったまま、一歩も動いていない。


視線は、ミアから離れていない。


「お前のせいじゃない」


即座の断定。


ロイが振り向く。


「……団長?」


レオナルトは、静かに続ける。


「これは“そうなるように”組まれている」

「気づいても、止めにくい。止めても、証拠が残らない」


冷静すぎる声。


まるで――


最初から、この結果を想定していたかのように。


ロイの胸がざわつく。


「……最初から、分かっていたんですか」


問いというより、確認だった。


レオナルトは否定しない。


「“倒れる可能性”はな」


視線を、ミアの額へ落とす。


「だが……ここまで深く沈めるとは思わなかった」


その言葉に、ロイははっとする。


(……深く、沈める)


眠っているのではない。

閉じ込められている。


ミアの“意識”そのものが。


「……戻るんでしょうか」


ロイの声は、かすれていた。


レオナルトは、答えなかった。


代わりに、寝台へ歩み寄る。


手袋を外し、素手でミアの手を取る。


包むように。


確かめるように。


「……戻す」


低く、誰にも聞かせない声。


それは願いではない。


決定だった。


「時間はかかる」

「戻ったとしても……以前のままとは限らない」


ロイの胸が、締めつけられる。


「それでも……」


言葉を探す。


「それでも、俺は――」


「分かっている」


レオナルトは、ミアから目を離さずに言った。


「お前は、取り戻したい」


一拍。


「だが、俺は――生かす」


守る、とも言わない。

返す、とも言わない。


“生かす”。


その言葉の重さに、ロイは息を呑んだ。


(……温度が、違う)



自分は、感情の中にいる。


団長は、覚悟の中にいる。



同じ場所で、同じ彼女を見ているのに。


「……団長」


ロイは、絞り出すように言った。


「もし……彼女が、戻らなかったら」


その時。


レオナルトの手が、ほんのわずかに強くミアを握った。


「それでもだ」


即答。


「それでも、俺はここにいる」


視線は、逸らさない。


「心がなくても、眠ったままでも」

「それを“結果”として扱わせない」


ロイは、それ以上何も言えなかった。


ただ――


自分が今、

“取り戻す側”であること。


そして団長が、

“引き受ける側”であること。


その差だけが、はっきりと胸に刻まれていた。


治療室の灯りは、静かに揺れていた。



――――――


――懐かしい匂い。


薬草。

土。

風。


(……あれ?)


目の前にいるのは、泣きそうな顔の自分。


震えながら、誰かを見上げている。


『……怖い』

『でも、やらなきゃ』


それは、まだ感情があった頃の自分。

失う前の、自分。


ミアはその姿を、少し離れた場所から見ていた。


(……知ってる)


あの頃の自分を。


一生懸命で、

必死で、

誰かに必要とされたいと願っていた。


手を伸ばす。


触れた瞬間――


胸の奥が、微かに温かくなった。


(……あ)


分からない。

でも。


――懐かしい。



静かな部屋で眠るミアの指先が、ほんのわずかに動いたことを。



この時は、まだ誰も知らなかった。

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