心の不在
朝は、変わらず訪れた。
ミアは目を覚まし、身を起こし、外套を整える。
寝乱れた髪を直し、顔を洗い、指示された時間ぴったりにテントを出た。
遅れも、迷いもない。
「おはようございます、団長様」
澄んだ声。
穏やかな表情。
完璧な聖女。
レオナルトは、その姿を見て、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
(……今日も、同じだ)
昨日と同じ。
一昨日とも同じ。
そこに“揺らぎ”はない。
食事の時間もそうだった。
ミアは用意されたものを黙って口に運ぶ。
量も適切。
動作も美しい。
「……味はどうだ」
ふと、レオナルトが問いかける。
ミアは一拍も置かず答えた。
「問題ありません」
それだけ。
美味しいとも、まずいとも言わない。
好き嫌いも、感想も、ない。
ただ“摂取”しているだけだった。
周囲の騎士たちも、少しずつ気づき始めていた。
子どもが転んで泣いても、
ミアはすぐに治癒を施す。
けれど、頭を撫でることはない。
声をかけることもない。
「もう大丈夫です」
それだけで、次へ進む。
「……聖女様、少し変わったな」
小さな囁きが、野営地のあちこちに落ちていく。
レオナルトは、それを止めなかった。
止める理由が、見つからなかった。
昼前、ロイは武器の点検を終え、野営地を歩いていた。
視線が、無意識に探してしまう。
(……いる)
ミアは、簡易テントの前に立っていた。
背筋を伸ばし、指示を待つ姿勢。
ロイは、足を止める。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
(……話さなければ)
近づく理由を探す必要はない。
副長として、聖女の状態確認は正当な任務だ。
「……ミア様」
呼びかけると、彼女はすぐに振り向いた。
「はい、副長様」
微笑み。
完璧な、空っぽの笑顔。
ロイの喉が詰まる。
「体調は……」
「問題ありません」
「……不安は」
「ありません」
即答。
迷いのない声。
ロイは、言葉を失った。
(……違う)
思い出の中のミアは、こんなふうに答えなかった。
怖がりで、無理をして、でも必死で笑っていた。
「……俺は」
名前を呼びたかった。
謝りたかった。
抱きしめたかった。
なのに、口から出たのは――
「何か、困っていることはないか」
騎士としての言葉。
ミアは首を傾ける。
「いいえ。必要であれば、指示をください」
それは“頼る声”ではなかった。
“使われることを許可する声”だった。
ロイの胸が、きしむ。
(……俺は)
選ばれなかったのだと、はっきり理解した。
忘れられたのではない。
拒絶されたのでもない。
――もう、戻る場所ではない。
ロイは、それ以上何も言えず、踵を返した。
その背を、ミアは静かに見送る。
何も残らない視線で。
午後、王宮からの伝令が届いた。
「聖女ミアを、次の討伐にも同行させよ」
戦力として、必要だと。
ミア自身も、淡々と告げる。
「承知しました。準備いたします」
その瞬間、レオナルトが前に出た。
「行かせない」
空気が、凍る。
伝令の騎士が戸惑ったように言葉を探す。
「……団長、それは……」
「聖女は兵器じゃない」
低く、だが揺れない声。
「今の彼女を、戦場に出す意味はない」
「しかし……」
「俺が盾になる」
短く、断言。
周囲がざわめく。
それは命令違反に等しい発言だった。
ミアが、静かに口を開く。
「団長様。必要であれば、私は――」
「黙れ」
レオナルトは、初めて彼女を遮った。
ミアが一瞬、目を瞬かせる。
「……はい」
従順に、口を閉じる。
その様子を見て、レオナルトは理解した。
(……拒まれない)
彼女は、守られていることも、閉じ込められていることも、もう判断できない。
それでも。
それでも、行かせるわけにはいかなかった。
(ここから先は……俺が敵になる)
世界に。
理屈に。
正しさに。
それでも、選んだ。
夜。
ミアは、団長のテントの中で静かに座っていた。
「……何か、欲しいものはあるか」
レオナルトが尋ねる。
ミアは少し考えるような仕草をしてから、答えた。
「特にありません」
欲しい、という概念そのものが、欠けている。
レオナルトは、ミアの前に立つ。
守る位置に。
「……今日は、ここで休め」
「はい」
ミアは素直に横になる。
目を閉じるのも早い。
レオナルトは、その寝顔を見下ろした。
感情はない。
夢もない。
それでも。
手を伸ばし、そっと彼女の髪に触れる。
起こさないように。
逃がさないように。
「……俺がいる」
返事はない。
それでも、レオナルトはそこに留まる。
彼女の“心の代わり”になると決めた男の位置で。
レオナルトは、静かに息を整えた。
腕の中のミアは、相変わらず軽い。
抱いている感触はあるのに、抱き返される気配はない。
それでも。
(守るだけでは、もう足りない)
(触れたい。確かめたい)
(それが欲だと分かっていても――今は、抑えられない)
(……試す価値はある)
彼は決断するように、ミアの背に回した手に魔力を集めた。
戦闘用ではない、極めて繊細な流し方。
「……少し、触れる」
返事はない。
だが拒絶もない。
レオナルトはミアの額に自分の額を寄せ、呼吸を合わせる。
魔力を“与える”のではなく、“包む”ように。
ゆっくり、ゆっくりと。
胸元、肩、腕へと温度が巡る。
すると――
ミアの指先が、ほんのわずかに動いた。
「……っ」
気のせいではない。
反射でもない。
レオナルトの喉が鳴る。
「……ミア」
名前を呼ぶと、彼女の睫毛が微かに震えた。
次の瞬間、ほんの小さく、息が漏れる。
「……あ……」
それは意味を持たない音だったが、
確かに“前のミア”の名残だった。
レオナルトは、反射的に彼女の顎に指をかける。
「……まだ、いるな」
確信と祈りが混じった声。
そして――唇が重なった。
「……っん……」
深いキス。
急がず、逃がさず、確かめるような接触。
口づけは一度で終わらなかった。
唇から、頬へ。
こめかみ、瞼、耳元へと落としていく。
魔力を流しながら、触れる代わりに、キスで“存在”を伝える。
鎖骨に、肩に。
衣の上から、ゆっくりと。
決して欲望だけではない。
だが、欲が滲まないはずもない。
「……戻らなくていい」
囁きが、肌に落ちる。
「それでも……俺が、感じさせる」
その瞬間だった。
ミアの表情が、ふっと緩んだ。
感情がないはずの顔が。
空っぽのはずの瞳が。
とろけるように、甘く細められる。
「……レオ……」
名を呼ぶ声は、無意識だった。
ミアの身体が、わずかにレオナルトの方へ寄る。
額を擦り寄せるように、胸元に顔を埋める。
――甘える仕草。
心がないはずなのに。
判断も、意味もないはずなのに。
「……離れ、たくない……」
掠れた声。
レオナルトの呼吸が、一瞬だけ乱れた。
「……くそ」
低く吐き捨てるように呟きながら、
それでも腕は強く、確かに彼女を抱き締める。
「それは……反則だ」
だが、拒まない。
拒めるはずがない。
ミアは小さく身じろぎし、
まるで安心を探すように、レオナルトの外套を掴んだ。
守られている場所を、身体が覚えている。
「……大丈夫だ」
レオナルトは、囁くように告げる。
「心がなくてもいい。
今は――俺が、代わりになる」
額に、もう一度だけ深く口づける。
それは誓いであり、
欲であり、
逃げ場を塞ぐ覚悟だった。
ミアは、答えない。
それでも、彼の腕の中で、
確かに“甘えるように”眠りに落ちていった。
レオナルトは、その寝顔を見つめながら、理解する。
――戻る兆しは、ある。
だが同時に。
(……戻った時、俺はどうなる)
守る男の位置は、もう揺らがない。
欲してしまった以上、
もう“無関係な大人”ではいられないことも。
それでも。
彼は、腕を緩めなかった。
この温もりを、再び失うくらいなら。
――心の代わりでいる覚悟くらい、とうに、出来ていたから。
朝の野営地。
ロイは無意識に、団長のテントへ視線を向けていた。
理由はない。
ただ――近い、と感じた。
距離ではない。
空気だ。
(……近すぎる)
胸の奥が、ざらりとする。
昨夜から何かが変わった、と理屈抜きで分かる。
その時、テントの中からミアが出てきた。
一歩、二歩――
彼女は迷いなく、レオナルトの背後へ回る。
庇われる位置。
守られると、身体が知っている位置。
ロイの喉が、かすかに鳴った。
(……選んでいる)
言葉も、意識もないはずなのに。
それでもミアは、無意識にレオナルトの側を選んだ。
レオナルトは振り返らず、ただ一言だけ落とす。
「行くぞ」
ミアは静かに頷き、半歩遅れて続く。
その距離が、答えだった。
ロイは視線を逸らし、剣を握り直す。
――奪われた、という感覚だけが、はっきりと残っていた。




