譲れない位置
朝は、いつも通りに来た。
ミアは目を覚まし、身を起こし、外套を整える。
動作に迷いはなく、遅れもない。
「おはようございます、団長様」
声は澄んでいて、穏やかで、完璧だった。
――あまりにも。
レオナルトはその挨拶に、ほんの一瞬だけ視線を伏せる。
「……昨夜は、眠れたか」
「はい。問題ありません」
夢を見たか、とは聞かなかった。
もう“夢”という概念が、彼女の中にないことを知っているからだ。
食事も同じだった。
量も、速度も、栄養も、申し分ない。
だが。
味について、一言も口にしない。
「……ミア」
名を呼ぶと、すぐに顔を上げる。
「はい」
待機する兵士のような姿勢。
その姿を見て、レオナルトは拳を握った。
(これが……守った結果か)
感情を失った代わりに、壊れない身体。
揺れない心。
命令に従う、理想の“聖女”。
だがそれは――
生きているとは言えなかった。
昼前、野営地に小規模な魔物の接近報告が入る。
討伐というほどでもない。
だが、油断はできない数だ。
「私も向かいます」
ミアが、当然のように言った。
「守護範囲を展開できます」
その声に、焦りはない。
死への恐怖も、怪我への不安も。
レオナルトは即座に遮った。
「行かせない」
ミアは、ほんの少しだけ首を傾げる。
「理由をお聞きしても?」
責める調子ではない。
ただ、確認するだけ。
「……必要ない」
その言葉が、ミアの胸を打つことはなかった。
「承知しました」
従順に一歩下がる。
――それが、何よりもレオナルトの覚悟を試した。
(拒まれないということは……守っているのではなく、管理しているだけだ)
それでも、外に出すことはできない。
壊れた心に、これ以上の力を載せれば――
完全に戻れなくなる。
レオナルトは、ミアの前に立つ。
「……俺が行く」
「はい」
ミアは、何の感情も挟まず頷いた。
その背後で。
ロイが、その光景を見ていた。
討伐は短時間で終わった。
だが、その最中。
ロイは、魔物を斬り伏せた瞬間――
胸の奥を、鋭く貫かれた。
(……っ)
頭の奥が、焼ける。
視界が歪む。
――血の匂い。
――必死に伸ばされた手。
――泣きそうな声で呼ばれる、自分の名。
「……ロイ様……っ」
(ミア……!)
剣を取り落としそうになる。
その瞬間、胸に込み上げたのは――
恐怖でも混乱でもない。
怒りだった。
どうして、忘れていた。
どうして、気づかなかった。
そして――
(奪われていた)
記憶だけじゃない。
彼女の時間も、感情も、居場所も。
全部。
ロイは荒く息を吸い、顔を上げる。
視線の先にいるのは、守ると決めた男の背中。
団長――レオナルト。
(……俺は)
胸の奥が、焼けるように痛む。
これは嫉妬か。
後悔か。
それとも――
ようやく戻ってきた、“感情”か。
野営地に戻ると、ミアはいつもの場所にいた。
静かに立ち、指示を待つ姿。
ロイは、思わず足を止める。
名前を呼びたい。
抱きしめたい。
謝りたい。
なのに。
「……ミア様」
呼びかけた声に、彼女はゆっくりと振り向いた。
「はい、副長様」
完璧な笑顔。
――あの日と同じ、空っぽの目。
ロイの胸が、軋んだ。
(……遅かった)
その様子を、レオナルトは黙って見ていた。
ロイの感情が戻ったことも。
ミアの心が戻らないことも。
すべて、理解して。
(……それでも)
レオナルトは、ミアの前に立つ。
守る位置に。
ロイの視線が、そこに刺さった。
「……団長」
低く、抑えた声。
レオナルトは振り返らない。
ミアを背に庇ったまま、短く答える。
「下がれ」
命令だった。
ロイの喉が鳴る。
「……彼女は、私の――」
言い切る前に、遮られた。
「“だった”話だ」
冷たい声。
だが、挑発はない。
事実だけを突きつける響き。
「今のミアは、俺が預かっている」
預かる。
その言葉が、ロイの胸を刺した。
「返す気は……」
ロイが続けようとした瞬間、
レオナルトが、ほんのわずかに首を傾けた。
「戻るならな」
静かに。
「だが――戻らない間は、触れさせない」
ミアが、二人の間で首を傾げる。
「団長様……?」
その声に、レオナルトは一瞬だけ振り向いた。
「大丈夫だ」
短く、だが確かに柔らかく。
「お前は、何も気にしなくていい」
ミアは、理解できないまま頷いた。
「……はい」
その反応が、ロイの心をさらに締めつける。
レオナルトは再び前を向き、低く告げた。
「ロイ」
名を呼ぶ声は、騎士団長のものだった。
「取り戻したいなら、まず思い出せ」
挑発でも、試練でもない。
“条件”だった。
「奪われたままじゃ、届かないだろう」
ロイは、拳を握りしめる。
何も言い返せない。
それでも、視線だけは逸らさなかった。
レオナルトはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、ミアの前に立ち続ける。
守るために。
そして――
譲らないと決めた男の位置で。
愛するという感情が、
“奪い返すこと”ではないと知った上で。
(俺は、選んだ)
心を失った彼女を。
それでも、生きさせる未来を。
――この先、奪い合うことになるとしても。




