守った代償
討伐後の野営地は、異様なほど静かだった。
勝利の後にあるはずの安堵も、歓声もない。
ただ、焚き火の爆ぜる音と、夜風が布を揺らす微かな気配だけが残っている。
ミアは、団長のテントの中にいた。
椅子に座り、膝の上に手を揃え、背筋を伸ばしている。
怪我はない。顔色も悪くない。
――完璧だった。
完璧すぎて、胸が痛む。
「……ミア」
団長――レオナルトは、低く名を呼んだ。
反応は、すぐに返ってくる。
「はい。団長様」
声は穏やかで、丁寧で、曇りがない。
だが。
そこには“揺れ”がなかった。
怒りも、悲しみも、戸惑いも。
ただ、命令を待つ人形のような静けさ。
レオナルトは、無言のままミアの前に膝をついた。
視線を合わせる位置まで、わざと身を落とす。
「……痛むところは」
「ありません」
即答。
「怖くは」
「ありません」
迷いも、何もない。
レオナルトの喉が、わずかに鳴った。
(……やはり)
守った。
確かに守った。
だが――
「ミア」
もう一度、今度は名前だけを呼ぶ。
「……レオナルト様」
それも、正確に返ってくる。
その呼び方が、今は残酷だった。
あの夜、縋るように、震えながら呼んだ名とは違う。
今のそれは、“識別音”に近い。
レオナルトは、ゆっくりとミアの手を取った。
戦場で剣を握るより、慎重に。
「……俺は」
言葉が、一瞬詰まる。
戦場でも迷わないはずの喉が、今日は動かなかった。
「お前を、守った」
ミアは首を傾ける。
「はい。助けていただきました」
礼を言うべき場面だと理解している。
だからそう返した。
だが、その返答に“重み”はない。
レオナルトは、その事実をようやく真正面から受け取った。
(……代償だ)
守護の魔力を渡し、心が砕ける直前まで囲い込み、
“外に出すな”と命じた。
結果――
ミアは生き残り、心を失った。
「……すまない」
思わず零れた言葉に、ミアは少しだけ目を瞬かせた。
「謝罪の理由が、分かりません」
その一言が、刃だった。
レオナルトは、ゆっくりと立ち上がる。
逃げるためじゃない。
泣きそうになる自分を、見せないためだ。
「……今夜は、ここにいろ」
命令。
「俺が見張る」
ミアは素直に頷いた。
「承知しました」
そのまま、布団に横になる。
目を閉じるのも早い。
まるで“眠る手順”を実行しているようだった。
レオナルトは、その横に腰を下ろす。
触れない。
抱かない。
ただ、そこにいる。
(……愛してしまったな)
気づいた瞬間、逃げ場はなかった。
返ってこないと分かっていても、
もう手放す選択肢は存在しない。
――――――
その頃。
野営地の端で、ロイは一人、剣の手入れをしていた。
動作は正確。
だが、何度も布を落とす。
(……集中できない)
胸の奥に、違和感がある。
討伐中、あの瞬間。
ミアが力を放った時――
一瞬だけ、頭の奥に“何か”が触れた。
柔らかい声。
必死に名前を呼ぶ響き。
(……ミア)
名を思い浮かべた瞬間、胸が痛む。
だが同時に、別の感覚が浮かぶ。
――温かい手。
――包むような光。
(……俺は、知っている)
何をかは分からない。
だが、彼女を知っているという感覚だけが、確かに残っていた。
そこへ、足音が近づく。
「ロイ」
アリシアだった。
「少し、いい?」
ロイは顔を上げる。
その瞬間、胸の痛みが――消えなかった。
(……?)
以前なら、彼女の声だけで楽になったはずなのに。
「……どうしました?」
距離を取ったまま、そう答えている自分に気づく。
アリシアの目が、わずかに揺れた。
「……まだ、辛い?」
「……分かりません」
正直な答えだった。
分からない。
何が欠けているのかも、なぜ苦しいのかも。
ただ一つ。
「……ミア様を見た時だけ、胸が痛みます」
その言葉に、アリシアの指先が僅かに震えた。
だが彼女は、すぐに微笑む。
「それは……戦場の後遺症よ」
(違う)
そう思った自分に、ロイは驚いた。
確信はない。
だが、否定だけが残る。
ロイは視線を逸らし、静かに言った。
「……少し、一人にしてください」
アリシアは何も言わず、踵を返す。
背中越しに、焦りの気配だけを残して。
――――――
夜は、さらに深く沈んでいく。
テントの中、ランプの灯りは落とされ、静寂だけが残っていた。
レオナルトは寝台の傍に立ち、眠るミアを見下ろしていた。
感情はない。
夢も、呼吸の揺らぎさえも、淡々としている。
それでも――
その無防備さが、胸を締めつけた。
レオナルトは手袋を外し、指先でそっとミアの頬に触れる。
起こさないように、確かめるように。
温かい。
生きている。
それだけで、喉の奥に何かが込み上げる。
「……それでも、守る」
低く、静かな声。
誓いというより、覚悟だった。
心を失った聖女を。
誰かの“結果”として消費される存在にはさせない。
それが、守った代償だとしても。
いや――自分が選んだ結果だからこそ。
レオナルトは腰を落とし、ミアの手を包み込む。
大きな手で、逃げ道を塞がないように。
だが、離れない位置で。
返事はない。
指先も、握り返さない。
それでも、レオナルトは親指でその甲をなぞった。
まるで――
感情が戻る場所を、覚えさせるみたいに。
「……俺が、抱いている」
誰に言うでもなく。
自分に言い聞かせるように。
守ることと、欲することの境界で。
レオナルトは、静かにミアを引き寄せた。
抱き締める腕は強くない。
けれど、確かに囲い込む。
胸元に額を寄せ、深く息を吸う。
彼女の匂いを、忘れないために。
「戻らなくてもいい」
囁きは、夜に溶ける。
「それでも――お前は、俺が生かす」
返事はない。
それでも、レオナルトは離さなかった。
夜が明けるまで。
彼女の“心の代わり”になると決めた、その腕で。
――この時は、まだ誰も知らなかった。
奪われたまま生きる選択が、いつか“取り戻すことさえ超える答え”になることを。




