消された記憶
扉に鍵をかけた。
それだけで少し安心してしまう自分が、情けない。
私はベッドの端に座り、膝に顔を埋めた。
(覚えてない)
覚えてない。
私のことだけ、綺麗に抜け落ちている。
まるで最初から、いなかったみたいに。
――――――
団長に呼び出されたあの日から何日経ったのだろう。
1週間? 2週間?
もう何も感じない。
――コンコン。
扉が叩かれた。
私は身体を強張らせた。
「……ミア」
団長の声。
心臓が跳ねる。
(今度は何を言われるの)
必要ない、と言われた。
もう戦力にならないって。
だから私はここに閉じ込められている。
私は小さく答えた。
「……どうぞお入りください」
鍵を開けると、団長が部屋に入ってきた。
いつもの冷たい空気を纏っている。
でもその目は、私を切り捨てに来た目じゃなかった。
団長は部屋を見回し、短く言う。
「……飯は」
私は視線を落とした。
「……食べてません」
「水は」
「……少し」
団長は眉を寄せた。
それは怒りじゃなくて、苛立ちでもなくて――
“困っている”みたいだった。
「失礼する。入るぞ」
団長は窓の方へ歩き、カーテンを少し開けた。
光が差し込む。
眩しくて、私は目を細めた。
団長は背中を向けたまま言った。
「聖力が出ないのは、心が折れているからだ」
私は息を止めた。
そんなことまで見抜かれるのが、怖い。
団長は続ける。
「……ロイの記憶は不自然だ」
私は顔を上げた。
「……不自然……?」
団長は淡々と言う。
「あいつが“聖女ミア”を忘れることはない」
断言だった。
冷たい声なのに、そこに妙な確信がある。
私は喉が震えた。
「ではなぜ……ロイ様は……」
団長は短く言った。
「まだ分からん。だが、意図的に消された可能性はある」
消された。
その言葉が、背筋を冷たくした。
アリシアの笑顔が浮かぶ。
優しい声。
鈴の音みたいな声。
“困ります”という言葉。
私は息を詰まらせた。
「……私、どうしたら……」
団長は私を見て、少しだけ目を細めた。
そして、いつもの命令口調で言った。
「泣くな」
そう言い団長は力強くミアを抱き締めた。
私は反射的に肩を震わせた。
「泣くなら、生きてから泣け」
生きてから。
その言葉が、胸に落ちる。
「お前が聖女である限り、お前の居場所は俺が決める」
冷たい言葉のはずなのに――
なぜかそれは、守る宣言みたいに聞こえた。
団長は私から離れ背を向けた。
扉の前で立ち止まり、最後に一言だけ落とす。
「……ロイは、戻す。必ずだ」
それだけ言って、団長は部屋を出て行った。
扉が閉まる。
静かになる。
なのに、胸の奥が少しだけ温かかった。
私は小さく息を吐いて、ベッドの端へ力なく座り、布団を握りしめた。
(……戻るの?)
ロイ様が。
私を覚えているロイ様が。
その希望が怖いのに――
私は久しぶりに、少しだけ泣けた。
――――――
執務室を後にし、廊下を曲がった先で、ロイは立ち止まった。
胸の奥が、嫌な痛み方をしていた。
傷が残っているわけじゃない。
呼吸も正常だ。
なのに――息を吸うたび、何かが引き攣れる。
(……さっきの)
聖女ミア。
あの瞳。
あの声。
泣きそうで、壊れそうで。
“知らないはず”なのに、見た瞬間だけ胸が痛くなる。
まるで、忘れてはいけないものを無理に押し込めたみたいに。
ロイは自分の胸元を押さえた。
(……なんだ、これ)
考えようとすると、頭の奥が鈍く痺れる。
思い出しそうになる瞬間だけ、霧が濃くなる。
そこへ、背後から柔らかい足音がした。
「ロイ……大丈夫?」
アリシアだった。
白い指が、当然みたいにロイの腕に触れる。
その瞬間、胸の痛みが少しだけ和らぐ。
――それが、怖かった。
(……彼女に触れられると、楽になる?)
アリシアは心配そうに眉を寄せて、囁く。
「まだ記憶が戻らないのね……」
“戻らない”。
そう言った彼女の声は優しいのに、
どこか確信が混ざっている気がした。
ロイは眉を寄せた。
「……私は、あなたのことを……」
言いかけて、言葉が止まる。
“恋人だ”と、口に出しそうになった。
でも、そう断言できる記憶はない。
ただ、そう思い込むには十分なくらい、
アリシアは“正しい場所”にいる顔をしていた。
アリシアはそっと微笑む。
「私、ずっとあなたのそばにいたわ。あなたが倒れた時も――起きた時も」
そう言って、ロイの頬に手を添え、唇を重ねた。
短い接触。
その瞬間、胸の痛みが消えた。
ロイの呼吸が、ほんの少しだけ整う。
(……やっぱり)
やっぱり、アリシアが正しい。
そう思わされる。
でも――
ロイの脳裏に一瞬だけ、別の温度がよぎった。
薬草の匂い。
小さな手。
震えた声で呼ぶ「ロイ様」。
次の瞬間、頭がずきりと痛む。
「……っ」
ロイが顔をしかめると、アリシアはすぐに腕を絡めた。
「無理しないで。思い出さなくていいのよ」
その言葉が、優しい形をした“命令”みたいに聞こえた。
ロイは笑えなかった。
ただ、胸の奥がまた痛む。
――さっきの聖女を見た時みたいに。
(……ミア)
名前だけが、喉の奥に引っかかった。
言葉にしたら壊れてしまいそうで、ロイはそれを飲み込んだまま、アリシアの手の温度に縋った。
自分が何を忘れているのかも分からないまま。
――――――
団長は騎士団宿舎の回廊を歩きながら、手袋を外した。
指先にはまだ戦場の土と、血の匂いが残っている。
それでも頭の中は冷えていた。
――ロイの傷。
完治している。
治癒としては完璧だ。
だが、団長の胸に残る違和感は消えなかった。
(傷は塞がった。……だが“記憶”が抜けている)
そんなことが、ただの負傷で起きるか?
団長は立ち止まり、窓の外を見下ろした。
訓練場。
騎士たちの声。
その中心でロイが剣を振っている。
いつも通りの動き。
戦える身体。
――それなのに。
団長の視線が、白い影を捉えた。
アリシア・ハインツ。
ロイの隣に寄り添い、当然のように笑う。
そしてロイも、当然のように受け入れている。
“当然”
それが一番、不自然だった。
(ロイは、軽い男ではない)
忘れていい相手なら、そもそも守らない。
近づける男でもない。
団長は目を細める。
そして、ふと気づく。
ロイの笑顔が、どこか硬い。
作り物じゃないのに、“噛み合っていない”。
その時、通りかかった騎士が小声で言った。
「……副長、最近胸を押さえる仕草が増えたな」
「傷は治ってるはずなのに……」
団長は足を止めた。
胸を押さえる。
――戦傷ではなく、反射。
“何かを思い出しかけた時”の痛み。
団長は静かに踵を返し、別の廊下へ向かった。
王宮の離れ。
聖女ミアの部屋の前。
扉の前に立つだけで、室内の気配が薄いのが分かる。
生きているのに、閉じている気配。
団長は低く言った。
「……ミア」
返事はなかった。
もう一度、扉を叩く。
「聖女ミア。生きているか」
しばらくして、ようやく微かな足音。
鍵が外れる音。
扉が少しだけ開き、青白い顔が覗いた。
「……団長、様」
団長はその顔を見て、一瞬だけ眉を寄せた。
(これは……折れている)
聖力が出ないのも当然だ。
団長は感情を隠し、淡々と告げる。
「質問に答えろ。お前はロイの治癒を試みたな」
ミアの瞳が揺れうつ向いた。
「……はい」
団長は続ける。
「その時――誰かが割り込んだか」
ミアの唇が震える。
答えが分からないのではない。
答えたくないのだ。
「……アリシア様が……」
団長は頷いた。
やはり。
「アリシアの治癒の光は、強すぎる」
ミアが顔を上げる。
団長は言葉を選ばず、冷たく言った。
「強い治癒は、命を救う。だが――“余計なもの”まで塗り潰すことがある」
ミアの目が見開かれた。
「……余計な、もの……?」
団長は短く言う。
「記憶だ」
部屋の空気が凍る。
ミアの喉が鳴り、涙が溜まる。
団長はそれを見ても、目を逸らさなかった。
「ロイが“お前だけ”を忘れている。偶然なら出来すぎだ」
ミアは小さく息を吸った。
「……私、のせいですか」
団長は即答した。
「違う」
その声は冷たくて、でも揺れなかった。
「お前が弱いから起きたことではない。誰かが、お前を消した」
ミアの肩が震える。
団長は最後に短く命じた。
「部屋から出ろとは言わん。だが――生きろ。折れたまま死ぬな」
そう言って、団長は踵を返した。
扉の向こうで、ミアの嗚咽が零れる。
団長は歩きながら、小さく息を吐いた。
(アリシア……)
聖女の力。
治癒の名を借りた、上書き。
そしてロイの胸痛――
それはきっと、記憶が死んでいない証拠だ。
団長の目が細くなる。
(戻す)
ロイも。
聖女も。
――俺が、戻す。




