深海で、私は花畑を知ってしまった
生き延びなければならなかった。
なぜ、そう思ったのか。今は、自分でも分からない。
そうしなければならない理由を、私は知らない。
それでも、その考えだけが、最初からそこにあった。
選んだ覚えはない。思い出した覚えもない。ただ、疑う前に、身体がそう動いていた。
生き延びなければならなかった。それだけが、今の私に残っている理由だった。
動くたびに、生命が削れる。
止まれば、もっと早く薄くなる。だから私は、重さを避け、濃いほうへ向かった。
動きながら、感じていた。
最初は、違和感だった。はっきりしない、ずれのようなもの。進むたびに、生命の流れがわずかに噛み合わない。その感触が、ずっと消えなかった。
通り過ぎながら、感じ分けていた。
ここは、軽すぎる。
進んでも、進んでも、触れたはずの生命が手応えを残さず抜け落ちていく。空腹だけが、わずかに強くなる。ここには、もう残っていない。
かつてあったものを使い切り、通り道としてしか機能していない。身体を動かすたび、削られる感覚だけが増していく。
そして――あちらは、溜まっている。
少し遠くに、何かがある。はっきりとは感じ取れない。光なのか、生命力なのか、それとも別のものなのか分からない。ただ、動くたびに、自分の存在だけが薄くなり、その何かには確かに近づいていた。
近づくにつれて、生命の重さが戻ってくる感じだ。動かず、逃げず、長い時間をかけて積もった場所のような気がした。
それが食べられるものなのかどうかは、まだ分からない。
ただ、近づくと、生命が戻る気がした。
私は、流れに逆らう動き方を、いつの間にか身につけていた。
正面から押し返すのではない。流れの強いところを避け、力の抜けたほうへ身体をずらす。
ときどき、身体を伸ばすように、内側から力を集める。背伸びをするような感覚で、全体を細く、長く保つ。
そうすると、一度の動きで、わずかに距離を稼げた。
無理に進まず、消耗の少ない場所だけを選びながら、伸びて、戻って、また伸びる。
いくつも試した末に、この動き方が、いちばん距離を稼げると分かってきた。
その先で、違和感が広がった。
なだらかな坂か、丘のような盛り上がりを越えた向こう側に、その正体がある気がした。見えないはずなのに、そこだけがわずかに隔てられている。近づけば確かめられる。けれど、確かめてしまえば戻れない気もした。
丘の頂に、なんとか辿り着いた。
空腹の感覚が、そこで一度、遠のいた。本能に押し出されるように、私は必死に身体を動かしていた。伸びて、戻って、また伸びる。その繰り返しの先で、ようやく越えた。
その瞬間、違和感の正体が、一気に広がった。
一点ではない。
線でもない。
面だ。
生命が、そこ一帯を覆うように、別の形で存在していた。濃く、静かで、動かない。
私は、止まった。
近くには、軽い生命が浮いていた。触れれば散ってしまいそうな、儚い存在。
淡く、儚いきらめきをまとった何かが、一定の距離を保ったまま、点々と漂っている。
ときどき、かすかに揺れ、きらりと瞬く。
光――と呼ぶには、あまりにも弱いもの。
ただ、周囲の生命を、ほんの一瞬だけ薄くする。
それらは、中心に近づかない。避けているわけでもない。ただ、触れないまま、漂っていた。
深海にいる、あの透明な生き物を思い浮かべた。形も輪郭も定まらず、流れに身を任せて浮かぶ存在に、どこか似ていた。
そして私は、理解できない重さを感じていた。
形は分からない。
色も知らない。
それでも、私は、そこにとてつもない生命力が宿っていると感じていた。
見たこともないはずの光景。
知っているはずのない場所。
それなのに、なぜか懐かしく、前から知っていたような感覚があった。
だから私は、そこを――
花畑だと思った。
なぜ、そう感じたのか。
なぜ、群れでも、岩でもないと分かったのか。
答えは、どこにもなかった。
ただ、生命が、咲いていると感じただけだ。
その重さは、ひとつ分ではなかった。
近づくほど、輪郭のない広がりがはっきりしてくる。点ではなく、面。個ではなく、場。たくさんの生命が、集まっているというより、最初からここに溜め込まれていたような感触だった。
私は、そこで初めて気づいた。
これは、一つではない。
同じ重さが、幾重にも重なり合い、途切れることなく続いている。どこまでが端で、どこからが中心なのか、分からない。見渡す限り、続いている。
深海の中で、ここだけが異様に広かった。
軽い生命たちは、その外側を漂っていた。近づきすぎず、離れすぎず、一定の距離を保ったまま、ゆっくりと流れている。ときどき、微かに揺れ、瞬くように周囲を薄くする。それ以上、何もしないようだ。
私は、動けなかった。
ここは、狩場ではない。生き延びるために、踏み込んでいい場所かどうかの判断もできなかった。
それでも、感じてしまった。
群生の中心から、わずかに外れた場所に、違う重さがある。
同じ濃さではない。少しだけ、軽い。けれど、薄いわけでもない。溜め込まれた生命の流れから、ほんのわずかに外れている。
そこにあるのは、一つ分の重さだった。
私は、生き延びるために動いてきた。ただ、それだけの理由だった。
けれど今は、違う。
なぜ、そこが気になるのか?なぜ、近づくべきだと感じるのか?
いくら考えても、答えは見つからなかった。
私は、群生から少し離れたその一つへ、向かってみることにした。




