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深海で、私は花畑を知ってしまった

作者: とも
掲載日:2026/01/16

生き延びなければならなかった。


なぜ、そう思ったのか。今は、自分でも分からない。


そうしなければならない理由を、私は知らない。


それでも、その考えだけが、最初からそこにあった。


選んだ覚えはない。思い出した覚えもない。ただ、疑う前に、身体がそう動いていた。


生き延びなければならなかった。それだけが、今の私に残っている理由だった。


動くたびに、生命が削れる。


止まれば、もっと早く薄くなる。だから私は、重さを避け、濃いほうへ向かった。


動きながら、感じていた。


最初は、違和感だった。はっきりしない、ずれのようなもの。進むたびに、生命の流れがわずかに噛み合わない。その感触が、ずっと消えなかった。


通り過ぎながら、感じ分けていた。


ここは、軽すぎる。


進んでも、進んでも、触れたはずの生命が手応えを残さず抜け落ちていく。空腹だけが、わずかに強くなる。ここには、もう残っていない。


かつてあったものを使い切り、通り道としてしか機能していない。身体を動かすたび、削られる感覚だけが増していく。


そして――あちらは、溜まっている。


少し遠くに、何かがある。はっきりとは感じ取れない。光なのか、生命力なのか、それとも別のものなのか分からない。ただ、動くたびに、自分の存在だけが薄くなり、その何かには確かに近づいていた。


近づくにつれて、生命の重さが戻ってくる感じだ。動かず、逃げず、長い時間をかけて積もった場所のような気がした。


それが食べられるものなのかどうかは、まだ分からない。


ただ、近づくと、生命が戻る気がした。


私は、流れに逆らう動き方を、いつの間にか身につけていた。

正面から押し返すのではない。流れの強いところを避け、力の抜けたほうへ身体をずらす。


ときどき、身体を伸ばすように、内側から力を集める。背伸びをするような感覚で、全体を細く、長く保つ。

そうすると、一度の動きで、わずかに距離を稼げた。


無理に進まず、消耗の少ない場所だけを選びながら、伸びて、戻って、また伸びる。


いくつも試した末に、この動き方が、いちばん距離を稼げると分かってきた。


その先で、違和感が広がった。


なだらかな坂か、丘のような盛り上がりを越えた向こう側に、その正体がある気がした。見えないはずなのに、そこだけがわずかに隔てられている。近づけば確かめられる。けれど、確かめてしまえば戻れない気もした。


丘の頂に、なんとか辿り着いた。


空腹の感覚が、そこで一度、遠のいた。本能に押し出されるように、私は必死に身体を動かしていた。伸びて、戻って、また伸びる。その繰り返しの先で、ようやく越えた。


その瞬間、違和感の正体が、一気に広がった。


一点ではない。

線でもない。

面だ。


生命が、そこ一帯を覆うように、別の形で存在していた。濃く、静かで、動かない。


私は、止まった。


近くには、軽い生命が浮いていた。触れれば散ってしまいそうな、儚い存在。


淡く、儚いきらめきをまとった何かが、一定の距離を保ったまま、点々と漂っている。


ときどき、かすかに揺れ、きらりと瞬く。


光――と呼ぶには、あまりにも弱いもの。

ただ、周囲の生命を、ほんの一瞬だけ薄くする。


それらは、中心に近づかない。避けているわけでもない。ただ、触れないまま、漂っていた。


深海にいる、あの透明な生き物を思い浮かべた。形も輪郭も定まらず、流れに身を任せて浮かぶ存在に、どこか似ていた。


そして私は、理解できない重さを感じていた。


形は分からない。

色も知らない。


それでも、私は、そこにとてつもない生命力が宿っていると感じていた。


見たこともないはずの光景。

知っているはずのない場所。

それなのに、なぜか懐かしく、前から知っていたような感覚があった。


だから私は、そこを――


花畑だと思った。


なぜ、そう感じたのか。

なぜ、群れでも、岩でもないと分かったのか。

答えは、どこにもなかった。


ただ、生命が、咲いていると感じただけだ。


その重さは、ひとつ分ではなかった。


近づくほど、輪郭のない広がりがはっきりしてくる。点ではなく、面。個ではなく、場。たくさんの生命が、集まっているというより、最初からここに溜め込まれていたような感触だった。


私は、そこで初めて気づいた。


これは、一つではない。


同じ重さが、幾重にも重なり合い、途切れることなく続いている。どこまでが端で、どこからが中心なのか、分からない。見渡す限り、続いている。


深海の中で、ここだけが異様に広かった。


軽い生命たちは、その外側を漂っていた。近づきすぎず、離れすぎず、一定の距離を保ったまま、ゆっくりと流れている。ときどき、微かに揺れ、瞬くように周囲を薄くする。それ以上、何もしないようだ。


私は、動けなかった。


ここは、狩場ではない。生き延びるために、踏み込んでいい場所かどうかの判断もできなかった。


それでも、感じてしまった。


群生の中心から、わずかに外れた場所に、違う重さがある。


同じ濃さではない。少しだけ、軽い。けれど、薄いわけでもない。溜め込まれた生命の流れから、ほんのわずかに外れている。


そこにあるのは、一つ分の重さだった。


私は、生き延びるために動いてきた。ただ、それだけの理由だった。


けれど今は、違う。


なぜ、そこが気になるのか?なぜ、近づくべきだと感じるのか?


いくら考えても、答えは見つからなかった。


私は、群生から少し離れたその一つへ、向かってみることにした。


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