ep55 灯る風
朝の光が甲板をやわらかく照らしていた。
晴れ渡る青空の下、スカイ・J・フェニックスは魔導音楽を奏でていた。
彼の周囲には、光の粒が舞うように現れ、小さな幻影が浮かび上がる。虹色の鳥が空を舞い、花びらが風に乗って子どもたちの周囲をくるくると回る。
「……ふふ。次は、この旋律。目を閉じて、風の音を聴いてみようか」
スカイの声は静かで、まるで耳元でささやく風のようだった。
子どもたちは彼の言葉にうなずき、目を閉じる。魔導音楽が描く幻想の中で、誰もが夢を見ているような表情を浮かべていた。
その時――
上層の甲板に、ロゼが姿を現した。
ゆっくりと手すりに近づき、そっと下を見下ろす。
そこには、楽しそうに歌い、踊る子どもたち。
そして、その中心で微笑む、あの人の姿。
スカイはすぐにロゼに気づいた。
「……ロゼ」
彼は迷いなく手を挙げ、笑みを向ける――が、ロゼは一瞬、顔を綻ばせかけて――すぐにその笑みを引っ込め、目を伏せた。
そして静かに、その場を去っていった。
「……?」
スカイは楽器の演奏を止め、小さく首を傾げた。
その瞳には、ほんのかすかな不安が宿っていた。
甲板の奥へ向かって歩くロゼの胸中には、悲しみと悔しさが渦巻いていた。
どうして自分は、ただ会いに行くことさえできないのだろう――そう自問しながら。
「もう、風にあたるのはいいのか?」
後ろから、レインの声が聞こえた。
「……ええ。もう充分ですわ」
ロゼは笑みを作ろうとしたが、それはどこかぎこちなかった。
レインはその様子を見て、何も言わずに後ろを歩く。
やがてロゼが自室の扉に手をかけた、その時だった。
「――待って」
静かに、でも確かに届く声。
ロゼがはっとして振り返ると、そこにはスカイがいた。
朝の光の中に立つ彼の姿は、どこか幻のようだった。
ロゼはその姿を見て、思わず笑みを浮かべ――
次の瞬間、何かを思い出したようにその表情を曇らせる。
「……どうしたの? さっきの君の顔……なんだか悲しそうだった」
スカイの声は、あくまでやさしい。
問い詰めるでもなく、追い詰めるでもなく、ただ、寄り添うような声音だった。
ロゼは目を伏せ、背を向けた。
少しの沈黙――
そして、震えるように、言葉がこぼれた。
「スカイ……あなたとはもう……会えません」
静かな朝の空気が、その一言を飲み込む。
スカイはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとレインに視線を向ける。
レインは目を伏せ、小さくうなずいた。サヤもルナベールも、何も言わなかった。
それだけで、スカイはすべてを察した。
彼はほんの一歩、前に進み――そして、ロゼの背中に手を伸ばした。
「……それが君の選んだ道なら、僕は否定しないよ」
ロゼの肩が、小さく揺れる。
「でも――君の声が迷っているのが、わかる。今も、さっきも……僕は、待ってる。たとえ何があっても、君の“歌”が、また空に響く日を」
ロゼの肩が、わずかに揺れた。
「……そんな日、来ないかもしれません」
か細くつぶやくロゼの声に、スカイはふっと微笑む。
「それでも……君が諦めないかぎり、僕も諦めないよ」
スカイの声音は穏やかだった。押しつけがましくもなく、決して責めるでもなく。
ただ、優しい光のように、迷いの中にいるロゼの心を照らしていた。
「……僕は知ってる。ロゼが本当はどう生きたいのか。歌を歌いながら、世界を巡って、誰かの心を動かして……それが、君の“夢”だってこと」
ロゼの胸に、熱いものがこみ上げる。
「……だけど、私は……その夢を、叶えようとしただけで、誰かを危険に晒してしまった。私のせいで……あなたにまで危険が及ぶかもしれない……」
スカイはゆっくりと首を振った。
「ロゼ。誰かのために夢を手放すのは、優しさかもしれない。でも――自分を犠牲にし続ければ、その優しさすら、いつか壊れてしまう」
そして、そっと彼女の手を取る。
「だから、僕はそばにいる。君がちゃんと、自分の足で立てるようになるまで。誰に何かを言われて君が悩もうと……僕は、君を置いていったりしない」
ロゼの瞳に、涙がにじむ。
「……どうして、そんなに……」
「それが、僕の“信じたいもの”だから。君の夢が、世界を少しでも変えることができるって……そう、信じてるから」
スカイの声は、あくまで静かに、けれど力強かった。
数歩後ろで、レインたちは静かに立ち尽くしていた。
サヤが何か言いかけて唇を噛み、ルナベールはそっと手を胸元で握りしめる。みんな黙って二人のやり取りを見つめていた。
その視線はどこか切なく、けれど温かかった。
スカイがロゼをまっすぐに見つめたまま、穏やかに口を開く。
「ロゼ。君が僕に“もう会えない”って言う理由……全部は分からないけど、それが“誰かのため”なら、きっと今、君はすごく苦しいはずだ」
心の奥に沈んでいた氷が、音もなくひび割れていくようだった。
ゼファルに「会うな」と命じられた瞬間、何もかもが終わったと思った。
声も、夢も、希望さえも――閉じ込められた檻の中に消えてしまったと思っていた。
けれど。
それでも手を差し伸べてくれる人がいる。
あの時、音楽とともに自分を救い出してくれた人が、変わらず目の前に立ってくれている。
そう思っただけで、胸の奥に小さな火が灯るのを感じた。
「……スカイ……私……」
ロゼは、言葉にならない想いを抱えながら、それでも口を開こうとした。
ロゼの視線が、静かにレインたち三人へと向けられる。
彼女の胸の奥には、まだ燻る迷いと――ほんの少しの、恐れがあった。
(私のせいで……また、あの人が銃を向けたら……)
そんな心の内を、レインは読み取ったかのように、そっと頷いた。
その瞳には「大丈夫だ」と言葉にしない安心が宿っていた。
「大丈夫だよ、ロゼっち!」
サヤが明るく笑って、両手を腰に当てる。
「ウチらの役目はロゼっちの護衛。なにがあっても守るんだから! お任せあれっ☆」
ロゼの目がわずかに見開かれる。
続いてルナベールが一歩進み出て、真っ直ぐにロゼを見つめた。
「はい。……今朝は、私たちも不意を突かれました。けれど、もしまたあのようなことが起きれば……今度こそ、迷わず全力でロゼさんを守ります」
その言葉に込められた覚悟に、ロゼの胸が熱くなる。
レインは、ゆっくりと頷いた。
「俺たちのことは、心配しなくていい」
そう語らずとも、彼のまなざしが確かにそう伝えていた。
ロゼは堪えきれず、一歩踏み出すと、レインたちに身体を向け――
深々と、頭を下げた。
「自分の……わがままで、あなたたちを危険にさらしてしまったというのに……」
そして、はっきりとした声で告げる。
「どうか……私の護衛、よろしくお願いします。今度こそ、私は――私の人生を取り戻します」
三人は驚いた。
初めて出会ったあの頃の、高慢で近寄りがたかったロゼとは別人のようだった。
しばらくの沈黙のあと、レインが前に進み出て、ひとつ頷く。
「その任務――確かに、承った」
短く、だが力強い言葉だった。
そしてスカイがそっとロゼに歩み寄る。
その目に浮かぶのは、深い慈愛と決意。
「僕も……ロゼを、最後まで守るよ。たとえ誰が相手でも――」
次の瞬間、ロゼの目から涙がこぼれた。
そして、ふたりはそっと――互いの温もりを確かめるように、抱き合った。
午前の空に、光が差し込む。
未来のどこかにある「希望」のような光だった。
だがその美しい情景を――
陰から、ひとりの男が見下ろしていた。
「……やはりな」
その口元には、皮肉にも見える微笑みが浮かんでいた。
「後悔するなよ? ロゼ……君が選んだ道なのだから」
ゼファルだった。
彼は静かにその場を離れ、風に翻るコートの裾を揺らしながら、影の中へと消えていった。
――まるで、何かを“仕込む”ような足取りで。




