ep53 危機
ズドン!!
「ぐっ……!?」
激しく振るわれたゼファルの腕。
それだけで、レインとサヤの身体が空中を舞った。
強烈な衝撃。
レインは地面に叩きつけられ、空気が肺から抜ける。
「きゃああああああああっ!!」
悲鳴が上がる。
気が付けばサヤはベランダの外へと投げ出されていた。
必死に手を伸ばし、かろうじて外壁の縁に指先だけが引っかかっている。
強風が吹き荒れる高空。サヤの身体はぶら下がった状態で左右に大きく揺れる。
「サヤッ!!」
レインが声を張り上げるも、身体が動かない。衝撃の余波で、まだ自由に立ち上がれない。
サヤの顔は真っ青だった。肩は震え、唇がわなわなと震える。
「た……高いの、ムリ……ムリムリムリっ……!」
彼女は高所恐怖症だった。それも、ひどいレベルの。
その恐怖が一気に限界を越えた。
サヤの手からは力が抜けかけ、腰は完全に抜け、ぶら下がるだけで精一杯。
今にも、指が離れそうだった――。
「た……たすけ……っ」
そのか細い声が風に消えかけた、その時――。
「サヤさん!!」
鋭く、力強い声が響いた。
ルナベールだった。
彼女はすでに走り出していた。ローブを翻し、一直線にベランダの縁へと向かって。
その動きに迷いは一切なかった。
「頑張って!」
ルナベールはその場でスライディングするように身を投げ出し、ギリギリの位置で手を伸ばす。
――バシッ!!
サヤの手を、しっかりと掴んだ。
「ルナちゃん!?」
「大丈夫! 絶対に、離しませんから!」
ルナベールの顔には焦りも恐れもなかった。ただ、真っ直ぐな意思が宿っていた。
その細腕に信じられない力がこもる。歯を食いしばりながら、全身を使ってサヤを引き上げようとする。
「っ……ご、ごめん、ウチ……怖くて……っ!」
「謝らないでください! サヤさんは、何も悪くない!」
風が強く吹く中、ルナの手からは魔力が溢れ出すように輝き、身体のバランスを保つように足元を固定した。
「今、引き上げます――っ!」
そして――
ルナベールは、サヤをしっかりと抱きとめながら、ベランダの上へと引き戻した。
ドサッ。
ふたりの身体が床に転がり、無事に戻ったことに、その場の空気が一気に安堵に包まれた。
「ルナちゃん……ルナちゃん……っ!」
サヤは涙をぽろぽろと流しながら、ルナベールにしがみついた。
「大丈夫です。もう、怖くないですよ」
その声はまるで、子守歌のように優しかった。
「……そうか……貴様らが、貴様らがロゼを唆したのか……! ロゼは普段私に逆らうなんてことはなかったのに……!」
ゼファルの視線が、レインたちを刺すように睨みつける。
その言葉に、ロゼが顔を上げる。
「違います、レインたちは――!」
しかしその言葉を、レインが遮るように口を開いた。
「そうだ」
立ち上がりながら、血のにじむ唇で微笑みを浮かべる。
「俺がロゼに言ったんだ」
その声は、痛みをこらえながらも、真っ直ぐに響いていた。
「ロゼは鳥籠の中の小鳥なんかじゃない。大空を羽ばたける――立派な翼を持った鳥なんだって!」
「……!」
ロゼの目が見開かれる。
その胸の奥で、何かが熱く弾ける。
レインは、痛む体を押して前へと一歩踏み出す。
「だから、自分らしく生きろって言った。自由に生きて、自由に恋をして。自由に――冒険をして。誰にも縛られずに。誰にも命令されずに」
その言葉は、かつてのロゼが夢に見ていた未来そのものだった。
ゼファルの顔に、にたりと歪んだ笑みが浮かんだ。
「……初めて会った時から、気に入らなかったのだ。その目、その態度、まるで私を見下すような……反抗的な小僧めが」
ゼファルの身体が――膨張する。
筋肉が不自然に膨れ上がり、首元から魔導の回路が浮かび上がる。それは軍人としての力の解放だった。
「貴様のような下賤の者が……! ロゼの心を惑わせた罪、思い知るがいい!!」
その時――
バキバキバキィッ――!!
「な、なんだッ!!」
ゼファルの身体が光と冷気に包まれ、瞬く間に氷の牢獄捕らわれた。肩、腕、足……ゼファルの全身が氷に縛られ、動きを封じられる。
「そこまでにしてください……ゼファルさん」
凛とした声で、ルナベールが警告する。
「これ以上仲間を傷つけることは許しません!」
しかし――ゼファルの瞳は怒りに燃えていた。
「貴様ッ……私に楯突くつもりか!? 依頼主であるこの私に!」
氷の中で、怒りの咆哮が響いた。
「私たちの任務はロゼさんの護衛……依頼主が誰であれ、本来の役目を真っ当しているだけです!」
ルナベールの声は震えていなかった。
「フッ……甘い!!」
ゼファルが吠えた刹那、筋肉の膨張とともに氷の檻がバキィン!と音を立てて砕け散った。
砕けた氷の破片が飛び散る中、ゼファルの姿が一瞬でレインの前に現れた。
ガシッ!
「グッ……!」
レインの首を掴んだ太い腕が、力強く持ち上げる。
「レインッ!!」
ロゼが叫ぶ。
レインの両足が宙に浮かび、喉が締め付けられ、苦しげな呻き声が漏れる。
「貴様さえいなければ……! すべてがうまくいっていたのだ……!」
ゼファルの手には、確かな殺意が宿っていた。
レインの身体が宙に浮く。首を締め上げられ、苦しげに喘ぐ彼を、ゼファルは狂気に満ちた目で睨みつけていた。
今にも、レインを空へ突き落とそうとするその手に――。
「待って!!」
ロゼの声が、鋭く響いた。
ゼファルの手が止まり、レインも、ルナベールも、サヤもロゼの方を振り向く。
ロゼは、震える指先を胸に当て、まっすぐゼファルを見つめていた。
「私……」
その言葉に、レインがかすれる声で首を振った。
「ダメだ……ロゼ……言うな……!」
だがロゼは、ひとつ深く息を吸い、はっきりと告げた。
「私には……心から、愛する人ができました」
ゼファルの驚愕の顔。
「なんだと……!?」
「その人のおかげで、自分の人生を、自分で選ぶことに気付けたの」
静かに、だが確かな声だった。
その瞬間、ゼファルの目が大きく見開かれる。
「……まさか」
ロゼの「歌手になりたい」「冒険したい」という言葉が、ゼファルの脳裏に焼き付いていた。そして思い浮かんだ男――
「まさか、あの音楽家か!!! そうだろ!?!!」
ロゼは答えない。ただ、真剣なまなざしでゼファルを見つめる。
その沈黙こそが、答えだった。
「うおおおおおおおっ!!」
ゼファルが咆哮し、レインを内側へと放り投げる。
レインの身体は窓ガラスに叩きつけられ、鈍い音を響かせて床に崩れ落ちた。
「クソッ……クソがぁあああ!!」
ゼファルは頭をかきむしりながら、近くにあった豪華な椅子に倒れ込むように座り込む。顔は怒りと絶望と混乱に歪んでいた。
その時、気を失っていたマリリアがようやく目を覚まし、辺りの惨状に息を呑む。
「ゼ、ゼファル様! どうか……怒りを鎮めてくだ――」
その言葉の終わりを待たずに。
カチャ
気付けば無数の魔法銃が、全員の眉間に突きつけられていた。
ゼファルの目がぎらぎらと光り、不気味な静けさが辺りを包む。
「……おまえたち全員……私からロゼを奪った罪……その命で償ってもらおうか」
彼の職業は《スナイパー》。その真の力が、今――解き放たれようとしていた。




