ep52 嫉妬
朝の光がベランダに差し込む。
白銀のティーセットがきらめく、豪奢な朝食のテーブル。
ロゼ、ゼファル、マリリアの三人が椅子に座り、優雅に朝食の時間を過ごしていた。
そして――何故か、立ったまま控える三人の護衛。レイン、サヤ、ルナベール。
レインとルナベールは張り詰めた空気に背筋を伸ばしていたが、サヤだけはまだ眠そうにあくびをかみ殺していた。
マリリアが切り出す。
「……昨晩は晩餐会を抜け出して、遅くまで一体どこで何をしていたの?」
その声には明らかな怒気がにじんでいた。
「そうだぞ、ロゼ。周りの貴族方も心配しておられたのだぞ?」
ゼファルの言葉に、ロゼはワインのグラスに口をつけるふりをして目を伏せた。
「ただ……船内を散歩していただけですわ」
それだけ言って、あとは沈黙。
レインとルナベールも、何も知らぬ顔で黙っていた。
だが――
「貴族の嗜みというものを少しは自覚しなさい。ゼファル様の婚約者として、妻としての心得がなっていないわ! そもそも女性としての振る舞いから――」
マリリアの声は、冷静さを装いながらも、どこか怒りと落胆を帯びていた。
「ロゼ、あなたは貴族の娘。どの場においても品位を保ち、誰よりも慎みをわきまえていなければなりません。食事の所作、言葉遣い、衣装の選び方にいたるまで――それはすべて“家”を背負う者の務めなのよ。勝手な行動を取るなどもってのほか。誰と手を取り合うかで、家と家との関係が動くのよ」
ゼファルも続けた。
「そうだ、ロゼ。君には君の責任がある。私の婚約者として、近い将来には“妻”として、きちんと振る舞ってもらわねば困る。私の横に立つ女性として、軽率な行動は慎みたまえ。昨晩のような行動は、周囲への配慮がまるでなっていない。君の行いは、周囲を困惑させ、恥をかかせるものだったんだよ。分かっているのかね?」
マリリアの口調がさらに厳しくなる。
「これ以上家名を汚すようなことは許しません。あなたの行動は、周囲の人間すべてに影響を与えるの。私たちの評判も、家の信用も、すべてはあなたの立ち居振る舞い一つにかかっているのよ」
小言、説教、命令。
それはまるで“自分の所有物”に施す手入れのような、無機質で一方的な押しつけだった。
「……っ、いい加減にして……ください」
バンッ!!
テーブルを叩いた衝撃音が、朝の空気を切り裂いた。
驚きに息を呑むマリリアとゼファル。
立ったまま見守っていたレインたちも、思わず背筋を正す。
「私は……っ、あなたたちの道具ではありません!!」
ロゼの声は、怒りと悲しみに震えていた。
でもその眼差しは、真っ直ぐにぶれなかった。
「いつだって“家のため”、 “婚約者のため”、 “貴族のため”。私はずっと、誰かの“理想の娘”でいなければならなかった……! でも、もう我慢できません。誰かに決められた未来を歩くだけの人生なんて、私はもう、うんざりなんです!」
その言葉に、マリリアが眉をひそめる。
「ロゼ……あなた、どうしたの。まるで別人のようじゃない……」
「……別人になったんです。たった一晩で変われるなんて、思ってもいませんでした。でも――私はもう、後戻りしないと決めました」
ゼファルが沈黙する中、ロゼは毅然とした表情で続ける。
「家のことなんてもう知らない。ゼファル……あなたとの結婚もしたくありません。私は誰かのために、自分を犠牲にしたりしない。私は……“自分の人生”を生きたい!」
しっかりと、胸を張って。
「私は……歌手になって、世界を冒険したいんです!」
それは、今まで一度として誰にも言えなかった夢。
でも今――自分の声で、初めて“世界”に放つことができた。
沈黙が流れる。
だが、その沈黙は恐れではなく、
ロゼの決意の強さが、場の空気を圧倒していた。
後方で見ていたレイン、サヤ、ルナベール――
三人は胸の奥で、叫ぶような拍手を贈った。
(よく言った、ロゼ……!)
しかしその直後、場の空気が一変する。
「わ、私と……け、結婚、したくない……だと?!」
ゼファルが椅子を引き倒すほどの勢いで立ち上がり、目を見開いた。額に汗を浮かべ、顔面は蒼白。まるで全身の血が一気に引いたかのような、現実逃避めいた動揺がその全てに滲んでいた。
「な、なにかの間違いであろう? そ、そうだ……! カッとなって、思ってもないことを口走っただけなんだろう……? ロゼ……?」
縋るような声で名を呼ぶ。
しかしロゼは一歩も引かなかった。
「もう結婚式の準備はできているんだぞ!? 招待状も送った、式場の装飾もすべて完成している! それも莫大な資金を投じて、盛大に――まさに我が家の名誉を懸けた式だ。目的地に着きさえすれば、すぐにでも……!」
その“完璧な段取り”に、ロゼは冷静な声で答えた。
「……お断りしますわ」
「な……」
「そもそも、私の意志など、最初から“介入の余地”などなかったじゃありませんか。私はただ、親と貴族の都合で“渡されるだけの存在”だった。でも今なら言えます――私は、あなたなんかと結婚したくない」
その瞬間。
ゼファルは、とんでもなく驚愕した表情で固まった。
口が半開きになり、瞳孔は震え、声にならない呻きが喉の奥でかすれる。
脳が理解するのを拒んでいるかのような、空っぽの時間が過ぎる。
ロゼの背は伸びていた。
その姿は、かつての“従順なお人形”ではない。自分の人生を、自分の声で勝ち取る一人の少女だった。
しかし次の瞬間――
「な……何を言っておるかァァァァ!!」
ゼファルの体から、凄まじい魔力が噴き出した。
怒りに染まったそのオーラは、突風となってテーブルを吹き飛ばす。皿が空に舞い、朝食は一瞬で滅茶苦茶になった。
「ゼファル様!おやめください!」
マリリアが止めようとしたが――
「黙れぇっ!!」
ゼファルの魔力が一閃し、マリリアが吹き飛ばされた。
ロゼが叫ぶ。
「お母様!!」
だが、ゼファルは止まらない。
一歩、また一歩と、ロゼに詰め寄ってくる。
ロゼは後ずさるが、背後はベランダの外、空しかなかった。
その時――
「そこまでだ!」
レインとサヤが、ロゼの前に立ちはだかった。
「あなたたち……!」
驚くロゼを背に、レインが鋭く叫ぶ。
「仮にも自分の婚約者に危害を加えるなんて、正気か!」
「ちょっと冷静になって、鏡で今の自分を見つめなおした方が良いんじゃない?」
「黙れえええぇッ!!」
ゼファルの怒声が響き渡る。
「ロゼは私のものだ! 誰にも渡さん! どこへも逃がさん!!」
狂気のような執着を浮かべたその瞳に、レインはぎゅっと拳を握り締めた。




