ep50 空と星
喧騒から離れたその場所は、まるで飛空艇の心臓が静かに呼吸をしているような、穏やかで澄んだ空間だった。
細長い通路の先。控えめな魔導灯が足元を照らし、風が静かに吹き抜ける。
ふたりが腰掛けた手すりの先には、漆黒の夜空がどこまでも広がり、星たちが瞬いていた。
遥か下には、過ぎ去る見知らぬ町の光。
まだどこかで音楽が鳴っている。けれど、それは夢のように遠く、心地よく響いていた。
「夜風が気持ちいいですわ」
「ここは僕の秘密の場所なんだ。たまに疲れたときに、ここに来て星を眺めるんだ」
夜風がやさしく髪をなでる。熱かった身体がすうっと冷まされていく。
ロゼは深呼吸しながら、ふわりと笑った。
「……私あんなに、心から楽しめたのは初めてでしたわ。いつもの舞踏会やパーティなんかより、ずっと、ずーっと楽しかった!」
その笑顔は無邪気で、どこか子どものようだった。
スカイはその横顔をやわらかく見つめて、ふっと笑った。
「うん、すごく楽しそうだったよ。君のお陰で、みんなもいつもより一段と楽しい時間を過ごせただろう。ありがとう」
「私は特になにも……」
「君がいるだけで、場の空気が変わった。みんなが笑ってた。きっと普段は交わることのない“上”の人が、心から楽しんで同じ場にいてくれたからだよ。君が大きな壁を越えて皆と触れ合ってくれたこと……それが、みんなすごく嬉しかったんだ」
ロゼは少し目を伏せ、そっと口を開いた。
「……私、今日やっと気づいたの。元々、同じ人間に“上”も“下”もないということを。皆が平等に同じステージに立っている……それを、身をもって知ることができたのは、スカイ……あなたのおかげですわ」
「ロゼ……」
スカイは目を細め、彼女の言葉を噛み締めるように頷いた。
「やはり僕の思った通りだ。ロゼ……君は他の貴族とは違う、特別な人だ」
きょとんとするロゼの横顔を、スカイはまっすぐ見つめた。
「あのランチ会での、君の僕を見る眼差し――それが、すべてを物語っていたよ。君の瞳はとても純粋で、澄んでいて……綺麗だった」
「あ、あ、あれは……べ、別にその、深い意味とかは……!」
ロゼの顔がぱっと赤く染まる。動揺を隠そうとしても、指先の震えすら伝わってくる。
そんなロゼの手を、スカイがそっと取る。
「そしてあの時の笑顔が、僕の心に深く残った。また見たいって、ずっと見ていたいって……そう思えたんだ」
「スカイ……」
その頬は淡い紅に染まり、胸の鼓動が早まるのが自分でもわかる。
夜の静寂が、ふたりの呼吸の音を際立たせていた。星明かりの下、見つめ合う瞳と瞳。心と心が、すうっと距離を詰めていく。
スカイが、ほんの少しだけ声を落として囁いた。
「どうやら僕は、人のことばかり気にして……自分の気持ちに、ずっと目を向けていなかったみたいだ」
「……え?」
「でも今なら言えるよ。僕は、君を――」
「……!」
声音はまるで、心の底から溢れてしまった“真実”のようだった。
――もう少しで、唇が触れそうな距離。
距離が縮まっていく。
顔と顔が重なるほどに近づき、吐息が触れ合うほどになった瞬間――
スカイの手が、そっとロゼの頬に触れる。
その優しさに、ロゼの瞳が揺れた。
ロゼの息が止まった。
鼓動が、耳の奥で鳴り響く。
唇と唇が、ふれあいそうになって……
そして――
「――あっ、あ……ああぁ……えっと! そ、その、楽器! 私も……引いてみても、よろしい?」
ロゼが慌てて顔を背けながら、ぎこちなく話題を変える。
もう一秒でも進んでいたら、本当に唇が重なっていた。
自分でも信じられないほどに、心がざわついていた。
スカイは一瞬驚き、そしてふっと吹き出す。
「ははっ……ロゼらしいな」
彼は背後の台座から、弓琴をそっと取り上げた。
「この子はね、僕が生まれた時から側にいた。人生を共に歩んできた、大切な宝物なんだ。……今まで誰にも触らせたことがない」
「……あら、そうでしたの」
ロゼの声に、どこか残念そうな色が混じる。
スカイは小さく首を振ると、目をまっすぐに合わせた。
「だからこそ――君に、触れてほしいと思ったんだ。僕の宝物に」
その言葉に、ロゼの瞳が大きく見開かれ、胸がぎゅっと鳴った。
その意味を、すぐに悟った。
楽器の話なのに、それだけではないと分かる。そう感じてしまった。
目元に涙が滲む。
「……スカイ……」
震える手で、スカイから弓琴を受け取るロゼ。
だが持ち慣れていないそれは、どこかぎこちなく、構え方すらおぼつかない。
「……あれっ、こう、ですの……?」
「ふふ、違う違う。持ち方は、こう」
スカイが、ロゼの後ろにそっと立ち、彼女の手を包むようにして導いた。
背中に伝わる鼓動。
重なる息遣い。
夜の星たちすら、そっと見守るように瞬いていた。
「っ……」
鼓動が速くなる。呼吸が少し浅くなる。
でも、嫌じゃない。不思議と落ち着く。むしろ、安心する。
「手を柔らかくして……弓を引くときは優しく、撫でるように……そう、その調子」
二人の鼓動が、次第に、ひとつのリズムに重なっていく。
ロゼはそっと目を閉じ、彼の手に導かれるまま、弓を滑らせた。
夜空に溶けるような、淡い音。
――その瞬間。
その優しくも幻想的な旋律が、ロゼの奥深くに眠っていた記憶の扉を叩いた。
空間に淡い光の粒子が揺らぎ、二人の周囲に幻想のようなビジョンが浮かび上がる。
そこには、陽の差す庭園でくるくると踊りながらワンピースを揺らし、無邪気に歌を歌う幼いロゼの姿。
『ロゼは本当に歌が上手だな。将来は一流の歌手になってそうだな』
穏やかな声が響く。父だった。
続いて、やさしく微笑む母がそっとロゼの髪を撫でる。
『ええ、きっとそうね。ロゼ、あなたの歌声はみんなを元気にさせる魔法のような歌だわ』
幼いロゼが、ぱぁっと笑って言う。
『わたし、大きくなったら、世界中で歌を歌って、みんなを元気にさせたい!』
父が膝をつき、娘と目線を合わせながら、心からの笑みを向ける。
『良い夢じゃないか。さすが、父さんと母さんの娘だな。その時を楽しみにしているよ』
――そして、記憶は静かに消えていく。
ロゼは弓を引く手を止めたまま、ふっと目を伏せ、深く息を吐いた。
こぼれた想いが、静かに胸を打つ。
「……そうだ。わたし……あんなふうに笑って、歌っていたんだ」
その淡い記憶は、星の彼方まで届くように、優しく、美しく――かけがえのない想いを奏でていた。




