ep49 小さな冒険
金糸のドレスの裾が、ほの暗い通路の床を滑るように揺れる。
ロゼはスカイに手を引かれ、螺旋階段をいくつも降りる。華やかな上層とはまるで別世界のような下層街へと足を運んでいた。露天の明かりが灯る通り、揺れる提灯、路地裏から聞こえる笑い声――
そこには、きらびやかさではなく、“熱”があった。
スカイが立ち止まり、少し先を指差す。
「着いたよ」
その先にあったのは、大きな木造の看板が揺れる一軒の酒場だった。
「<旅人たちの宿り木>」と書かれた看板の下からは、陽気な音楽と笑い声が漏れ聞こえる。
スカイはにっこり笑ってロゼに言った。
「ここはね、身分も年齢も関係ない。歌いたい人は歌い、踊りたい人は踊る。飲んで、語って、誰とでも一緒に笑い合える場所。ここに壁はないんだ」
ロゼは、しばらく酒場の扉を見つめていた。
扉の奥から響くリズムに、胸がわずかに高鳴る。
「……どうして、ここに?」
小さな声で尋ねると、スカイはすぐに答えた。
「冒険、したいんでしょ?」
「……冒険」
その言葉を、ロゼはかみしめるように繰り返す。
スカイはロゼの手を優しく握りながら、まっすぐに言葉を紡いだ。
「何も、見知らぬ土地や国に行くだけが冒険じゃない。“初めて”への挑戦が、小さな冒険になる。その積み重ねが、やがて君をどこまでも連れていってくれる大きな旅に繋がる。――ここは、ロゼにとっての“冒険への第一歩”なんだよ」
「……冒険への……一歩……」
ロゼの胸の奥が、ふるふると震える。
今までならば――貴族としての誇りを守るために、このような場所は「下品」だと見下していた。
だけど、今は違う。
私は変わりたい。
この足で、世界を知りたい。
自分の声で、誰かと繋がりたい。
――そう、自由になるために。
「……私、挑戦してみたい」
決意を込めて、ロゼは酒場の扉に手をかけた。
だが――
その瞬間、酒場の中の音楽がピタリと止まった。
ガタン、と誰かが椅子を引く音。
にぎやかだった空間が、一瞬で静寂に包まれる。
十数の視線が、扉に立つ“貴族の令嬢”を射抜いた。
ざわつく空気。好奇の目、驚きの目、訝しむ目――
貴族として君臨していた彼女に、さまざまな感情が突き刺さる。
ロゼは足を止め、小さく俯いた。心臓がドクン、とひときわ大きく鳴る。
先ほどまでの勇気が、潮のように引いていくのがわかった。
(……そうよ。私が変わったと思っても……この人たちが、貴族をどう思っているかなんて、わからない。この世界には、貴族に酷い扱いを受けた人もいるかもしれない。その中には、かつての“私”がそうだったこともあるかもしれない……)
ロゼは、踏み出しかけた足を戻した。
「……やっぱり、私には無理ですわ」
声が震える。
「たとえ私が良くても、お相手方が許してはくれませんもの……」
酒場の明かりが遠ざかっていくような感覚。
ロゼが身を翻そうとした、その時――
そのとき――
「ロゼ」
静かに、だがはっきりと呼ぶ声とともに、スカイがそっとロゼを引き寄せる。
「――あっ……///」
ロゼが驚いて顔を上げると、すぐそばに、スカイの穏やかな瞳があった。
「大丈夫――君は変わったんだ」
スカイの声は、まるで音楽のように優しく、力強かった。
「本当の気持ちをさらけ出せる自分になれた。誰かの期待じゃなく、自分のために“歌いたい”と願った。それは、何より強くて、尊いことなんだ」
「スカイ……」
ロゼの瞳が、また揺れる。
スカイは続ける。
「自分を信じてほしい時は、まずは――自分が相手を信じること。世界は、君を試すときもある。でも、拒み続けるだけじゃ届かない。だから、信じてみよう。君の想いが通じると。君の歌が届くと……」
その言葉に、ロゼは目を閉じた。
ゆっくりと、深く呼吸をし、もう一度、扉を見つめた。
「……行きますわ」
その声は震えていたが、確かだった。
ふたりの手が扉を押し開けたとき――中にいた誰かが、ポンと手を叩いた。
それを皮切りに、また一つ、そしてもう一つと、音が重なっていく。
弦が鳴り、笛が踊り、太鼓がリズムを刻み出し、酒場に再び音楽が戻る。
誰かが笑い、誰かが踊りだす。誰かがグラスを掲げ、笑顔が交わされるその空間は、誰のことも拒まない。そこは、まさに“自由”が息づく場所だった。
ロゼは――気づけば皆に迎え入れられていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――ぐい、と木のジョッキが差し出された。
「ほら嬢ちゃん、ここの名物“雷鳴エール”だ。今日は祝いだろ? 飲め飲め!」
「え、わたくしはその……まだお酒というものを……」
「そんなかしこまんなって! 祝い酒は誰でも飲んでいいもんさ! はっはっは!」
酒場のごつい男たちが大笑いしながら、ロゼのジョッキに泡立つ琥珀色の液体をなみなみと注ぐ。
横では陽気な音楽が高鳴り、リズムに合わせてスカートを翻す女たち、肩を組んで踊る男たちの輪が広がっていく。
スカイがそっとロゼの背中を押した。
「……冒険、だよ」
それだけを言って、彼は一足先に輪の中へと飛び込んだ。
弓琴を手に、軽やかに旋律を奏でながら、踊りの輪の中心で回転し、拍手を引き起こす。
ロゼはしばらく、その光景を呆然と見つめていた。
貴族の晩餐会では決して見たことのない、本物の笑顔。
階級も、肩書きも、衣服も関係ない。ただ“その瞬間を楽しむためだけの空間”。
ぐい、と再びジョッキを手渡される。
「ほら、一口だけでも!」
「……いただきますわっ!」
覚悟を決めて口をつけると、喉にしみるような熱と、ピリッとした刺激が広がった。
驚いて思わず咳き込むと、隣の女性が笑いながら背中をさすってくれた。
「最初はそうなるよね~、でもそれがまたクセになるのよ!」
「クセ……になる……ですのね……」
ロゼの口元が、ふっとほころんだ。
だが、それはたった“最初の一歩”でしかなかった。
「ほらほら嬢ちゃん、遠慮してたら損だよ!」
「あんた上でスカイ坊の演奏で歌ってた子だろ? すごい綺麗な歌声だったなぁ!」
「え、えぇ……ありがとうございます……」
次々と注がれる酒、かけられる言葉。
最初は戸惑い、腰が引けていたロゼだったが、その場の空気に引っ張られるように少しずつ笑顔を見せ始めた。
店の隅では誰かが弦を弾き始め、太鼓がリズムを刻む。
それに合わせて、客たちが自然と手を叩き、足を鳴らし、空気が一気にお祭りのような熱気を帯びていく。
気づけば、誰かが彼女の手を取っていた。
「はいお嬢さん、踊りましょ!こんなに綺麗な子が静かにしてるなんてもったいないよ!」
「えっ……!? でも……」
「いいから、いいからっ! ドレスでも大丈夫さ、ステップさえ踏めればいいんだから!」
「わ、私……踊りなんて、そんなっ……」
引っ張られるまま、ロゼは踊りの輪の中へ。
最初はぎこちなく、足がもつれそうになった。
でも――
徐々にリズムが身体に入ってくる。
音が、笑いが、光が、すべてが絡み合って、ロゼの足を自然に動かしていく。
クルッと回る。スカートが舞う。
誰かと手をつなぎ、くるくると輪になって踊る。
「きゃっ――!」
笑った。
声をあげて、心から、思い切り笑った。
まるで、身体の奥から“何か”が解き放たれたように。
「もっと飲め~!」と誰かがジョッキを渡し、「次は私と踊ってよ!」と子どもまでが手を引く。
そしてスカイがそっと手を差し出した。優しく、強く、彼女の手を取る。
「僕と一緒に踊ろう。心のままに――」
音楽が跳ねる。リズムが弾む。
ロゼの足が、一歩。二歩。ぎこちなく動く。
――だけど、それでもいい。
笑われるかもしれない、転ぶかもしれない。
でも今だけは、それでもいいと思えた。
スカイと手を取り合って踊るうちに、誰かが輪に加わり、また一人、また一人と賑やかな渦が広がっていく。
ロゼの髪がふわりと舞い、彼女の笑顔が夜の光に照らされた。
「っふふ……!」
口元が自然にほころび、次には声をあげて笑っていた。
遠慮も、恐れも、気遣いもいらない。ただ“楽しい”という感情だけが胸に満ちていた。
「歌ってくれ、嬢ちゃん!」
誰かがそう叫んだ。ロゼに視線が集まる。
ロゼは一瞬驚いたものの、もう逃げようとはしなかった。
「……ふふ。わかりましたわ。ほんの少しだけですからね?」
そして再び、演奏に合わせてロゼの歌声が酒場に響いた。
今度はただの披露ではない。“一緒に楽しむ”ための歌だった。
誰かが手を叩き、誰かがハモり、店中が一つになって笑った。
気づけばロゼの頬がほんのり赤くなっていた。けれどそれは酒のせいだけじゃない。
初めて、“自分”で選んでここに来たこと。初めて、心を開いて誰かと笑い合ったこと。
その全てが、彼女を自由にしていた。
夜は深まり、笑い声は絶えなかった。そしてロゼの胸には、小さな確信が芽生えていた。
――私は、ちゃんと「自分の人生」を歩き始めたのだと。
心から笑うこと、心から歌うこと。
そして、自分の声で誰かを笑顔にできるという、人生で初めての“歓び”を知った。




