ep47 歌姫
高鳴る心臓の音だけが、全身に響いていた。
ロゼはヒールの音も気にせず、ただ無我夢中で甲板を駆けていた。
揺れるシャンデリア、皮肉な笑い声、嘲るような視線、耳障りな称賛。
すべてを振り払うように、真っ暗な空間を目指して――辿り着いたのは、タイタニクスの船首だった。
夜の風が冷たく、頬を撫でてゆく。
空には満天の星。雲ひとつない紺碧の夜空が広がり、眼下には雲海が静かに漂っている。
世界はあまりにも広く、そして美しかった。
(……どうして、私は)
ロゼは手すりに手を添え、夜空を見上げる。
溢れ出す感情をどうしていいか分からず、目元に手を当てて呼吸を整えた。
夢も、自由も、望まなければ傷つかずに済んだのに。
それでも私は――
「ミャァ……」
足元からかすかに鳴き声が聞こえた。
「……え?」
視線を落とすと、手すりの隙間から小さな黒猫が顔を覗かせていた。乗員が飼っているのか、それともどこから紛れ込んだのか――毛並みのいい、美しい猫だった。
「こんなところで……寒かったでしょう?」
ロゼはしゃがみ込み、そっと手を差し出す。猫は一瞬身を引きながらも、やがてロゼの指先に鼻をすり寄せてきた。
ふっと、ロゼの顔が緩む。
「ふふ……あなたも、ここから逃げてきたの?」
黒猫をそっと抱き上げ、膝に乗せてやると、猫は心地よさそうに丸まり、喉を鳴らした。
「……羨ましいわ。自由で。気ままで……」
星空を見上げながら、ロゼは猫の柔らかな毛並みを撫で続けた。
その横顔は、さっきまでの冷たい貴族の仮面とは違う、年相応の少女のもの。
その時……
ぽろり――と、夜の静寂に、ひとしずくの音がこぼれ落ちた。
まるで星が呼吸するように、空気が震える。
弓琴の旋律が、夜風に乗ってそっと届いてくる。
それはどこか遠く、なのにすぐ隣にあるような音だった。
煌めく星々がそのまま音に変わったかのような、儚くて、優しい音色。
心の奥にしまい込んでいた、誰にも言えなかった願い――その扉を、そっとノックするような調べ。
ロゼはそっと目を閉じた。
その音は、慰めだった。
飾らず、裁かず、問いかけもせず、ただ寄り添ってくれる音。
自分が“ひとりではない”と、忘れかけていたことを思い出させてくれる音。
気がつけば――ロゼは呼吸に合わせて、かすかな鼻歌を口ずさみはじめてた。
「~~~~~~~」
それは言葉にもならない、かすかな声。
でも、確かに彼女の内側から生まれた“旋律”だった。
弓琴に導かれるように、メロディが自然と口元に宿る。
音をなぞるでもなく、真似るでもなく――
ただ、自分の心が感じたままに、音を乗せる。
誰かのためじゃない。評価されるためでもない。
自分のために、自分の心が歌いたいと思ったから――それだけの、まっすぐな歌。
音楽と声と心が、静かにひとつになっていく。
孤独が、ほんのわずかだけ溶けていった。
やがて、弓琴の調べがそっと静まり、夜の風だけが残された。
そのとき、背後からやわらかな声が降りてくる。
「君の声は、まるで――星が歌っているみたいだった」
月明かりに照らされる船首に、そこに彼はいた。
スカイ・J・フェニックス。
楽器をそっと抱き、まるで物語の一節のように佇んでいる。
その彼の声に、抱きかかえた黒猫は腕から逃げさってしまった。
ロゼははっとして振り返りかけた――が、途中でやめた。ロゼは慌てて目元に手をやり、こぼれた涙を隠すように拭った。
「……気のせいですわ」
短くそうだけ言い残し、ロゼはスカイの横をすり抜けようとする。まるで何事もなかったかのように。星空の下で涙など流していないと、そう言い聞かせるかのように。
だが――
「……歌手に、ならないのかい?」
その問いが、夜気の中で静かに響いた。
ロゼの足が、ぴたりと止まる。
背を向けたまま、返事はない。ただ、肩がほんのわずか震えていた。
しばしの沈黙。
甲板の風が二人の間を通り過ぎる。
「……どうして」
ロゼの唇が、微かに震えながら言葉を紡いだ。
スカイの声は変わらず穏やかだったが、その言葉は、まっすぐに心の核心を貫いた。
「だって、君の瞳、君の声……そして心の鼓動が、歌手になりたいって叫んでいるから」
それは、誰にも言われたことのない言葉だった。
いや、本当は誰かに言ってほしくて、ずっと、ずっと待ち続けていた言葉。
ロゼの喉が、小さく鳴る。
「……私は」
その言葉とともに、ロゼはゆっくりと振り返る。
もう、涙を隠そうともしなかった。
頬に伝う雫をそのままに、ただまっすぐにスカイを見た。
「……歌が、好き」
それは呟きだった。
だけど、誰よりも“自分自身”に向けた、本当の声だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
月明かりが、海のような夜空をゆったりと照らしていた。
星たちは瞬きを繰り返し、風は柔らかく、どこまでも穏やかだった。
船首の手すりに並んで寄り添うように、ロゼとスカイは立っていた。
「いろんな国を巡ったよ」
スカイは夜空を見上げながら、ゆっくりと語り始めた。
「雪深い北方の谷間ではね、寒さで声すら出なくなった人々が、小さな焚き火の周りに集まっていたんだ。そこで僕が弓琴を鳴らしたら、みんな黙って耳を傾けてくれて……気づいたら、誰かが涙を流してた。あのとき、言葉はいらなかった。ただ、音が心に届いたんだ」
ロゼはスカイの横顔を見つめながら、小さく頷いた。
「南方の海辺の町では、嵐で港が壊れて、人々の笑顔が消えていた。でも、船大工たちが肩を落としている場所で、僕が歌を歌ったら……工具を打つ音にリズムが戻ってね。やがて全員が口ずさむようになって、最後には復旧作業の音がまるで“合奏”になってたよ」
「……素敵」
ロゼが息を呑んだように呟く。
スカイは笑みを深めた。
「砂漠の市場では、言葉もまったく通じない相手だったけど、子どもたちが僕のリズムに合わせて踊り始めたんだ。その子たちのお母さんも、おばあちゃんも、みんな輪になって踊ってさ。気づいたら僕も混ざってた」
ロゼの瞳がぱぁっと輝いた。
「それで!? それでどうなったの!?」
思わず身を乗り出して聞く彼女は、もう“貴族の令嬢”ではなかった。星空の物語を夢中で追いかける、無邪気な少女のような表情だった。
「そしたら市場の長が現れて、『おまえには“旅人の歌紋章”を与える』って言ってくれてね。砂で作られた、崩れやすい小さな笛だったけど、それがね――人生で一番嬉しい報酬だったよ」
「……ああ……いいなぁ……!」
ロゼの胸の前で組んだ両手が、ふるふると揺れる。
「東の高原では、声を持たない民族がいてね。彼らは“音”じゃなく“光”で会話をする人たちだった。だから、最初は何も伝わらなかったんだけど……その地で奏でた音楽が、“風紋”として地面に広がって、彼らはその“揺れ”で感情を受け取ってくれたんだ。踊りながら笑ってくれて……。あれは、本当に奇跡だったよ」
ロゼは頬を紅潮させながら、目を輝かせていた。
もはや貴族の仮面などどこにもなく、心そのままの姿だった。
「……全部、音楽で……?」
「うん。言葉も文化も、魂の在り方すら違っていたのに――音だけは、どこでも同じだった。“音楽”はね、魂の形をしてる。だから、人は音に触れたとき、本当の自分を思い出すんだ」
「……すごい……」
ロゼは胸元に手を当て、静かに呟いた。
「ねぇ、スカイ」
「ん?」
「その旅の続きを……もっと聞かせて」
彼女は、心からの笑顔でそう言った。
「フフ……。そんなに興味があるなら、君も旅に出てみたら?」
冗談めかして言ったその一言に、ロゼの表情がふっと曇った。
「それは……できませんわ」
かすれるような声だった。
「どうして……?」
「私の人生は……もう他人によって決められています。婚約者と結婚し、家のため、夫のために尽くして、死ぬだけ。もし叶うのなら……この世界のあちこちを巡ってみたかった、あなたのように。でも……敷かれたレールから抜け出すことは、私には――許されないんです」
月の光だけが、彼女の影をそっと照らしていた。
しばしの沈黙。
風が衣を揺らし、海鳴りのような鼓動だけが胸に響く。
スカイはそっと口を開いた。
「ぼくが君の“音”を聞く限り――君はそういう人じゃない」
ロゼが、はっと目を上げる。
「縛られた……誰かに決められた人生を過ごして終わるような人じゃない。なにより、君の中にある“心の歌”が、世界に響き渡りたいと願っている。そして世界もまた、君の歌を聴きたいと、望んでいるんだ」
その言葉は、慰めではなかった。
音楽家としての予言のような響きすら帯びていて、ロゼの胸を強く打った。
「……!」
ロゼは思わず、スカイの顔をまっすぐに見つめた。
月の光がその瞳を照らし、まるで夜空の星が宿ったように揺れていた。
スカイはそっと弓琴を手にし、構えた。
「だから……聞かせてほしい。君の歌声を、君の本当の気持ちを――歌に乗せて」
ロゼは困惑したように目を伏せ、ほんのわずか後ずさる。
「わたしは、もう……歌うことなんて……」
声が震えていた。
「大丈夫」
スカイの声は、それでも変わらず穏やかだった。
「君の“願い”を、声に出すだけでいいんだ。それが、自然と“歌”になるのだから」
ロゼは胸に手を当てる。
そこに、確かに――まだ夢が息づいている。
「私の……願い……」
風が吹いた。
スカイが静かに旋律を奏でる。
淡い光が船首を包み込むように、弓琴の音が夜に溶けていく。
その音に導かれるように、ロゼは、目を閉じた。
そして――
ゆっくりと、口を開いた。
最初はかすかに、震えるように。
けれど、次第に音は広がり、波紋のように夜空へと溶けていった。
――それは、北峰の歌姫をも彷彿とさせる、澄んだ声だった。
星空をなぞるように、透き通り、どこまでも真っ直ぐで、揺るぎなかった。
“私は今 あなたに出会って
閉ざされてた扉が 音もなく開いた
誰かの期待に縛られたまま
微笑んでた私じゃないと 初めて知ったの
たった一人で 泣いた夜さえ
あなたの言葉が 光に変えてくれた
だから歌う この声で今
私という存在を この空に刻みたい
夢を見ても いいのでしょう?
この胸にある願いを 信じていいのでしょう?
どんなに遠く 未来が霞んでも
あの日交わしたまなざしが 私を照らすから
あなたがくれた 勇気の旋律
この歌に乗せて 世界へ届けるわ――”
その歌声は、言葉よりも確かに、世界に向かってそう叫んでいた。




