5分で読めるSS 「茫漠」
三つのキーワードから生まれるショートショート。
キーワード
「歯車」「戯曲」「終着駅」
※別名義Twitterに掲載したものの改稿版になります。
カチカチと、硬いものを打ち鳴らす音がしている。
駅のホームは閑散としていた。からりと乾いたコンクリート作りの床面に、まるで濡らした跡のように長く影が伸びている。
ベンチに腰掛け、前のめりに肘をついた私は、ただ遠くの空を、烏が飛んでゆくのを眺めているばかりだった。
「何かを、お待ちですかな?」
唐突にかけられた声に顔を上げれば、そこにいたのは駅員のようだった。三つ揃えを着込み、官帽を頭の上に載せていたが、ブリキを継ぎ接いで作られた丸い顔は、どう見ても人間に似せているようには見えなかった。
「待っているの」私は答える。「このレールの上を、電車以外の何かが通るのを」
「それは困りますな、猪や、熊でしょうか?」
「ううん、きっと、命あるものではないんだ。なんていうか、そう、一言で言うなら――」
――葬列。
そう口に出しかけて、思わず噤んだ。言わぬが花なり。弔いの鐘は、発した途端に音色を鈍らせてしまうのだ。
「ふむ、随分と難儀な話のようだ」
ブリキの車掌は、胸の中から鳴る歯車の音を、二度ほど響かせた。或いはそれは、彼にとっての心拍なのかもしれない。
油が足りないのだろうか、ギシギシと金属が軋む音が、ここまで響いてきた。
「本当に、あなたがそこに参列する必要はあるのですか?」車掌は首を傾げる。
「うん、私が見送らないといけないの。誰も送ってあげなかったら、思い出は水銀の川で迷ってしまうから」
「水銀、ですか。確かに、水の中はずいぶんと濁っておりますからね」
「でも、目を凝らせばしっかりと見えるの。溺れていく息の泡が、重い重い銀の波に飲まれてしまうのがさ」
命は、途絶えるときにこそ輝くものだ。
普段は草木に紛れてしまうほどにくすんでいたとしても、溺れる姿ははっきりと目に映ってしまう。だから、思い出が溺れる前に、まずは見送らないといけないのだ。
「それでも、さよならは寂しいのではないですか?」駅員は懐に手を突っ込んで、キリキリとゼンマイを巻いた。「あなたは私のように鋼鉄の心は持っていないでしょう」
「うん、でも、誰かがやらなきゃ。打ち捨てられた記憶が、砂を被ってしまう前に」
「そうかもしれませんが、あなたの役割ではないでしょう。この舞台の上で、それは越権ですらある」
この世が一つの舞台であるのなら。
私たちは、どこまで行っても役者に過ぎない。
ただひと時、仮初めの姿を演じては、次々と幕の裏に消えゆくばかりだ。
「……かもね」私はほんの少しだけ、彼の言葉を噛み締めてみた。
じわり、と染みてきた苦味に、思わず顔をしかめる。
「我々は、飽くまで演じるほかないのですよ。あなたは乗客、私は駅員です」
「そうかな。だからこそ私は、願うべきだと思うんだけど」
この油絵のような世界に、かくあるべきという指標はどこにもない。
絵筆はとうに迷い、パレットの上には汚物が撒き散らされて、もうイデアは死んでしまったのだ。
「機械は願いませんからね」駅員はどこか、悲しそうに口にした。「私達には役割しかないのです。この体も、機能のためだけに形作られた」
「それでも、願いたいとは思うんじゃない?」
「思いませんとも、私からすれば人間の方が奇矯に映る。一体全体、どうしてそんなに無駄な形をしているんだろうと、疑問は絶えませんな」
「あなたにはわからないよ」私はそう、遠ざけた。
この腕には代わりなどないのだ。
この目にも、足にも、代替品など存在しない。取り替えて何かに成り変わることなど、できはしないのだ。
鼓動が凍りつくまで、人間であり続けなければならない。老いても腐っても、ヒトであると言い続けなければならない。
それは何より残酷なことなのだろう。
「きっと、私たちのこれは、誰かの『なりたい』だったんだ。だから、腕も脚も二本だし、目だって一揃いあるんだよ」
「もっと増やせばいいじゃないですか。たった二本では、取り溢すことも多いでしょう」
「そうかもね。でも、三本以上は多すぎるよ。操れなかった指先が、首に巻き付いてくる想像が止められないんだ」
息を止める。
息を止める。
息を止める。
迫り上がってきた苦しさが、唇をこじ開けて、酸素を欲した。体は確かに生きたがっているけれど、それは縊死を追い出す理由にはならない。
「わかりましたよ、ようやく理解しました。あなたは植えられた死が芽を出すのを恐れているんだ」
駅員は改札鋏を突きつけながら、そのガラス細工の瞳で、私を睨みつけてきた。
「聞けば、死は双子葉類だそうじゃないですか。きっと、紅色の花を咲かすでしょう。朝露を飲む花弁は、重みに負けて溢れるでしょうが、千切ってしまえば変わりもない」
「私は、切符じゃないよ」両手を上げながら、口にする。「そしてあなたもきっと、そうあるべきではないんだ」
「ヒトは切符ですよ。誰かを、何かをどこかに運ぶための通行券でしかない。でなければ、線路もなく歩いていけるのは道理が通らないでしょうよ」
「なら、電車は何なのさ」
「棺でございますよ、お客様。毎朝欠かさずご乗車いただく、彼岸への直通便でございます」
「それは違うね」私は断じた。「だって、棺に収まらなくたって、私たちは土に還るもの」
「それは、正しき葬送ではありませんよ。弔いの鐘と供花がなければ、魂は迷ってしまう」
その言葉を聞いて、私はようやく納得した。
待ち続けた電車が、どうしていつまでもやって来ないのか。
暮れかけた日が落ちない理由も、からくり仕掛けの駅員も、全てがストンと腑に落ちた。
そうでなければならなかったのだ。この配役でなければ、私はとうに、微塵に砕けてしまっていた。
「……もうすぐ、電車は来るんでしょ?」
私は確信を持って、問いかけた。
「ええ、来ますとも。幕が下りるよりも早く、ご乗車いただけますよ」
「ありがとうね、実はあなたのふざけた頭、そんなに嫌いじゃなかったの」
「お褒めいただき、光栄でございます」駅員は恭しく頭を下げる。「錆が浮くまでは、先頭車両で貴方様をお待ちいたしましょう」
「いいよ、そんなことしなくて。私は私らしくなるのだから。今度こそ、次の私は――」
どんな配役に就こうか。
ピアニストや画家、スポーツ選手なんかもいいかもしれない。ケーキやパンを焼いて過ごすのもいいし、お医者さんになって、沢山の人を救うのもいい。
電車に乗って、次の場所に向かえばそれができる。
ただ、それでも。
私たちがずっと、役者であることに変わりはないのだが。
「……おや」駅員が顔を上げる。「来ましたね、黄色い線の内側までお下がりください」
アナウンスのベルもなく、風を纏った八両編成が、私たちの目の間に滑り込んできた。
その瞬間が、ついにやって来たのだ。
「それじゃあ、またいつか。そのゼンマイ仕掛けの心臓を、止めに来るから」
「ええ、いつかの黄昏にお会いしましょう。非生の身なれど、またのご利用をお待ちしておりますとも」
その言葉に背を押されるように、私はゆっくりと歩き出した。
体が、とても軽かった。
手足を掴んでいたしがらみが、一つ一つ解けていく。私を迎え入れるようにして開いた扉が、ごうごうと酸素を呑んだ。
揺れる髪に、これからの期待を載せながら。
私は、ホームから緩やかに身を投げた。
ちなみに、私はシェイクスピアが嫌いだよ。