無題
いずれ連載予定です。
平和とは、人の価値観によって大きく変わるものだ。
食うに困るか否か、寒さが凌げるかどうか、家族友人が健在かそうでないか。ひと口に暮らしと言っても、それを構成するものは両の手では数え切れないほど多い。
哲学者に成り切った気分でいちいち分析し利巧な気になるのは実に滑稽と言えるが、その行いこそが何より平和な証拠でもあるのだろう。
グエンという男は現状において己を不幸だと思ったことはなかった。そう、敢えて言うならばこれは不運、または混沌といったものが適当だ。
最後の銃声が空気を震撼させたとき、グエンはふとそう思った。
土に染み込んだ血糊はまだ暖かい。死臭を運ぶ風の生温さに不快指数が上がる。活気のあった下町の景色は地獄絵図に塗り替えられ、その惨状は筆舌に尽くしがたい有様だった。
「長!」
声のした方角に視線を向ける。村の入り口に佇んでいると、近い場所に建つ一軒の家から男が出てきた。彼は肩から銃を下げ、やるせないといった面持ちで首を振った。
「ここはもうだめだ。辺り一帯やられてる」
「……一足遅かったか」
独り言のように呟き、息を吐く。死の気配が充満し双肩に重くのしかかる。まるで責め立てるようなそれを振り払うこともできず、グエンは村の中心部へ足を向けた。
「まだ息がある奴がいるかもわからん。くまなく探せ」
「押忍」
短く返事をした男が西の方角へと走るのを見送る。
己の希望的観測が打ち砕かれることはわかってはいたが、万が一を願わずにはいられなかった。
反政府組織の集団が一つの街を襲っているとの報せが入ったのは半刻ほど前だ。グエンの率いる組織は、国の監督下にこそないが、そういった輩を捕え制圧する使命を持つ。いわゆる治安部隊だ。
無論、政治的権力を持つ捕吏はいる。けれども時に、彼らに頼るより民間の力で片付ける方が早い場合もあるのだ。
特に、こうした暗殺組織を相手取るときは。
共に引き連れた部下は優に三十を超える。彼らの生存者を探す声を聞きながら、グエンは適当な家の敷居を跨いだ。
半開きだった扉を更に押し開き、中の様子を一瞥する。
息のある者を見つけるはずの行為が、もはや壮絶な最期をなぞるだけのものにすり替わる。
壁に飛んだ血飛沫はまだ半分ほどが乾いていなかった。固まった指先、縮こまった肢体に断末魔を聞いた気がする。
グエンは寄り添うようにして動かなくなった夫婦へ歩み寄り、二人の限界まで見開かれた瞼をそっと下ろしてやった。そして手を合わせ冥福を祈る。せめて極楽へ行けるように。
こうした過程を何度繰り返したか。グエンは鼻から重たい息を吐き出した。
珍しい光景ではなかった。時には息を引き取る瞬間を見届けることもある。けれども自ら請け負ったこの使命を憂いたことはない。
反社会勢力の組織が乱を起こすのは、国王が治める国において希有でない。例え王が善政を行なっていても、その強大な権力に反骨心を抱く者はどこの国どこの民族にも湧くものだ。生活に困窮しているか、身内か自身が病にあるか、貧富の差に不満を持つためか。様々な鬱憤が内戦や反乱といった形で民を巻き込みながら上奏される。
この国は決して貧しくない。寧ろ豊かといえた。治安は規律正しく管理されて大きな戦もない。孤児が溢れることもなければ慢性的な飢餓に苦しむこともない。王の世継ぎ問題が井戸端会議にでる試しもないくらいには、どこの暮らしも平均的にみて安定そのものだった。
けれども、どんな国でも雨霰は降るし干ばつに襲われることはある。恵みの雨は時に低い土地を沈めるし、この間は高台に落ちた雷で山がひとつ燃えた。
天災や人災は、戦乱の時代が終わろうと耐えることがない。賢王が立とうが、治安を守る部隊が下街を奔走しようが、毎日どこかで人が死ぬ。
──では、平和とは、何を定義にすればよいのか。
遠くで長を呼ぶ男衆の声がして、グエンは横たわる死の気配を振り払うようにして立ち上がった。家の奥から微かな物音を聞いたのはその時だった。
反射的に腰の獲物に手をかけ、音のした方向を睨み据える。
戻ってきた遺族を待ち受けその命を刈り取る残党は珍しくない。しかし緊張を走らせたグエンの耳に滑り込んだのは、醜男の下卑た笑いなどではなかった。
「……おっかあ、おっとう?」
今にも風に吹かれて消え去りそうな、心許なく震えた声。床板をずらして這い出てきた細い体を見下ろして、グエンは重い溜め息を吐いた。
凄惨たる環境下で、肉親の庇護により命を繋いだ子どもが求める“平和”ほど、哀れなものはないのだから。