2 待つJS、声を聞きたいから
ギリギリ二分前。ふう、危うく講義に遅刻するところだった。
教室に入った私に気が付いて、同じ学科の友人、君原莉々が最後方の席から手を振った。
隣の席に腰をおろすと、莉々はニヤニヤと口辺を緩めた。
「今日もギリギリ。二限にギリギリ優花は寝坊かい?」
「寝坊じゃないけど、寝坊だよ。でも間に合ったよ」
「よかったよかった。しかし時間がきたらカギ閉めちゃう先生ってヤバいよね」
「とんでもないよホント。遅刻できないなんて大学生の甲斐がない」
莉々がクスクスと笑うのを横目に、手提げカバンから筆記用具と教科書を取り出す。
私は何となしに、「そういえばさ」と話題を変えた。
「私んちの隣に小五の女の子がいるんだよ」
「何、怖い話なら聞かないよ」
莉々が演技っぽく両耳をおさえる。
「違うって。昨日その子とベランダで話したんよ。面白い子だったなあ」
「え、何、それだけ?」
「うん、それだけ。顔は見えなかったけどねえ、おめめクリクリで可愛かったわ」
「やっぱり怖い話じゃん、この鬼畜め」
「いや意味わかんないんだけど」
そんな会話をしていると、先生が教室に入ってきてすぐに授業が始まった。
確かに、たったそれだけのことを私はどうして莉々に話したのだろう。まさか「ななちゃんは不登校です」だなんて面白おかしく吹聴する悪趣味では決してないのだし。
その講義の内容は、ほとんど頭に入っていなかった。
考えていたのは、昨日のななちゃんとの会話と、ななちゃんの綺麗な声と私を見つめる大きな瞳のことだけだった。
つまりは、ななちゃんのことというわけか。
なぜそんなにも頭の中をななちゃんに支配されているのか、自分でも理解に苦しむ。
莉々と学食で食事をとってから、私は家にまっすぐ帰った。これはまあ、いつも通りのことだ。
帰り着いたのは、午後一時半。今日の予定はおしまいだ。はあーあ、今日も一日よく頑張りました。
自室に入り、机にカバンをかける。ふと、窓の外のベランダを見遣り、部屋の壁に視線を移す。
この壁の向こうにななちゃんがいるのだろうか。
私は壁際のベッドにあがり、膝立ちになって壁に耳をあてた。
うーん、無音。このマンションは防音がしっかりしているものなあ。
というか、私は一体何をやっているのか。
冷静になって自分の行動に呆れる。ベッドからおりてとりあえず窓を開けた。
ベランダを仕切る衝立に、視線が引き寄せられる。ななちゃんいるかしら。
「ゆーかお姉ちゃん? おかえり」
突然聞こえた声に、思わず肩が跳ねた。びっくりしたなもう。
「た、ただいま。まさかベランダで待ってたの?」
「うん。下の道路にお姉ちゃんが見えてからお部屋に帰ってくるまで、すっごーく時間が長く感じた」
「あはは、ご苦労様です」
「うん。まあ、火曜日はだいたいこの時間に帰ってくるって知ってるんだけどね」
それはそれは……ななちゃん恐るべし。
「ゆーかお姉ちゃん、もしかして私とお話ししたかった? だからすぐに窓開けたの?」
「違います。ただの空気の入れ替えです」
「えー、嘘でもそうだって言ってよー」
声音から、ななちゃんがむくれているのがわかる。
すごく人懐っこい子だなあ。こんな子が、どうして友達ができないことに悩んでいるのだろう。
周りと性格が合わないと言っていたけど、話している感じではそんな風には思えない。
まあ本人にも思うところがあって、ななちゃんのことをまともに知りもしない私がそんなことを考えるのは失礼な話かもしれないが。
「ねーねー、ベランダに出てきてよ」
「やだ、ここでいいでしょ」
「ここって言われても見えないからわかんない」
「ベッドに腰かけてるの」
「ねーえー、ゆーかおねーちゃーん」
甘えるような声で訴えてくる。
すると、「おーい」という声と共に、ベランダの衝立から白い手がにょきっと生えてきた。
「ホラーかな?」
「ほらー?」
「あっそうだ、ななちゃん、そのままじっとしてて」
「えー、なんで?」
ふと思いついた私は、急いでカバンからスマホを取り出した。
カメラを起動して、ななちゃんの手にスマホを向ける。
「はいチーズ」
撮影ボタンを押す。シャッター音が鳴って、ななちゃんはゆっくりと手を引っ込めた。
撮れた写真を確認すると、衝立から生えた手はピースしていた。
「全然怖くないな、コレ」
「写真撮ったの? 私にも見せてー」
仕方ない。
網戸を開け、スリッパを履いて、ベランダに出る。
手前側の隙間からスマホを差し出すと、ななちゃんはすぐにそれを手に取った。
「おー」
「うわ、まったく興味なさそうな声出すじゃん」
「思ったよりつまんない写真だった」
そう言って、ななちゃんがスマホを返してきた。
衝立と壁の隙間に顔を限りなく寄せ、ななちゃんが右目をパチパチとする。
柔らかそうなほっぺた。つまんで引っ張って、むにむにしたい。
「お姉ちゃん、今暇?」
「んー、めちゃくちゃに忙しいのが見て分からないかな?」
「そっか、私とお話しするのに忙しいもんね」
「んー残念、不正解」
「ねーえ、今さっきまで勉強しててね、分からないところがあるから教えて」
「おっ、ななちゃん偉いじゃーん。どれどれ、お姉ちゃんに任せて」
あ、自分でお姉ちゃんって言っちゃったけど、なんか恥ずかしいな、これ。
「やった。はいここ、黄色の蛍光ペンで印つけてるとこ」
隙間から教科書が通されてきた。
受け取って、なんとなく表紙を見る。算数の教科書だ。
裏返して、裏表紙を見る。下の方に、『古渡なな』と名前が書いてあった。
「お姉ちゃん、算数得意なの?」
「ふふん、当たり前よ、文学部ですから」
「ぶんがくぶ、って算数ができる人なの?」
「そうだよ。得意すぎて、数字見るのも嫌になって、今では不得意よ」
「ダメじゃん」
ななちゃんが可笑しそうにクスクスと笑い声を漏らす。
中学数学までなら本当に得意だったんだけどなあ。まあ、算数ならね、余裕ですよ。
「ねーねー、ゆーかお姉ちゃん知ってた? ここにね、机と椅子があるんだよ」
「どこですか、見えません」
「ここだよ、ここ」
ななちゃんが机をバシバシと叩く音がする。
「この『非常時にはこれを破る』とか書かれてる壁のすぐ裏」
そう言われて、私は確かめるためにベランダからヒョイと身を乗り出し、ななちゃんのいる隣のベランダを覗いた。
本当に、そこに小さな机と椅子があった。筆箱と、開かれたノートが置いてある。
そして、そばに立つななちゃんはというと、顔の前で両腕をクロスするようにして、私から顔を隠していた。
「何してるの?」
「もー、急にこっちに顔出さないでよー、びっくりしたじゃん」
「腕、どけてよ」
「や」
「やなの?」
「や」
顔を隠したまま、ふるふると首を横に振る。肩上まで伸びた艶やかな黒髪が、ゆらゆらふわふわと踊るように揺れる。
ななちゃん、実は恥ずかしがり屋さん?
仕方なく顔を引っ込め、私はななちゃんの教科書に目を落とした。
「もしかしていつもそこで勉強してるの?」
「うん」
「いつから?」
「二か月くらい前」
今は六月。つまり、丁度四月あたりからということか。
そう言えば昨日、私の声がいつもうるさいとか何とか言っていたなあ。
「ははあ、さては私の声を聞きたかったんだな? お話したいのはななちゃんの方だったんじゃーん」
「えっ……うん。どうしてわかったの?」
あれっ、冗談のつもりだったんだけど。まさか本当にそうだとは。
それくらい、他者との関わりに飢えていたのだろうか。ふむ、小学生の心は難しい。
その後も、雑談を交えつつ、ななちゃんに勉強を教えていた。
仕切り板越しに勉強を教えるのは、なんというか、少しもどかしく思えた。
まあ、どちらかというと雑談がメインだったような気もするが。