戻ってきた平穏
あれからおよそ二週間が過ぎた。
だんな様とヘンリとボクは、何事もなかったようにカッシング領のお屋敷に戻ってきている。
陛下と謁見して、リオンと別れて、だんな様が迎えに来て、機嫌を直されたクローディア様が見送ってくださって。
それぞれに少しずつイベントらしきものはあったけど、まあいい。
それらを語る日も、いずれ来るかもしれない。
だけど、なにより、問題はいまなんだ。
「ねえ、だんな様」
「ギデオン」
「あ……」
だんな様はこの前の一件以来、頑なにボクに『素で接する』ことを望むようになった。
曰く。
―― ファーストネームで呼べ
―― 敬語はやめろ
―― 『ボク』でいい
公の場以外ではそう接している夫婦は貴族でもめずらしくはないんだけどさ、ボクの場合は彼を『だんな様』と呼ぶことでスイッチを切り替えている部分が多分にあって、そんな儀式を取り上げられることは、ボクの心の準備を取り上げられることに等しいわけで。
どんなスイッチかって?
んっと、それは ――
「それで、なんだ? エーレン」
あ、その話はまたいずれ。
「はい。その、申し訳ないのですが」
「敬語」
ああもう、めんどくさいなぁ。
「ギデオン、重い」
「えー……?」
宿題の刺繍に四苦八苦しているボクの膝を枕にして、ずーっとなにやら書類を読んでるんだもん。
重いばかりか暑いし、じゃま。
なにより腕を下ろせなくてつかれてきた。
「……イヤか?」
「イヤじゃないですけど」
ああもう、これなんだよ。
ギデオンは、ボクと二人きりになると、やけに甘えてくるようになった。
立場上、あまり邪険にもできないしさ。
ホント困る。
「まあ、若奥様の柔らかい太ももは充分に堪能したし、起きるか」
あ。困った顔を出しちゃったかな。失敗。
ともあれ、ようやくどいてくれて助かった。ももに再び血が通い始めるのがわかる。
「そうだ。ギデオン、ボクはこれからサラ先生のところに行くけど、いい?」
「ああもちろん。よろしく言っておいてくれ」
じゃ、宿題を提出しに行きましょうか、ね。
「ヘンリ、着替えと髪の手伝いをお願い」
「かしこまりました、奥様」
部屋の隅に立ってボクらのままごとに冷たい視線を送り続けていたヘンリが、抑揚のない声でそう返事をした。あ、二人きりって言ったけど、彼女もいたんだっけ。
☆★☆★☆★☆★☆★
「妙に甘えてくるようになった、ですか」
「ええ、ボ……わたしはどう接したらいいのか」
危ない危ない。ほら、こういうところで『ボク』が出そうになるのがいやなんだ。
サラ先生はかわいらしく小首をかしげて、
「これ以上夫婦仲がおよろしくなったら、エーレントラウトさまはお昼どころか夕方まで起き上がれなくなるかもしれませんね」
……この先生ね、意外と下ネタ好きなんだよ。
ボク、時々ドン引きするもん。
もっともこれは先生に限った話じゃない。貴族女性として暮らしているうちに気付いたこと。
貴族女性>>>貴族男性>庶民男性>>>>>庶民女性
こんな感じ。
これなにかって? 人間のH好きな度合いだよ!
たまにお茶会に誘われたりするともう、奥様方はそんな話ばっかり。
だんな様との夜のお話ならまだかわいいもので、ちょっと親密で閉鎖的な集まりになると、愛人とのあれこれとか微に入り細に入りの描写にボクはいつも赤面してなにも話せなくなるくらい。
人間、ヒマだとろくな事を考えないものだとしみじみ思った。
うーん、そういえば、いつの間にかそんな集まりにも呼ばれるようになってるんだよね。良くも悪くもボクは有名人なんだ。ああ、もちろん正体はだれも知らないよ。
ちなみにこの間は、その、そういうのがお上手で、ナニが、その、ご立派らしい画家のたまごの青年だかを紹介されそうになったけど……間に合ってます。ええ。もう、お腹いっぱいなんです。
「男性がそうなるときは、なにか不安を抱えているのかもしれませんね」
「不安、ですか」
女性から男性心理のレクチャーを受けることには、もちろん思うところはある。だけど、ボクは『人間の貴族の既婚男性』に関して、よくわかっていないのかもしれない。そうであれば、このお話には拝聴する価値はあると思うんだ。
「たとえば、奥様が出産してからだんな様が甘えん坊になることがあります」
「父親になったのにですか?」
「ええ。奥様の興味が赤ちゃんに全部注がれてしまったように見えるからですね」
「ああ……弟や妹が生まれた後の、上の子供がそうなるのは聞いたことありますけど」
よくわからないな。
魔族には妻の出産前後は夫は家を空ける種族がいる。
なにせ、気が立った妻が夫を殺して食べてしまうことがあるから。
……あ、いや、デーモン族やダークエルフ族は違うよ?
そういう種族も中にはいるって事。
極端すぎる例を挙げたかな。
でも、妻を子供に取られて寂しい、みたいな話は他の種族でも耳にしないなぁ。
「男性なんて、いくつになっても、どれだけ偉くなっても、みんな子供です」
「そ、そうなのですか」
人間は短命のくせに大人になるまで時間がかかるとは感じていたけれど。
「でも、ご存じの通り、わたしは赤ちゃんなんて」
「でしたら、なにかエーレントラウトさまを、遠く感じられる理由があるのかもしれません」
……ん。
ボクらの事情をまったく知らないはずなのに、思い当たることを指摘してくるのは、さすが、貴族としても女性としても大先輩のサラ先生だ。
「ところで、この刺繍のことですが」
「あ、はい。がんばりました」
そうそう、これだよ。
今日は王都へのお出かけで延び延びになっていた宿題の提出にきたんだよ。
「ええ、努力の跡は見られます。ですが、やはり、練習不足ですね」
「はい……すみません」
努力は努力、結果は結果。
サラ先生はいつだって厳しく公平だ。
☆★☆★☆★☆★☆★
一通り指導を受けたのち、お屋敷に戻ったボクは、午後のティータイムを楽しんでいた。
だんな様は執事とお仕事中だし、サラ先生のところまで付き添ってくれていたヘンリも、帰宅後は別の仕事があると言ってここにはいない。
そういえば、なかなか一人になる機会ってないもんだよね。
コンコン。
「奥様、よろしいでしょうか」
ほら、さっそくメイドが呼んでいる。
「どうぞ、お入りなさい」
ちょっとげんなりした気分などおくびにも出さずに、ティーカップを口に近づけながら、優雅に声をかけるのだ。ああ、ボク、平和で有閑で若くて愛らしいマダムを満喫してるなぁ。
「失礼致します」
えーっと、この子は……ああ、そうだ。
「たしか、一月くらい前に入った子よね? ごめんなさい、そのあとすぐ王都へ行ってしまったから、まだあなたの名前を覚えていなくて。教えてくれるかしら?」
「はい、奥様。リリー・マールバラと申します。これからよろしくお願い致します」
「ええ、わかったわ。リリーと呼んでいいかしら?」
「もちろんです、奥様」
うん、しっかりした子だね。
たしかだんな様の方のお客様対応が主だったはずだね。
「そういえばあなたは、バックランド伯爵の紹介で来たのよね」
「はい、そういうコトになっています」
……ん? あれ? ボクなにか聞き間違えたかな。
この子、少しおかしな事を言ったような?
「リリー」
「はい、奥様」
うん、やっぱり気のせいだよね。
「えっと、ところで、ご用は何かしら? あなたはだんな様のおそばで働いているはずよね」
「はい、それなのですが」
「うん。なぁに?」
ボクが促すと、リリーは満面の笑顔で答えた。
「国王陛下からのお言付けを届けに参りました」
……ああ、紅茶が美味しいなぁ。お茶請けが欲しいところだなぁ。
ヒマでヒマで仕方がない、だけど、平和で、のんびりした生活って、いいなぁ。




