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モニカのいる執務室を退出し、ルイーゼは大股で自分の研究室へ戻った。気持ちとしては思い切り扉を開けて、力一杯締めたいところだったが、研究内容の都合上、過度の振動を加える事がはばかられて、いつものように扉を閉めた。
しかし、作業用の机に戻る気にはなれず、仮眠用の長椅子にどかっと横になった。
天井を見上げて、ため息をつく。
メルセデスからの手紙は、彼女がアルベルトから求婚された事、そしてそれは、メルセデスの父、ハーゲンの意向でもある事が記されていた。
それは、妹分からの救援の手紙でありながら、かつては愛し、諦める為、距離をおいていたはずの男の突然の変節をも示すものだった。
ルイーゼは思い出す。かつて、アルベルトに思いを打ち明け、断られた日の事を。
王立学院へ行く事になったアルベルトに、ルイーゼは思い切って自分の気持ちを打ち明けた。
自分自身の思いを。愛しているという事を。
しかし、アルベルトからの答えは冷淡なものだった。
「……君は、とても美しく、聡明だ、だが、僕は、学問に身を捧げるつもりだ、妻をめとるつもりは無い」
確かに、日頃からアルベルトは、こと恋愛面については、努めて距離を置いているようだった。村祭りに、若い男女は誘い合わせて参加するものだったが、そういった事に参加する事は無く、もっぱら読書と自然観察、実験で日々を過ごしていた。
比較的顔の整ったアルベルトに、声をかけて、断られた娘は多かった。
ルイーゼは、そのような娘とは一線を画し、日頃はメルセデスと共に、アルベルトと勉学に励んできたものだった。そして、そんなルイーゼを誘おうとして断られた男たちの数はもっと多かった。
気がつくと、もう三十目前、世の中の結婚適齢期はとうに過ぎているが、気にはならなかった。ルイーゼよりも年長のアルベルトも既に三十半ばだが、男の適齢期というのは女に比べるとかなりゆとりがある。
しかし、十八のメルセデスが相手では、世に幼女趣味とそしられてもおかしくはない歳の離れようだ。
それでも、メルセデス自身がそれを望むのならば、まだ耐えられたかもしれない。
悔しくて悔しくて、結婚式に臨席する事は無理だったとしても、大切な妹分が自分の愛した男の伴侶となる事は、理性的には受け入れられない事も無い。感情的に受け入れるには、メルセデスの出産を待たなくてはならなかったとしても。
しかし、メルセデスにそんな意志は無いという。
それが、ルイーゼを思いやっての配慮なのかどうか、当人に会ってその顔を見るまでは判断がつきかねるが、こうして手紙をよこしてくるという事は、メルセデスにとってそれは本意では無いのだろう。
十四の歳に、男装してまで入学しようとした王立学院でやっと学ぶ事ができると、意気揚々とした手紙をよこしていたメルセデスだ。学院を退学して、アルベルトの妻に収まる気持ちになれないのは当然の事だ。
やはり、無理を言っても象牙の塔へ進ませるべきだった。
ルイーゼは思った。
王立学院で学ぶ事の意義。
国の為に、できる事をしたいという、メルセデスの願いに、を叶えるにふさわしいのは、象牙の塔では無くて、王立学院であったはずだ。
そして、それはアルベルトも。
メルセデスとの婚姻が、アルベルトの言うところの『国の為』なのか、ルイーゼには判じるだけの情報が今は無い。
王立学院へおもむき、メルセデスとアルベルトの真意を確かめなくてはならなかった。
ルイーゼは長椅子から起き上がり、おもむろに旅路支度を始めた。
一番大きなカバンを取り出す。それは、かつて、湖沼地帯の小さな村から出てきた時に使ったものだった。着替えや身の回りのものをすっかり詰めた後に、丹念に防水加工をほどこした革に、現在ルイーゼが開発していたあるものを詰めた。
他にも、火薬類や、付随するものを。水気にさらされないように、衝撃が加わらないように。
もしも、万が一、メルセデスが悪しき変貌を遂げて、かつては彼女が厭うていた恋の為に身を滅ぼすような娘になっていたら。
いや、恋に溺れるのはまだいい。
その相手が、アルベルトであったなら。
アルベルトも、メルセデスも、共にこの手で……。
ルイーゼは、聡明で、思慮深い女であったが、こと、アルベルトが絡むと、理性のたがが緩む事を自覚していない。
男の時計と、女の時計は違うのだと、今更になって、ルイーゼは思った。
ルイーゼが向け続けた思いが、このままではむくわれないではないか。
アルベルトも、何故、よりによってメルセデスなのか。
昏い覚悟と共に、ルイーゼは、嘆きの魔女は象牙の塔から旅立った。
愛する男か、愛しい妹分か。
場合によっては、そのどちらかを、手にかけてしまうかもしれないという、悲壮な覚悟を決めながら。