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メルセデスの父は、一代で成り上がった商人だ。
湖沼地帯の良質の木材を売りさばき、財を築いた。
自分の持てる時間の全てを自らの仕事に費やし、無駄な事はいっさいやらない父が、母や、代理を立てずに、直接メルセデスを訪ねるなどというのは、考えられない事だったが、マルガの口振りだと、本当に父が現れたらしい。
マルガは、学院長室まで付き添ってくれたが、メルセデスは迎えに来てくれた事を感謝しつつ、やんわりと同席を拒むようにして学院長室に入っていった。
マルガは、イリーネなどと違って、みだりに噂を広めたりするような友人では無いが、好奇心に関してはイリーネ以上だった。
人に言わないだけイリーネよりはマシではあるが、父の意図がわからない状況で、マルガに情報を入れるのは得策ではないように思えた。
ノックをし、マルガに感謝の気持ちを伝えた後、メルセデスは院長室へ一人入った。
院長室には、父と学院長がいた。
「やあ、急に呼び出してすまなかったね」
急な呼び出しになったのは、学院長のせいではないだろうに、メルセデスは、学院長をあごでこき使うかのように、自分を呼び出させた父の尊大さに、わずかに眉をひそめた。
「いいえ、マルガが急いで呼びに来てくれました、しかし、お待たせしてしまったのでしたらお詫びいたします」
メルセデスはメルセデスで、あくまでも学院長に謝罪する体で、父の方を一顧だにしない。
「学院長、ここから先は父と娘の話、娘を連れて、退出させていただいてもよろしいでしょうか」
いかにもわずらわしそうに立ち上がり、メルセデスの父、ハーゲンは、尊大な態度を隠そうともせずに、メルセデスの腕を掴み、退出しそうな勢いを見せた。
メルセデスの父、ハーゲンは、商人ではあるが、利に聡く、持ち上げる必要の無い相手に対しては、どこまでも冷淡だった。
王立学院の学院長とはいえ、着任して年も浅く、卒業生への影響力の少ない、元事務屋の学院長を軽んじている様子は、メルセデスだけでなく、当のエルンスト院長もはっきりと感じていた。
そのように、ないがしろにされても、学院長は特別不快な様子を見せる事はしない。
そういう意味で、ハーゲンの人を見る目は確かなのだ。ほめられた事では無いが。
ようするに、なめられる事を嫌がり、人をないがしろにしないような人格者に対してはぞんざいという事だ。
メルセデスは、父をある意味尊敬し、ある意味軽蔑していた。
こと学問については、すぐに成果の出ないものもあるが、ハーゲンは徹底して成果の出ないものを切り捨ててきた。最初は木材の取り扱いで商いを始めたが、今は商売の手を広げている。採算がとれるか否か、驚くほどに冷淡に仕事を進めていく父の慧眼をメルセデスは尊敬しているが、今のように、娘が在籍している学院の院長であっても態度を変えない父を、少しばかり恥ずかしいとも思うのだった。
「父上、そのような態度は……」
苦々しそうな様子のメルセデスに、問答を続けるわずらわしさを感じたのか、ハーゲンはあからさまに舌打ちをして、もう一度着席した。
「まあ、学院長同席の方が話しが早い部分もあるな、わかりました、学院長、少々お時間をよろしいか」
否と答える事は無いだろうという態度が透けて見える。
メルセデスは、早くもうんざりしていたが、本人が直接やってきて娘に話をする異常事態に、用件を確認したかった為、無言で耐えていた。にがりきった顔をすると、そんなメルセデスの様子を学院長も苦笑しながら見守っていた。
「メルセデス、学院を辞め、結婚しなさい」
唐突に、ハーゲンが繰り出した言葉に、メルセデスは一瞬父が何を言っているのかわからなかった。
先に反応したのは学院長の方だった。
「お待ち下さい、ヴァッフェさん、あまりにも突然のお話にお嬢様も驚かれているようです、本日の訪問の意図はわかりましたが、今日のところは、一旦お帰りいただいた方がよいのではないでしょうか」
メルセデスは、言葉を発する事もできずに、固まってしまっていた。ハーゲンは学院長の言葉に、片眉をぴくりと動かしたが、自分の発言に硬直する娘を持て余し気味だったゆえに、今、この場はしぶしぶ学院長の言葉に従う事にしたようだ。
「ちなみに、なんですが、お相手は決まっているのですか?」
固まっているメルセデスに変わって学院長が尋ねた。
「学院長もご存じのはずです、ここの教授、アルベルトです」
メルセデスは、硬直を通り越して、白目を向いていた。
これは、悪い夢だろうか、もしかしたら、今自分はベッドの中にいて、マルガに揺り起こされている最中なのではなかろうか。
メルセデスは、すぐに意識を手放すような事はしなかったが、おもわず、自分の腕を強めにつねってみた。
「……ッ痛ッ!」
ためらわず、渾身の力でもって自らの腕をつねったメルセデスは、痛みに思わず声をあげた。
「メルセデス、メルセデス、落ち着いて下さい」
腕を真っ赤にしているメルセデスをとりなすように学院長がメルセデスをなだめる最中に、言い捨てるようにしてハーゲンは立ち上がった。
「近々、迎えをよこします、学院への退学手続きも進めますのであしからずご了承下さい」
「あ、ヴァッフェさん!」
そそくさと退席するハーゲンを追って、学院長も部屋を出て行く。
メルセデスは、自分自身でつねりあげた腕をさすりながら、父の言葉とアルベルトの変節について思いを巡らせていた。
アルベルトは、父の行動を知っていた。
少なくとも、父のアルベルトへの根回しは終わっていたという事だ。
父は利にならない事はやらない。メルセデスの学院入学ですらも。
今、ここで、メルセデスが学院を中途退学して、結婚する事で、父は何を得られるのだろうか。
苦労してようやく入学を果たした王立学院、学ぶ楽しさもさることながら、今はマルガやエラ、イリーネですらも、離れがたい。
湖沼地帯を出て、初めて、ルイーゼと別れて、ようやく出会えた心許せる友人たちとの時間を、理不尽に父に阻まれる事は、メルセデスの望みでは無い。
しかし、ただ結婚はイヤだと言い張ったところで、聞く耳を持つ人間では無いことはわかりきっている。
言い捨てるように父は去って行った。早々に父を帰してくれた学院長には感謝しているが、もっと情報を引き出すべきだったと、わずかに後悔した。
だが、そうなると情報を引き出せる相手は一人しかいない。
メルセデスは、先ほどのどうかしたアルベルトの様を思い出して、暗澹とした気持ちになった。
アルベルトはアルベルトで、何故父の考えを素直に受け入れたのか。
夏の休暇まであまり時間が無い。
このまま休暇に入ってしまっては、父は万端準備を整えて、夏休みがあける頃にはメルセデスの席は無くなっているだろう。
すごすごと戻ってきた学院長も、どうしていいのか途方に暮れているようだった。
「学院長……」
エルンスト学院長も戸惑いを隠せないようだった。
「メルセデス、私も、唐突に切り出されてしまって……」
せめて事前に話をしてくれていれば、ここまでひどい事にはならなかったと、エルンストは後悔していた。
「いえ、父が、ご迷惑を……」
うなだれて、申し訳なさそうに言うメルセデスと、学院長として生徒を気遣うエルンスト、二人は、二人とも被害者だった。
「念のため、確かめておきたいんだが、君は結婚に同意する気持ちがあるのかね」
エルンストの言葉は、メルセデスが学院を辞めるか辞めないかの確認でもあった。
つい今し方、メルセデスの優秀さ、周囲へのよい影響について、副院長と話し合ったばかりだというのに。学院長は目に見えて青ざめていた。
果樹が実りの時を迎える前に、無惨にも摘み取られようとしている、その状況を、学院長としても、黙って見過ごすわけにはいかなかった。
「ありません!」
きっぱりと、メルセデスは言い切った。
「そうか、それを聞いて私も安心だ」
そう、胸をなで下ろすエルンストであったが、相手が学院の教授の一人、アルベルトである事にも不審を感じていた。
確かに、アルベルト自身は、成果を出しており、年齢的に、そろそろ結婚も、などという声が出ていたことは把握している。しかし、まさかその相手が生徒とは……。
しかし、女子学生が入るという事は、そのような事態も想定しておくべきであった。思慮が足りなかった。
エルンストは、己の知見の甘さを悔いた。
「お父上が、縁談を持ち出した意図について何か心当たりは?」
「全くありません、しかし、休暇前には、父を説得、もしくは意図を確かめた上で、考えを変えていただくよう働きかけねばならないと思っています」
メルセデスは、既に冷静さを取り戻しているように見えた。
「なるほど、私も、可能な限り君に協力したいと思っている、できる事があったら何でも相談して欲しい」
学院長の申し出に、メルセデスは目を輝かせた。
父を攻略するには、神速をもって事にあたらなくてはならない。
計画の質よりも、まずは速さが必要だ。
メルセデスのそうした物事にたいする考え方は、皮肉にも、とても、父に似ているのだった。