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メルセデスは、実験室で器具の確認をしていた。いつも彼女がそうしているわけでは無い、偶々当番だったからだ。
日頃から、寮で実験をするなと同室の(主にイリーネから)言われているメルセデスは、空いている時は後片付けをする替りに、実験室を使わせてもらってたのだが、最近、それを希望する生徒が増えてしまい、自分ばかりが使うわけにはいかなくなっていた。
そして、もうひとつ、メルセデスを悩ませる事があった。
器具の数を確かめ、用具庫へしまい、鍵をかけ、人が居ないのを見計らって、立ち去ろうとしたところ、人の気配に気づいてびくりと身をすくめた。
「今日の当番は君だったのか、メルセデス」
そこには、実験を含めた、物理、数学の教授でもあるアルベルトが立っていた。
「先生……」
メルセデスは、心なしか怯えた様子で敬愛する、(正確には、先日まで敬愛していた)師の前に立った。
「水臭いな、二人だけの時はアルと呼んでおくれよ、昔のように」
そう言って、優しげに微笑む姿は、確かに過去の、メルセデスが幼い頃、共に遊んだ幼なじみのアルベルトと変わりが無いのに、ここ数日でいったい何が起こったのかというほどに、アルベルトが自分に対して奇妙な秋波を送るようになったのは。
「アル……、こそ、どうしたのさ、あなた、そんな人じゃなかったでしょう」
メルセデスは、幼少時病気がちだった。
商人の父と、メルセデスの母の死後、連れ子と共に後妻に入った義理の母は、仕事に忙しく、病がちな末娘まで手が回らなかった。
その為、物心ついた頃からメルセデスは父の両親、つまりは祖父母の手で養育された。
メルセデスの実家は王都だが、幼い頃は祖父母のいる湖沼地帯の環境のよいところで育った。
アルベルトは、祖父母の養い子で、父の幼馴染み夫婦の息子だった。
メルセデスよりも十二歳年上のアルベルトと、村はずれに住む魔女の孫のルイーゼとメルセデスの三人は、歳も離れていたが、よく一緒に遊んでいた。
遊ぶ、というよりは、ルイーゼの魔女の技を、興味深く研究するアルベルトに、メルセデスがちょこちょこ着いて歩いていた、というのがより正確だろうが。
その後、王立学院が創設され、アルベルトが王都の学院へ入学するまで、ずっとメルセデスとルイーゼ、アルベルトは一緒だった。
アルベルトが王立学院へ進んで間もなく、ルイーゼは象牙の塔へ行った。祖母である魔女が死に、祖母の伝手を頼ったのだ。ルイーゼ自身、アルベルトのいる王立学院への入学を望んでいたようだが、当時、女は王立学院には入れなかった。
メルセデスとしては、ルイーゼの後をついて、共に象牙の塔へ入るつもりだったのだが、ルイーゼから、止められた。
王立学院へ、アルベルトの元へ行くように言ったのはルイーゼだった。
共にいられなかった私の替わりに。
ルイーゼはそう言った。
離れて育った血のつながらない兄たちよりも、メルセデスにとってルイーゼの方が姉のような存在だった。
ルイーゼの言葉に従い、メルセデスは十四歳にして王立学院の試験を受けた。
男装し、見事入学資格に達するだけの結果を出しつつ、直前に女である事がばれてしまった。
結局、ルイーゼのいる象牙の塔へも、かといって王立学院へ進むこともできないまま日々は過ぎたが、女王によって王立学院の門は開かれた。
当時のメルセデスは、入学可能な年齢に達してはいなかったが、女子は無試験で入学可能だという。
メルセデスは十八になるのを待って、晴れて王立学院へ入学した。
そこには、教員としてのアルベルトの姿もあった。
最初の教え子であり、幼なじみであるメルセデスの入学を、アルベルトは大いに喜んでくれた。
講義が始まる前から何かと便宜を図ってくれて、実験室を使わせてくれたのもアルベルトだった。
象牙の塔のルイーゼも、ここにいてくれたらいいのに。
そのように思いながら、メルセデスはマルガやエラ、イリーネといった友を得て、学院で勉学に励んでいたのだが……。
「驚いたよ、キレイになったね、メルセデス、やせっぽちのおちびちゃんが、今はいっぱしのレディのようだ」
アルベルトが、唐突に気色悪い事を言うようになったのは、夏季休暇を前にしての事だった。
メルセデスは、最初アルベルトがふざけているのだと思った。しかし違った。目が真剣なのだ。
メルセデスは、アルベルトの事は、ルイーゼ同様、兄のように思っていた。そこに、尊敬はあったが、恋愛感情は無かった。そもそも、メルセデスは男性を好きになった事が無いのだ。そんなメルセデスに対する、アルベルトの秋波は、ただただ違和感と、嫌悪を想起させるだけだった。
うっかりしていた、無理にでもエラを伴っておくべきだったと後悔したが、既に時は遅い。
「君が、美しくなったからだよ」
歯の浮くような言葉を吐く。
そこにいるのは、メルセデスが知っているアルベルトでは無かった。
顔の同じ他人なのでは無いかと思えるほどに、その有様は変わっていた。
「嘘だ、ルイーゼの方がずっとキレイだ」
マルガあたりに言わせれば、メルセデスも美人の部類だと反論されるかもしれない。しかし、ルイーゼは、メルセデスと比べようがない、まぎれもない美女だった。
白い肌、漆黒の髪。女性らしいなだらかな体は、名工の手による彫像のようで、女神のようなという形容がふさわしい、メルセデスからすれば国一番と言っていいほどの美女なのだ。
そんなルイーゼを知っているアルベルトに、口先だけで『美しい』などと言われても、白々しいだけで、とても褒められている気持ちにはなれない。
ましてや、つい先日まで、
「研究は根気よく、君のように結論を急ぐものは研究者には向かない」
とか、
「平常心であれ、観測者の変化が結果に及んではいけない」
などと、釘を刺し続けた師が、唐突に、『君は美しい』などと言い出したら、頭のネジがとんだのではと疑いたくもなる。
「……何があったんですか」
メルセデスの問いに、アルベルトは答えなかった。
アルベルトは、何ともいえない複雑な顔をしてから、再び軽薄な笑みを口元に浮かべて、肩をすくめた。
「まだ、お父上から話を聞いていないようだね」
今、ここで父の話が出る事に違和感を感じながら、メルセデスが、それはどういうことかと続けようとする前に、アルベルトは踵を返した。
「いずれわかる、その時、また、改めて話をするよ」
背を向けているアルベルトが、どんな顔をしているかは、メルセデスにはわからなかった。
ともあれ、アルベルトが目の前から消えてくれた事にほっとしながらも、アルベルトの言葉の意味を反芻するように、アルベルトは口の中で復唱した。
「父が、なぜ」
当番の仕事を終えて、寮の自室へ戻ろうと歩き始めたメルセデスに、ばたばたとあわてた足音が聞こえてきた。
エラであれば、急いでいても、もう少し無駄の無い動きをするはずだ。
小柄なイリーネであれば、ここまで大きな音にはならない。曲がりなりにも淑女を自称するイリーネであれば、廊下を駆けてくるという事がそもそも考えにくい。
急ぎたいというはやる気持ちを抑えるよりも、ともかく急ぐ事を最優先しなければという一本気さを考えて、向かってくるのは、多分。
「メルセデス! 探したのよ!」
エラあたりから、今日メルセデスが実験室の当番にあたっている事を聞き、走りに走ったマルガが息を切らせて向かってきた。
「マルガ、どうしたの?」
メルセデスが尋ねると、息を整えようと、壁に手をあてて、ぜいはあいいながら、息も絶え絶えなマルガは、かろうじて言った。
「学院長先生がお呼びなの、お父様がいらしていると」