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松賀騒動異聞 第十六章

第十六章


 節分も過ぎた或る日のこと。

 私は平・山崎にある専称寺に居た。

 専称寺は梅林で有名な古刹であったが、梅は未だ早く、日当たりの良い梅の木の天辺に数輪ほど咲いているだけであった。

 三月も中旬以降にならないと、満開にはなりませんと迎えてくれた住職が語っていた。

 松賀族之助夫妻の像は本堂脇の社務所の中にひっそりと安置されていた。

 住職の説明を聴きながら、私は松賀族之助夫妻の木像を見た。

 私は思っていた。

 この木像にはどこか見覚えがある。

 小さい頃、見た記憶があるかも知れない。

 この地域の伝説とか物語を集めた本であったかも知れない。

 私はその頃の記憶を呼び戻そうとしていた。

 確か、稀代の悪人ではあったが、この人物は妻を愛していたらしい、その証拠にこのような夫婦の木像が残されている、殿様の子供を産んだ妻ではあるが、その愛は終世変わらなかったらしいとか云う内容であったと記憶している。

 少し、センチメンタルな文章であったので、子供心にも響いたらしく、私の幼い脳裏にその文章の内容は残った。

 その人物の名前はとうに忘れていたが、確かにこの夫婦の木像の写真であった。

 ということは、少年の私が見た木像の写真の人物は松賀族之助であったのか。

 私は冬の木枯らしの音を聞きながら、炬燵に潜りこんで寝そべりながらその本を読んでいた頃の自分の姿を思い出していた。

 窓の外には寒々とした空にすっかり葉を落とした木々の枝が風に揺れていた。

 炬燵の上には、食べ散らかした蜜柑の皮があり、寝そべって本を読むのは行儀が悪いと母に言われながらも本に夢中になっている小さな私が居た。


 私はね、木幡さん、どうしても松賀一族の名誉を回復してやりたいんですよ、と小泉さんは私の顔を真正面から見ながら呟いた。

 「美智子から聞いているかも知れませんが、私は会社時代の上司が立ち上げた小さな会社で、自分で言うのも何ですが、一生懸命働きました、誰にも引けを取らないほど働いたつもりです、なに、動機は特別なものじゃないんです、ただその人を喜ばせたかっただけです、そんな単純な理由だけでも人は喜んで働けるものなんです、私にとって、その人は素晴らしい人でした、他の人にとって、素晴らしい人であったかどうかは問題ではありません、恐らくそれほど素晴らしい人では無かったかと思いますが、とにかく私にとっては本当に素晴らしい人であったのです、その人と一生懸命働き、会社を徐々に大きくして行きました、時は過ぎて行き、彼は社長を辞め、会長となりました、私が会社を継いだのです、さて、社長となった私はどうも、まあ何と言うか、張り合いを無くしてしまいました、その人が社長の時も、次期社長は私がなると誰もがそのように思っていたわけですが、いざ社長となると、ナンバー・ツーの時と違うんですなあ、自分だけの決定で会社を思うように切り盛りは出来るのですが、どうも満足感に欠けるのですよ、その内、会長に退き、私を見守ってくれていたその人がクモ膜下出血であっけなく死んでしまいました、ますます張り合いを無くしてしまいました、そして、私は気付きました、その人のために私は一生懸命働いたのですが、私のために、一生懸命働いてくれる部下が私には居ないということに遅ればせながら気付いたのです、つまり、私には徳が無かったのですね、部下にこの人のためならば、と思わせる徳が無かったのですなあ、部下は部下なりに一生懸命働いたとは思いますよ、でも、それは私のためじゃない、会社のためなんです、個人のためでは無く、あくまでも公共のものである会社のためなんです、勿論、それはそれで大変結構なことですよねぇ、会社員が個人のために精一杯身を粉にして働くなんて馬鹿げています、本当に馬鹿げてはいます、会社員は多かれ少なかれ誰でも身過ぎ世過ぎのために働いているわけですから、つまり、自分の労働を切り売りして給料を貰い、家族を養っているわけですから、会社は自分たちのものであり、会社に忠誠は誓いますが、上司に忠誠を誓って給料を貰っているわけでは無いのですから、それは当たり前のことだと私も思います、しかし、私は嫌でした、基本的な何かが無いと思ったのです、それは初めは漠然とした概念でした、基本的な何かが何であるか、はっきりとは判らなかったのです、私はその人の墓の前で暫く考えました、今でも覚えています、暑い盛りの時でした、墓の後ろには樹が茂っていました、うるさいくらい蝉が鳴いていました、時々木々の隙間から零れてくる太陽の光が私の眼に飛び込んで来ました、いつしか、私は或る言葉を口ずさんでいました、それは、『殉』という言葉でした、私はその人の墓前で『殉』という言葉を繰り返し呟いていたのです、こう申すのは少し照れ臭いのですが、私はその人に『殉』という感情で、その人が亡くなるまで接して居たのだと思っています」

 小泉さんはここで、視線を反らし、空を見上げた。

 つい、私も空を見上げた。

 明るい青空が空いっぱいに広がっていた。

 「でも、私にはそういう人は居ませんでした、冷徹な経営の論理で動く者ばかりでした、勿論、社長である私に好意を寄せ、意識して、或いは無意識にすり寄って来る者は多く居りました、けれど、その者の感情に『殉』は残念ながら感じられませんでした、私が感じたのは、『利』という感情でありました、中には、『殉』という感情で私に接してくれた者も或いは居たのかも知れません、でも、私にはその者のそのような心は当時の私には響いては来なかったのです、私はだんだんもどかしくなって来ました、そしてその思いは徐々に社員に対して腹立たしいという感情に転化して来たのです、部下に対してそのような感情しか抱かなくなった社長はもうお終いです、私は社長を二期務めて会社を辞めました、会長にも残らず、東京の家を畳み、妻、美智子の故郷に家を建て、この地を終の棲家に選んだという次第です」

 私はふと、この小泉さんが松賀族之助のイメージと重なっていくのを覚えた。

 何故、そのように思ったのかは判らない。

 ただ、その時、小泉さんの長い独白に耳を傾けながらそのように思っただけだった。

 その人に対する小泉さんの思い、藩主・義概に対する族之助の思い、それは小泉さんの語る『殉』という名の思いでは無かったのか。

 待てよ、この思いは、義孝に対する正元の思い、義稠に対する伊織の思いでもあったのかも知れない。

 三代藩主・義概、四代藩主・義孝、そして、五代藩主・義稠に対する、族之助、正元、伊織の三代、五十年にも亘る奉公に一貫として流れる思いでは無かったのか。

 三人は皆、仕えた藩主の名前の一字をそれぞれ拝領しているのだ。

 そして、族之助、正元、伊織たちは皆、『殉』の心を持たずに、三河以来の譜代の家臣であるという矜持にしがみつき、新規召抱えの家臣に対する意味のない侮りをついに捨て去ることの無かった内藤治部左衛門を始めとする藩貴族、高級官僚に対する怒りの念はついに消えることは無かったのであろう。

 島田理助も或いは、族之助・正元・伊織に対して『殉』という思いを終世に亘り抱き続けたのかも知れない。

 私はそのように思った。


 或る日、小泉さんの自宅にお邪魔していたら、小泉さんが本を持って来て、私に見せた。

 その本は、外国でのロングステイを扱った本だった。

 小泉さんはしみじみとした口調で私に話した。

 「木幡さん、私も六十五歳ということで、自分の人生ももう最晩年に近いと思っています。家内は未だ若いですが、もう私は若くなく、あと十年も生きられればまあ御の字と思っています。そう思うとね、この頃、やたらと外国に行きたくなってくるんです。若い頃、第二回目の日墨交換留学生として一年間住んだメキシコとか、仕事で出張したヨーロッパ、アメリカ合衆国、東南アジアといった国にもう一度行きたくなっているのです。皆、日本と違う良さがありますよ。まあ、冷静に見ても、私が元気で海外に行けるのもあと五年といったところでしょう。五年を無駄に過ごしたくはないんです。そうです、今は一丁、半年程度のロングステイをこの五年間楽しんでみようかと実は思っているのですよ。そこで、今、インターネットで情報を取って、さしあたりどこへ行こうかと物色中なんです。家内もこの手の話は好きな方でしてね、大いに乗り気なんです。都会がいいか、それとも、のんびりした風光明媚なところにするか、大いに迷っている状況です。まあ、それも、なかなか楽しい迷い、ですね」

 ふと、キッチンで背中を見せて料理をしている美智子さんを見たら、美智子さんのうなじが、そうそうその通りよ、とばかり大きく頷いていた。


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