音楽室の窓を開けたならば
すれ違う男子どもは、誰もが絵理香の横顔に釘付けになっていた。
白い肌と端正な顔立ち。
愛嬌のある笑顔は正面にいる男を魅了し、線の通った鼻筋は横を歩く男子を見惚れさせ、ショートカットの艶やかな黒髪は、背後の者の心を惑わせた。
芸能界でも通用すると噂される自分の美貌は、絵理香にとって誇りだった。
誰よりも美しいことは愉悦であり、彼女にとって、美しさを追求することは生き甲斐だ。
そして、美しくないものは、生きる価値などないとさえ思っていた。
だから、ブスに生きる価値はないと、絵理香は心の底から思っていた。
登校時間の今、校門を抜けた先の並木道には、学制服姿の男女が何人もいた。
前方には絵理香の通う高校の校舎が建っており、彼女はその白い大きな建物を見上げた。
視線は最上階の音楽室へ向けられている。
一ヶ所だけ、クリーム色のカーテンが半分開いていた。
そこには制服姿の女が立っている。
顔には血の流れた赤い跡。
真っ白い目が、絵理香を見下ろしていた。
ーーーーまた私を見てるッ。
一週間前から音楽室の窓に現れたその女は、いつも絵理香を見下ろしていた。
すぐに目を背けると、前先に好意を寄せる冬也の後ろ姿を見つけて、絵理香は足を速めた。
気にしてはいけないと、絵理香は頭を振った。
校舎までの真っ直ぐな道の両脇には、飾り気のない桜が並んでいる。
あと三ヶ月もすれば花を咲かせて、世間の注目を集める桜に、今は誰も目を向けてはいない。
――――惨めだな。まるで里子みたい。
絵理香は干からびたような桜並木を見てそう思った。
「おはようッ。冬也くん」
気付いた冬也に満面の笑みを向けたが、彼の表情は悲しげで、薄幸に見えた。
しかし、クラスで一番のイケメンは、そんな姿さえ絵になっていた。
そしてその表情は、絵理香の気持ちを高揚させた。
「絵理香はいつも元気だな。あんなことがあったのに」
絵理香も神妙な表情を浮かべる。
「こんな時だからこそ、明るくしなきゃって思って」
そうだよな、と冬也は自分に言い聞かせるようにつぶやいて黙り込んだ。
冬也の幼馴染の里子が死んだのは、ちょうど一週間前になる。
冬也と絵理香、そして里子は同じクラスだった。
里子は決して明るい子ではなく、教室でも一人でいることが多かった。
絵理香からしてみると、里子はブスだった。
丸い顔に腫れぼったい一重。そして、肩まで伸びた傷んだ髪は、うつむいてばかりの里子の表情をいつも隠していた。
誰もが彼女を見て見ぬ振りをし、冬の桜木のように気にも止めていなかった。
しかし、冬也だけは違った。
時折、クラスの人目を盗んでは、彼女に声をかけていた。
冬也のことをよく目で追っていた絵理香は、その姿を見るたびに胸が痛かった。
「俺さ、里子に言われたんだよ」
冬也は地面を見つめながら言った。
「私みたいなブスに話しかけないでって」
恵理香は目を大きくして黙り込み、静かに冬也の言葉を待った。
「こんなブスは死んだほうがいいって泣いててさ。助けたかったのに、俺は何もしてやれなかった」
深いため息をついて、それきり冬也は口を開かなかった。
美しさを塗りつぶすほどに、恵理香の顔は歪んでいた。
――――どうしてあんなブスが冬也くんに。
忌々しそうに眉間にしわを寄せて、音楽室を見上げる。
しかし、里子が飛び降りた窓を見た途端に、その嫉妬は幽霊のようにかすんで消えて、冷たい恐怖心と苛立ちに変わった。
――――もう嫌ッ。
歩みを止めて、目玉が飛び出そうになるくらい、音楽室の窓を見つめる。
クリーム色のカーテンが、半分ほど開いていた。
制服姿の女。
顔には血の流れた赤い跡。
――――また、里子が見てる。
傷んだ髪が見えるわけではない。
一重のまぶたがわかるわけでもない。
それでも、里子が飛び降り自殺を図ったそこにたたずむソレが、里子であることを恵理香は直感していた。
「どうしたんだ、恵理香」
冬也が少し前で足を止めて振り向いていた。
恵理香はゆっくりと音楽室を指さす。
「里子がいるのーーーー」
間髪入れずに冬也が振り返る。
冬也は何の反応もせずに押し黙り、しばらくすると深くため息を吐いた。
「こんな冗談を言うなんて。最低だな恵理香」
悔しそうに震える冬也の肩を見ても、何故そんなことを言われたのか、絵理香はまったく理解が出来なかった。
「何もいないじゃないか。騙されて振り向く俺を見て、楽しかったのか」
騙されてという言葉を受けて、恵理香は音楽室を見上げた。
誰もいなかった。
それどころか、カーテンは閉まっていてた。
とっさに冬也に歩み寄り、その肩をつかむ。
「違うのッ。そんなつもりじゃなくて。さっきはカーテンが開いていて、そこに里子が――――」
冬也が肩に乗せられた手を勢い良く振り払い、恵理香の美しい顔を見た。
「――――いないんだよ。里子は死んだんだ。よく知ってるだろッ」
周囲を気にしない大きな声で言い放った冬也は、そのまま足早に校舎へ向かっていった。
取り残された恵理香は歯を食いしばり、強く拳を握り、何もいない音楽室を睨み付けた。
――――あのブス。
ーーーー死んでまで邪魔するなんて。
恵理香の足は音楽室へ向かっていた。
怒りに身を任せる恵理香の頭の中は、里子のことでいっぱいだった。
挨拶してくる人達を無視して、音楽室へ向かう階段を駆けあがった。
その姿と表情に、美しさは微塵もない。
階段を登りつめた先に人の気配はなく、四階の廊下は水を打ったように静まっていた。
左手の突き当りにある扉へ詰め寄り、豪快に扉を引き開けて乱雑に閉めた。
カーテンの閉まった薄暗い部屋に視線を巡らせる。すぐ左手に教卓とピアノが並び、正面の棚田のような段差に長机が並んでいる。
絵理香は左奥にある窓を睨め付けた。
里子が飛び降りた窓である。
「おいブスッ」
そこへ向かって投げやりに放った声は、音楽室に響くと虚しく消えた。
さらに何度も叫んだが、当然なんの反応もなく、絵理香は強い足音を立てながらその窓へ近づいた。
ゆっくりとカーテンを開ける。
窓を閉めたまま、先ほどまで冬也と歩いた、小さな並木道を見下ろす。
この高さから飛び降りたのだ。
真下を見下ろして、絵理香はわずかに震えた。
「ブスの顔なんて見たくないけど、言いたいことがあるなら出てきなさいよ」
呟いた言葉には、なんの返事もない。
少し冷静になると、本当に里子が出てきて欲しい願望と、もし出てきたら殺されるかもしれないという妄想が綯い交ぜになっていた。
落ち着いて考えれば、死んだ里子がいるわけがない。
絵理香はおもむろに、カーテンを開けたまま窓から背を向けた。
光を取り込んだ音楽室の中は明るい。
しかし、歩き出そうとした時、小さな擦れる音とともに、部屋が薄闇に包まれた。
絵理香は即座に振り返る。
カーテンが閉まっていた。
体を動かさずに、目線だけで周囲をうかがう。
いつの間にか足が震えていた。
あれほど出て来いと願っていたが、本心では何もいないことを理解していた。
死んだ人間がいるはずがない。
しかし、今は音楽室に何かがいることを直感していた。
絵理香は息潜めながら、背後を向こうとする。
同時に背中を強く押される感覚に襲われて、短く悲鳴をあげた。
身体が無理矢理に動かされる。
意思に反した前進に抗おうとするも、絵理香の細い身体では全く抵抗できない。
上半身と頬は、里子が飛び降りた窓のガラスへ打ち付けられた。
「痛いッ。やめてッ」
もがくとガラスが揺れて音が響く。
割ろうとするかのように絵理香の顔は押し付けられ、一向にその力は弱まらない。むしろ、次第に強くなっていた。
ーーーーこのままじゃ殺される。
必死にもがいていると、ふいに背中を押す力は消え、絵理香は後方に向かってよろめいた。
どうにか倒れるのを堪えると、体中に悪寒が走り、嫌な予感がした。
背後に何かがいる気配を感じる。
ゆっくりと、そして恐る恐る振り返る。
肩まで伸びた傷んだ髪。
一重まぶたに真っ白な目。
一文字に結んだ口。
顔をわけるように流れた血の跡。
そこには、ーー里子が立っていた。
絵理香は悲鳴を上げて、少しでも遠ざかろうと窓に背中を貼り付ける。
「何よッ。近寄るなブスッ」
精一杯の強がりにも、里子は表情一つ変えない。
怯えることも、怒ることもなく、真っ白な目を見開いた無表情のまま、おもむろに両手が伸ばされる。
その両手は、絵理香の顔を挟もうと移動する。
「嫌嫌嫌嫌ッッ」
顔を背けて、視線だけをその手に向ける。
絵理香が遠ざけるように足を蹴り飛ばそうとしても、里子の身体は地面に張り付いたように微動だにしない。
ゆっくりと頬に手が伸びてくる。
絵理香は口を歪ませ、嗚咽のようなうめき声を上げる。
その目には、いつの間にか涙がたまっていた。
「誰かッ、ねえ誰かッ、助けてッーーーー」
里子の手から出る冷気が頬に伝わり、顔を小刻みに震わせる。
次の瞬間。
ドライアイスを押し付けられたような、冷たい痛みが両頬に走った。
里子の両手が、背けていた絵理香の顔を強引に正面へ向ける。
「嫌ッッーーーー」
黒目のない目玉が、絵理香を睨みつける。
口づけをしようかという程に、顔が迫る。
顔が潰れるほどに目をつむり、声を絞り出す絵理香。
「死ねッ。死ね、死ね死ねブスッ。キモいんだよッーー」
ふわりと、里子の手が離れた。
目を開くと。
そこに、里子の姿はなかった。
すぐさま絵理香は、必死に教室を目指した。
いつの間にか授業が始まっていたようで、生徒はおろか教師の姿さえなかった。それ故に、音楽室から自分の教室へ戻るのに、さほど時間はかからなかった。
勢いよく教室の教卓に近い扉を開くと、クラスメイトと男性教師の視線が、絵理香に集中した。
荒い息で膝に手をつく姿を見て、そこにいる全員がどよめいていた。
奇異な視線であった。
教師は目を見開いて呆然としていた。
クラスメイトは痛々しそうに顔を歪め、口を塞ぎながら絵理香を見ていた。
ーーーー何かがおかしい。
遅刻したことを怒るわけでもなく、突然の登校に驚くわけでもない。ただ、不気味なものを見るような、汚いものを見るような視線。
ーーーーまるで、ブスでも見ているような。
絵理香がそう思った時だった。
窓際の後方の席に置かれた菊の花。
里子の席のその後ろに座る冬也が立ち上がった。
「ーーーーどうしたんだよ、その顔」
絵理香は頭が真っ白になった。
自分の美しい顔を見て、心配される理由がわからなかった。
困惑している絵理香に冬也が続ける。
「ひどい顔だぞーーーー」
自分に似つかわしくない言葉から逃げるように、絵理香は廊下を走り出した。
教室のざわつきの中に、俺が追います、という冬也の声がした。
一目散に女子トイレに駆け込み、絵理香は流しの正面に付けられた鏡を見る。
「ーーーーッ。何これ」
その両頬には。
青黒い手形がついていた。
急いで蛇口をひねり、手のひらで水を受けて、顔を洗い流す。
擦るように両頬を洗って顔を上げた。
「ーーーー嘘だ。なんで」
青黒い手形がはっきりと残っていた。
猛烈に顔を洗い直していると、入り口に気配を感じて横目で見る。
無表情の冬也が女子トイレの入り口に立って、絵理香を見ていた。
「全部、里子のせいよ。本当に音楽室にあのブスがいて、私を襲ったのよ」
咽び泣きながらいう間、蛇口から水の流れる音が響いていた。
「だとしたら、自業自得だろ」
冬也は悲しそうに言った。
信じられず、思わず顔を上げて冬也を見つめた。
「いじめてたんだろ」
絵理香は絶句した。
「お前が里子をブスだブスだって言って追い詰めてたの、全部知ってる。里子が教えてくれた」
「違うのっ。それは、冬也くんがあんなブスに構って私のことーーーー」
「ーーーーそうじゃないだろ」
冬也は立ち尽くし、うつむいたまま拳を握った。
「見下して、楽しんでたんだろ。蔑んで、喜んでいたんだろ」
「何、言ってるの」
「里子が言ってた。私にブスっていう時の絵理香さんが、すごく嬉しそうだったって」
水の流れる音だけが響き渡る。
「里子を救えなかった俺が今更何を言っても遅いけど。俺にとって里子はブスなんかじゃなかった」
冬也の目に涙がにじむ。
絵理香には、彼が何を言ってるのか理解が出来ない。
みすぼらしいあの女は、ブス以外の何者でもないと思っていたのだ。
「でも、絵理香はずっと前からーーーー」
冬也の目が絵理香を捉える。
「ーーーーすごくブスだよ」
あまりにも言われ慣れていない言葉は、まったく頭に入ってこなかった。
だから、ブスという言葉の意味を理解するのに、ほんの少しの間が必要だった。
そして、絵理香は顔を歪めた。
「やめてッ」
叫び声が女子トイレに反響した。
ーーーーブスになったからだ。
ーーーー私がこんなひどい顔になったから、冬也くんは私を蔑むんだ。
ーーーー私が里子にしたように。
果たして目の前にいるのが人なのか、或いは霊なのかわからないほどに外は暗い。
人目を避けるために、部活動が終わった後にひっそりと忍び込んだ音楽室。
カーテン越しに野球部のナイター設備の光が灯っているが、中はやはり薄暗い。
「ごめんなさい。謝るから、この痣消して」
里子が飛び降りた窓の前で、絵理香は膝をついていた。
額を床につけ、頬を隠すように両手で覆っている。
医者に行っても痣を消す有効な手段はわからず、一週間の間、絵理香は部屋に引きこもって泣いていた。
初めこそ必死に顔を洗い、タオルで拭って鏡をみるサイクルをしていたが、その度に憔悴し、やがて絶望して鏡を避けた。
一縷の希望にかけて来た音楽室には、絵理香の泣き声が響くばかりだった。
無意味なことを悟り、絵理香はゆっくりと顔を上げる。
肩まで伸びた傷んだ髪。
一重まぶたに真っ白な目。
一文字に結んだ口。
顔をわけるように流れた血の跡。
そこには、制服姿の里子が立っていた。
伸ばした右手が絵理香の鼻を覆い、指先がおでこを掴む。
ドライアイスを押し当てられたような冷たい感触。
「そんなッ。もう嫌ーーーー」
抵抗することなく、絵理香は泣きながらその手を受け入れた。
やがてその手は離れ、里子の姿は薄闇の中に霧散した。
床を這うように移動し、絵理香はゆっくり立ち上がると、里子が自殺した窓のカーテンを開けた。
ナイター照明の光が遠くで光り、窓ガラスが音楽室の中を薄っすらと映し出す。
そこには、両頬だけでなく、鼻とおでこまでもが紫色に染まった絵理香の顔。
その目には大粒の涙が溢れいた。
「なんてブスなのーー」
絵理香はゆっくりと、その窓を開けた。