うしろにいるよ
僕は、廃墟マニアじゃない。それは、今の僕の彼女、美沙の趣味だ。僕は、裏野ドリームランド跡になんか来たくなかった。いわゆるトラウマがあるから。でも、美沙は強引に僕を誘い、僕としても、最近付き合い始めた彼女に、怖いから行きたくないなんて言いたくない。だから、来てしまった。
「わー! すごいすごい!」
錆び付いた『立ち入り禁止』の看板が外れかけた鉄の柵を二人で乗り越えた。美沙は目の前の有名な廃墟に興奮している。日も暮れて月明かりが頼り、僕ら以外全くひとけもない状況だというのに、この華奢な見かけからは想像もつかないくらい豪胆だ。
柵の高さは、大人が手を伸ばせば充分に届く。こんなんじゃ、入場料を払うのが無駄だったんじゃ? と思ったり、いやいやあの頃はここも人通りが多くて、勝手に乗り越えるなんて出来なかったよな、と思ったり。
そもそも、裏野ドリームランドは、幼稚園~小学生向けの遊園地だった。わざわざ家族で遊びに来て、門から入らずに子どもにこっそり柵を越えさせる親は流石になかなかいまい。そんな厚顔無恥な親は、そもそも子どもを遊園地に連れて来て家族サービスなんかしないだろう。
でも僕らはあの日、家が近いからって、子どもだけで歩いて来た。勿論、柵を越えるなんて思いつきもしなくて、ちゃんと入場料を払った。だけど、あの入場料は、僕以外の二人にとって、死の国への入場料になってしまったのかも知れない……。
子どもの僕らを浮き浮きさせた小奇麗な遊園地の思い出の光景は最早なく、雑草がぼうぼうに生え、昭和っぽい何かのキャラクターがコインを入れたら前後に揺れるような乗り物が、塗装も半分以上剥げたり支柱が折れたりした無惨な姿で、でも笑顔だけは当時のままで、目の前にある。
僕には、死んだものの残骸が、痛ましい姿で野ざらしにされているように見える。でも、美沙は、いいよねー! って叫びながらスマホで写真を撮りまくっている。合間にツイートしたり、インスタにうpしたり、忙しそうだ。廃墟マニアの仲間がリプをくれて、美沙は全く、外界と遮断された感覚なんてないみたいだ。
でも僕は、一応アカウントを持ってはいるけど、ネット友達なんていないし、わざわざこの状況をリア友に伝えるのも気が引けて、美沙のテンションと反比例的に気分は落ちていく。
ここで消えた、幼馴染。小学校低学年だった僕だけど、初めて出る葬式で、二人のお母さんが泣き喚いていたのをどうしても思い出してしまう。
風のない夜だった。僕と美沙以外、生きたものの気配はない。例えば無人島だって、もっと、生き物や虫なんかの気配があるんじゃないだろうか? でも、ここはまるで死んだ瞬間を止めた空間みたいだ。僕は気分が悪くなってきた。
「なあ、もういいだろ? 写真撮ったら、ここ出て飲みにいかない?」
「何言ってんの? まだどこにも入ってないじゃない。観覧車とかメリーゴーランドとか、色々聞くけど、何も動きは見えないね。だから、ミラーハウスにまずは行ってみようよ!」
「ええ……」
ミラーハウス。それこそ僕のトラウマの元だ。
子どもの頃、僕は友達と三人でミラーハウスに入った。そして、出て来たのは僕だけだった。
あの時、めりちゃんとけいくんは、僕が出て、三十分待っても来なかった。それで僕はミラーハウスの、帽子を目深に被った係員のお兄さんに、友達が出て来ない、と訴えた。そしたら、お兄さんは
『ああ、その二人なら、きみより先に出て来たよ。ようくんは遅いから先に帰ろう、って言ってたよ』
と言った。僕の名前まで出て来た話を、子どもの僕が疑う理由はなかった。僕は怒って一人で帰った。
そしてその夜……大騒ぎになった。
めりちゃんとけいくんは行方不明になった。帰って来ない。二人の両親は警察官と一緒に僕の家に来て、何故いないと言わずに勝手に帰ったのか、と僕を責めたてた。
僕も大人になった今では、あの時の彼らのパニック、持って行きようのない不安を、大人であり親であってさえ、弱い子どもにぶつけないといられなかった程に苦しんでいたんだと解る。めりちゃんは、祝ちゃんなんて、キラキラネームっていうんだっけ、そんな名前だったけど、その両親は、子どもを愛してるただの親だった。きっと、世界から祝われる存在でありますように、と願って考えたのだろう。
裏野ドリームランドには、都市伝説的な噂があって、毎年子どもが何人か帰って来ないと……僕らはそんな事知らなかったけれど、大人は大抵知っていた。だから、僕が誘った訳でもなく、何となく遊びに行っただけなのに、僕はまるで誘拐犯の手下みたいになじられた。勿論僕の親は必死に僕を護ってくれたけど、僕が証言した係員など存在しない、と園から言われては、僕が怪しまれるのもある意味仕方ない。
そして結局二人はそのまま帰って来なかった。その失踪に僕が関係していると断定されるものは何もなかったので、僕は警察から通り一遍の話を聞かれた後は何も咎められなかったけれど、学校ではいじめられ、隣町に引っ越しと転校を余儀なくされた。転校後は、周囲の大人が気を配ってくれたので、事件の事はクラスメイトにも知られず、僕は新しい環境に馴染み、やがて、二人がいつか帰って来たらいいなと思いながらも、二人の事を考える時間は徐々に減っていった。
でもやっぱり、この裏野ドリームランドは、そしてミラーハウスは、僕の人生を狂わせてしまった場所だ。あの日三人でここに来なかったら、僕は元の環境で普通に育った筈。周囲の好奇の目、望まない引っ越しのせいで、親は僕の身代わりにストレスを抱え込み、普段は優しい親だったけれど、時折鋭い言葉の矢を無意識に僕に射かけて、僕はいたたまれなくなったんだ。
『勝手な事をするからこんな事に』
『あんたを信じているけど』
今思えば、あの頃の親の状況では、出ても仕方のない言葉だったけれど、僕は辛かった。
ああ、次々と嫌な思い出がよみがえる。やっぱり来るべきじゃなかった。
「ねえ、どうしたのよ? まさか噂話が怖いとかないよね?」
僕の過去を知らない美沙はそう言って僕の腕を掴み、ミラーハウスへ引っ張っていく。後から思えば、振り払う事だって抗弁する事だって出来た筈だ。でも、そうしなかったのは、その時はプライドだと思っていたけれど、実は既に囚われていたのだろうか?
「うげっ、埃っぽい!!」
「当たり前だろ、廃墟なんだから」
こうなればさっさと入ってさっさと出よう。そして後は、何か甘い誘いでこんな場所から連れ出して、明るい夜の街で飲んで忘れよう。
建物に入ると、月明かりもなくなる。美沙は懐中電灯を点けた。
割れて欠けたりひびが入ったりした鏡に、人工的な小さな光が乱反射する。
『ようくーん。どこー?』
めりちゃんのあの日の声が不意に甦って、僕は激しい頭痛に襲われた。そうだ、この壁の向こうだった。僕が入り口付近で迷っている間に、めりちゃんは先に進んで行って姿が見えなくなったのだ。
「美沙、何だか気分が悪いよ。もう出よう」
僕は隣の彼女に言った。けど、返事がない。振り返ると、彼女の姿は消えていた。
「美沙?」
ふざけるなよ、と思った。彼女の希望で嫌々来たのに、かくれんぼで僕を無様に驚かせようと?
僕はひとりで、夜中に廃墟の裏野ドリームランドのミラーハウスにいる。その事を考えないようにしないと、と思う。だけど、美沙の懐中電灯は床に落ちていて、光は乱れて割れた鏡に反射し、訳の分からないものしか見えない。
「美沙! どこだよ?!」
僕は怒鳴った。
すると、僕のスマホが鳴った。ラインが来ている。祝? いつの間に友だちの中に? 何の嫌がらせだ。
『私、メリーちゃん。きみの後ろにいるよ』
どっと汗が出た。考えて欲しい、夜中に廃墟で一人きりなのだ。
「美沙だろ? 変な悪戯するな!」
僕の過去を知っていた? 好奇心は強いけど優しい良い子だと思っていたのに、トラウマを抉るような悪戯は許せない。
『私、メリーちゃん。きみの後ろにいるよ』
また同じ内容のラインが入る。
その後は、スタンプの連打だ。初めて見る、可愛いイラストなのに何故か不気味な……。
『後ろにいるよ』
『後ろにいるよ』
『後ろにいるよ』
女の子のイラストと文字。連打、ピロリロリンピロリロリンピロリロリン……息つく間もなく、何十回も入る。電源を今すぐ切った方がいい。そう思いつつも僕は、スマホを握りしめたまま、開いた画面に凄い速さでスタンプと既読表示がついて流れていくのを黙って見つめたまま、固まっていた。
後ろにいるのは、わかってる。
気配を感じるから。そして、目の前の鏡に、映っているから。恐怖に絡めとられ、スマホを握りしめた僕。その背後に……女がいる。でも、美沙じゃない。美沙の服装だけど、鏡が割れていて、首から上は見えない。美沙じゃない。振り返れない。
『後ろにいるよ』
『後ろにいるよ』
『後ろにいるよ』
連打。僕はどうすればいい? 美沙はきっと先に逃げたんだ。僕が、ガチの霊スポットかもだよ、って警告したから怖くなって。だから、僕は自分で逃げなくちゃ。
『私、祝ちゃん。きみの後ろにいるよ。ようやく、迎えに来てくれたね』
文字のメッセージが入った。
「めりちゃん……? まさか生きて……」
僕は、振り返ってしまった。
美沙の身体の上に、めりちゃんの首が乗っている。
「うわああああ!!!」
「ようやく代わりを連れて来てくれてありがとう。私とけいくんは、ずっと鏡に閉じ込められてた。次の人が、特別な光の反射を受けてこの位置に立ってくれないと抜け出せなかった。でも、ドリームランドは閉園になったし、丁度良くこの隅に来てくれる人なんてなかなかいなくて……ずっと待ってたけど、ようくんが来てくれて嬉しい」
僕は、意識が鏡に吸い取られていくのを感じる。僕は鏡に入り、僕の身体にはけいくんが入り込んだ。
「大丈夫、他の人には今まで通りに見えるから。ばいばい、ようくん。ありがとう」
『待って! 僕は何も悪い事してない! 美沙も!』
「私たち、十年も鏡の中にいたんだよ。悪いことしたかなんて関係ないの」
「ぼくたちの身体を取っちゃった人たちは、もう気が狂っていたから、多分そのままどっかへ行って死んじゃったんだろうね」
「ああ、嬉しいな。ママやパパに言えないのは残念だけど」
けいくんの首を乗せた僕の身体と、めりちゃんの首を乗せた美沙の身体は、そんな事を言い残して、後は振り向きもせずに手を繋いで出て行った。
『羊……怖い。なんでこんなことに?』
何もかもがぼんやりした世界の中で、ぼうっと浮かんで話しかけて来る生首は美沙。今はもう、僕たちが、この、うち捨てらてた鏡の中にいるのだ。出られない。
『待つしかないよ』
と僕は言った。
『何を待つの? 私の身体は?』
『身体はもう戻って来ない。同じ時間に遊びに来る馬鹿を、限りなく低い可能性で待つか……このミラーランドが取り壊されて、可能性が消えるのを待つか、だよ』
多分、後者になるだろう。そして僕らは永遠に彷徨うだろう。出口のない、鏡の中で。