表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/18

11

 ちょっと、危ない!まったく、どこ見て歩いているのかしら。

あたしもさっきぶつかったわ。なんだか慌しいわね。そろそろ学期末だから?

違うわよ、わかってるくせに。アレックスから逃げてるんでしょ。

ククク!アレックスったら、例の殺人童貞に負けてから……荒れてるものねえ、ククッ!

笑い事じゃないわ。あたしたちまで標的にされかねない。

クク!噂じゃあ誰彼構わず戦闘を吹っかけては、機械虫を吸収してるらしいじゃない。

そうよ。おおかた自分の機械虫を増やして、リベンジするつもりなんだわ。

 恐ろしいったらないわね。早くイライラを治めてくれればいいのに。

 それが敗北の瞬間を見ていた例のギークが噂の発信源らしいのよ。

 もう何ヶ月も経つのに未だにその話してるものね。興奮しちゃって。いい迷惑だわ。

 本当よ。そのせいでアレックスもフラストレーションが溜まったままなんだから。

 そう言えばあいつの話じゃ、例の殺人童貞は機械虫も使わずに勝ったそうじゃない。

 そうらしいわね。でもなんだか都市伝説みたいで、信じられないわ。

 確かに信じられないけど、面白そうじゃない。何か秘密があるのかも。

でもねえ……何か、話を盛っているような気がするのよ。あいつ、卑怯者だし。

あたしは興味あるわ。例の子は顔も可愛いしね。付き合っちゃおうかしら。

 ちょっと、あれは久居リンコのお手つきよ。面倒ごと持ち込まないでよね。

 ククク!冗談よ。それにしてもあなた、やけにアレックスの肩を持つじゃない。

 そ、そんなことないわよ!やめて、変な目でこっちを見ないでよ!

 あなたがそんな顔するなんて、可愛いところあるんじゃない、ククッ!

 まったく……。あ、ほら。噂をすれば例の子よ。

 あら、本当。クク!嫌だ、聞こえたかしら。乙女の恋心。

 よく言うわよ。

 リョウにとって、噂はするのもされるのも気分が悪い。それがここ数ヶ月の間、毎日のように自分の噂を耳にしている。呆れて物が言えない状態を通り越して、耳をふさぎたくなるほどだ。その噂がやっかいな分、気分の悪さも割り増しだ。

 アレックスとの決戦の後、リョウの体はあっという間にピックアップポイントへたどり着き、それから数時間後には帰還用のヘリの中にいた。リョウはほとんど口を開かなかったが、身元確認などを済ませた後は到着まで寝るだけだったので特に問題はなかった。

 そうして、ようやく要塞学園のヘリポートに着陸するというところで目を覚ますと、なんとリョウは自身のコントロールを取り戻していた。何事もなかったかのように全身を動かすことが出来、ひょっとして今までの出来事は夢だったのではないかと思ったほどだ。

 ところがそれは間違いだった。帰還してからすぐ、リョウがアレックスを撃破したという驚愕のビッグニュースが全校内に知れ渡った。アレックスの不敗記録は半ば伝説化していたもので、それを打ち破る者が現れるなど誰も予想していなかった。一気に有名になったリョウも最初のうちは鼻高々に、勝利の気分に酔いしれていた。しかし同時に、リョウは名を上げようと躍起になった連中の標的にされてしまったのだ。

 以前から絡まれやすい傾向があったリョウだが、今度は順番待ちの行列が出来るほどの人数がリョウへと挑戦してきた。アレックスに勝利したことが実力のためだとはまったく思っていないリョウは、向かってくる猛者たちの大群に青ざめて、もう土下座して許してもらおうかとすら思った。実際、リョウではまるっきり太刀打ち出来ない強さの人間が山ほどいたのだ。

 しかし、初戦をこなしてから状況は一変する。挑戦者の拳により当然のように叩き潰されたリョウはリングに倒れこみ、このまま意識がなくなると思った。

 その瞬間、アレックス戦と同様のことが起こった。リョウの体はコントロールを失い、代わりに何者かが戦闘を再開したのだ。今まで一方的にやられていた弱者が突然にスーパーマンへと変貌して、対戦者はうろたえる暇もなくノックアウトされた。そのまま並んでいた挑戦者数名をチャンバラのごとく圧倒的な強さで戦闘不能にすると、半ば野次馬的に並んでいた大勢の挑戦者たちは一目散に逃げ出した。そうしてしばらくしてから、リョウの体は勝手に自室へと赴いてベッドへ倒れこみ、目が覚めるとリョウは体のコントロールを取り戻していた。

 楽観的に考えれば『ピンチの時に超人的な力を発動する便利な二重人格』なのだが、リョウには重大な懸念材料があった。アレックスと戦った夜、リョウは確かにタックの銃弾によって死んでいたのだ。深く思い返すほど、あの時の弾丸は絶対に頭蓋骨を打ち砕いていたという確信が強まる。それはつまり、何らかの手によって壊れた頭蓋と脳みそが瞬時に修復されていたということに他ならない。

 リョウはため息をついて、自分の頭をなでた。怪我の痕などまったくない。それが何を意味するのか理解して絶望しながら、リョウは再度モニターに視線を戻す。

 今、リョウはリンコを連れて、学園の図書室に来ている。役割分担として、リョウはコンピューターを使って電子化された文献を調べ、リンコは機兵化した目の能力を活かして大量の分厚い書籍を片っ端から調べて行く。ぱらぱらとめくるだけで内容を把握出来るので、作業効率はリンコのほうが圧倒的に早い。

「ちょっと、リョウ。あんた、休み過ぎなんじゃないの」静かな室内で、リンコが小声で言う。「あたしの十分の一も進んでないじゃない。誰のために調べてると思ってるの。あたしはもう機兵化済みなんだから、こんなことしなくてもいいのに手伝ってあげてるのよ。もうちょっと真剣にやりなさいよ」

「ああ、ごめん。ちょっと考えごとしてた。休みなのに付き合わせて悪いな、助かるよ。本当にありがとう」

 そう言ってリョウがほほ笑むとリンコは怒りながらも少し照れた様子で、また文献をめくり始める。実際、リンコのおかげで通常とは比べ物にならない早さで調べることが出来ている。まさにリンコ様々、機械虫様々なのだ。

 二人が調べているのは、機械虫の人体への影響だ。機械虫は本要塞学園で作られた門外不出の技術だから、すべての情報は学内データベースにある。研究されている期間も短いので作業はすぐに終わると思っていたが、リョウの欲する情報は未だ見つかっていない。

 つまるところ、リョウは機械虫がリョウの脳を食い尽して代替としてそこに居座っている、言いかえればリョウの脳みそは機兵化しているのではないかと疑っていた。そう考えれば、銃で頭を吹き飛ばされて無事だった事も、突如として自身のコントロールを失うようになったことも、いつまで経ってもリョウの体に機兵化の兆候が現れないことも納得がいく。超人的な力も、機兵化された脳による完璧な体の操縦と、筋肉のリミッター解除によるものだろう。

そして同時に、リョウは自分が機械虫に乗っ取られているのではないかと気が気ではなかった。アレックス戦の後、リョウは外圧によって意識を失う度にコントロール不可の状態に陥っていた。このままではいずれリョウの体は完全に機械虫の物となり、次の朝にはもう目覚めないのではないのかという不安と恐怖のために、リョウはここのところ寝不足で目の下にクマを作っているほどである。

その考えが思いついてすぐ、リョウはアニーの元へ向かって機械虫の寄生先について聞いた。機械虫は人体の各部分にランダムで寄生すると説明していた。ひょっとして、頭脳に宿った場合についても何か知っているかも知れないと考えたのだ。

「それはないわ」答えはノーだった。「機械虫は自律活動が出来ないの。人間の脳の支配下にあって初めて、その部位の代替物として働くことが出来る。それが機械虫のすべてなのよ。だからそもそも、宿主の脳のコントロール下にあるところにしか寄生出来ないの」

「そうですか。……ちなみに、そういう学説の例外みたいなものってありますか?」

「うーん、どうかしら。機械虫自体、実用化してから日が浅いものだからね。例外なんてあるとしたら、今ごろ実験棟でモルモットにされてるはずよ。……でも、なんでそんなことを聞くの?」

「い、いえ、なんでもないです。教えてくれてありがとうございます!」

 リョウは適当に挨拶すると、逃げるようにアニーの元を去った。

 モルモットなんて、考えただけでも恐ろしい。タイル張りの真っ白な部屋に監禁され、人権を無視された生活環境の中で、半死半生の状態で生かされている自分の姿がリョウの頭をよぎった。脳みそをいじくり回された挙句、ホルマリン漬けにされて医学科の学生の研究対象となり、誰とも会えないまま秘密裏に抹殺されてしまうかもしれない。どうしても避けたい未来だ。

 それを経てリョウは脳の寄生したであろう自分の機械虫についてはリョウだけの秘密にして、あくまで機兵化出来ない理由を探したいという名目で資料を探していた。当然、リンコにも真実を伝えてはいない。信用していないわけではないが、取り乱したリンコが学園側の誰かに報告でもしたら一巻の終わりだ。

 その日の三時過ぎには学園内の資料はあらかた探し終わり、結局進展はなかった。やはり自分が前代未聞の不運に見舞われているのだという確信を強めたリョウは、疲れと落胆から食欲が減退していた。ただでさえ、ラストオーダーぎりぎりに入っていたから、学食の厨房からは迷惑そうな視線を感じる。

「ねえ、ちょっと大丈夫?リョウ、全然食べてない」

 リンコが心配気な声を出した。今晩の食事は、先ほどの作業を手伝ってくれたお礼としてリョウが提案したものだが、いかんせん誘った本人であるリョウの側に食事を楽しむ余裕がなくなっていた。それどころか傍から見ても不審に思うほど、リョウの様子は焦燥しきっている。普段ならリョウの悩みを笑ってあしらうリンコでさえ、神妙な顔をせざるを得ないほどだ。

「うん。……ちょっと食欲がなくてさ」

 おれの不安の全部を洗いざらい話せたら、どれだけ楽だろう。言ってしまいたい。言って、誰かに守ってもらいたい。

でも駄目だ。下手に心配させるわけにはいかない。今ここでおれが喋ってしまえば、リンコも不安にしてしまう。それだけは駄目だ。その役はおれだけで十分だ。

「でも大丈夫。たいしたことじゃあないんだ。そのうち何とかなるから」

「……そうなの?」リンコが上目遣いで、リョウの顔をうかがうように問う。リョウはなんとなく、リンコを裏切っているような気持ちになって心が痛んだ。「無理しないでね。何かあったら、あたしに相談して。二人でやれば、なんでも解決出来るよ」

「そうだね、ありがとう。そういう時は真っ先にリンコに相談するよ」

 リョウが笑って答えると、リンコも笑顔になる。同時にリョウの中で、この女性を悲しませたくないという気持ちが強まっていく。リョウはやっぱり黙っておこう、と心に固く決めた。

 学期末の試験が終わるころには、事態はさらに悪化していた。脳以外の部分すら徐々に機兵化していたのだ。ある日、例によってスパークリング申請を受けたリョウはダウンとともに機械虫にバトンタッチをしたのだが、相手はかなり機械虫の扱いに長けていて、瞬時に機兵化してチェーンソウを精製すると、そのままリョウに切りかかってきた。その動きを見ながらリョウは、どうせ機械虫が操る体の俊敏な動きにはついて来れないだろう、とたかをくくっていたのだが、その日に限って機械虫はまるで避ける様子を見せなかった。焦ったリョウは脳内で動け!動け!と連呼する。すると、なんと次の瞬間にはリョウの頭から右手までのすべてを機兵化させて、敵のチェーンソウを受け止めていた。

 結局、その戦いはリョウの圧倒的な勝利に終わる。しかしリョウは自分の機械虫が段々と増長を始めていることに、恐怖を抱かずにはいられなかった。このままいけば、数ヶ月と待たず全身が機械虫に取って代わる。もはや逃れられない恐怖が、目の前まで迫っているのだ。

「ねえ、リョウ。夏休みは実家に帰ってみたら?」リンコが言った。これはアニーの提案だった。「実家だったら、いつでも喧嘩を売られる学園にいるよりは休みが取れるはずよ。ゆっくり休んで。何があったのか知らないけど、あたしもう見ていられなくて……」

 リンコは今にも涙を流しそうな、鼻にかかった声で言う。滅多に見ることの出来ない表情であることは、リョウが一番よく知っている。彼女の必死な様子のために、自分が今どれだけひどい状態なのかが自覚出来て、リョウは心の中で自嘲した。

 それにしても、実家か。まさかリンコの口から言われるなんて、思っても見なかった。でも確かに、実家なら戦いを挑んでくる相手も図書館もない。一時的ではあるけれど、とりあえず機械虫の行動をストップさせて、その間に対策を練ることは出来る。そのための、格好の場所だとさえ思う。

 実家行きの提案を二つ返事で了承したリョウは、終業式を終えてからすぐに荷造りをして、帰宅を伝える旨を電話一本で伝えた。電話に出たのは、リョウの祖母だった。

 日本にあるリョウの実家までは、要塞学園の民間用ターミナルから出ている飛行機に乗っていく。久しぶりに、戦地に赴くためでなく飛行機に乗ることが出来て、リョウは妙な気分になった。

 成田空港についた後は電車に乗り換え、長い旅路を寝るように過ごすだけだ。主要都市には特急が直通しているから、現地について車掌のアナウンスを聞くまでは何もすることがない。インターネットにつなぐ環境も映画などの設備もあるが、移動中までそんなものに向かう気はさらさらなかった。

 リョウは実家行きの汽車に乗る度に、窓からぼうっと風景を眺めるようにしていた。大戦直後は焼け野原だった都心も、今はすっかり世界有数の先進都市としての風格を取り戻している。要塞では見る事の出来ない、経済や生活のためのハイテクをただ眺めるのが好きなのだ。

機械虫のような流線型をした銀色の建物を抜けると、徐々に昔ながらの田畑が目についてくる。確実にリョウの実家へと近づいている。リョウにとっては見慣れた景色だが、今回はリンコとマオが同行していた。シリアスに構えているのはリョウだけであって、他の二人は旅行にでも行くような気分らしい。特にマオは、孤児院に来てからというもの施設外に出たことが全くないからか、興奮して窓の縁に張り付いたまま外を凝視している。夏場のカエルみたいだ、とリョウは笑ったが、リョウのための帰省が彼女にとって良い旅になればとも同時に思う。

 しかし一方でリンコについては、リョウの心中は穏やかでない。リンコは今まで、訓練以外で要塞の外に出たことがないのだ。それはもちろん、過去の大戦において家族を失ったためだ。リンコには、要塞以外に帰る場所がない。

 その点についてリョウはずっと罪悪感を持っていた。一緒に両親を失って、さらに守ってやるとまで約束したにもかかわらず、自分は祖父母に引き取られて安穏と生活することが出来る。それがリョウにとって申し訳なくて、たまらなかった。結局、リョウは祖父母の家でごねにごねて、数年を経て要塞に戻ることになったのだ。

 リョウはちらり、とリンコの顔を見る。マオと顔を並べて景色を眺めている様子は、とても嬉しそうに見える。しかし、その本心でどんな風に思っているのだろう。

 おれにもリンコみたいなハイテクな目があったら、今彼女が何を感じているのか、なんで笑っているのか、本当に笑っているのか、わかるのだろうか?

 馬鹿なことを考えるな!リンコの目は事故でなくしたものだ。五体満足だったおれのほうがずっと幸せで、あいつの目をうらやむなんてそれこそ失礼なことだ。

 リョウは自嘲っぽく微笑んで、ピクニック気分の二人を無心で眺めていることにした。

 実家から三十分程度の距離にある最寄駅に着いた。電車内との空気の違いを強烈に感じる。田舎だから自然が多く、空気が澄んでいるような気がすると同時に、盆地独特の湿気を伴う熱気が車内でクーラーを浴びていた三人を襲う。肌をガンガン焼いていく日差しとセミの声、それに大きな旅行カバンを持ったリョウたちの風体はまさに夏の風物詩だ。

 要塞学園仕様のパスカードを使って改札を出る。料金はすべて学園に請求される仕組みだ。本来は訓練で外国へ行った時に現地での支払いのために使うものだが、成績優秀者には金額制限付で私用にも使える許可が下りる。もちろんリョウもリンコも今期の成績は、セカンドグレート内でもトップクラスだ。先日のジャングルでの訓練も、見事単位を獲得している。マオだけは、孤児院で申請してもらった仮パスを首からさげて使っている。料金は孤児院持ちだ。

 外に出ようというところで、リンコとマオが駅舎を見上げて歓声をあげた。駅舎のデザインは明治時代に西洋の建物を模して作ったもので、本県の観光パンフレットには必ずプリントされるほど〝ちょっとしたもの〟なのだ。県の文化遺産にも指定されていて、大戦で無事に残ったことは奇跡だとも言われている。建物の脇に、写真撮影用に顔の部分だけ穴が開いた、県のマスコットキャラクターの等身大絵板があることだけが玉にきずだとリョウは常々思う。

 駅に隣接するバス停群を抜けると、すぐにリョウの祖母が車の脇で手を振っているのが見えた。リョウも手を振り、連れの二人に祖母を紹介する。リンコは流暢な日本語で挨拶し、マオは照れた風に会釈した。

「まあまあ、リョウちゃん。こんなに大きくなって。おばあちゃん、びっくりしちゃったわよ!それに女の子まで連れてきて……おじいちゃんが聞いたら喜ぶわ」

「ちょっと、おばあちゃん」リョウは内心焦った。リンコと結婚するつもりであることは、自分の身内には伝えていないのだ。「恥ずかしいから外でそういうことは言わないでよ。おじいちゃんよりも先に、リンコとマオちゃんがびっくりするじゃないか」

「それもそうだわね。それにしても、本当に大きくなったわ。背丈だけじゃなくて、他の全部が大人になった。かわいい彼女さんがいるのが、その証拠。おじいちゃんに会わせるのが楽しみね」

 リョウは久しぶりに、恥ずかしさのあまり耳が赤く染まるのを感じた。リョウの後ろにはリンコとマオがいる。恐らく、リンコは笑っているだろう。後ろは向かないことにした。

 車に乗ってしばらくすると、駅の周辺と比べてさらに自然が減っていく。四人が乗る車は国道を道なりに進んでいるだけなのだが、あっという間に市街地から住宅地に変わり、そしてそろそろ到着というころになると周りは田畑だけになった。この道を逆方向に行けば東京にたどり着くのだが、果たして本当なのかと疑問さえ浮かんでくる。

 ぜんぜん変わらないんだな、この辺は。父さんと母さんが生きてたころと一緒だ。まるでもう永遠にこのまま、変わる気もないみたいに。このままでいてほしい。

 リョウは深い感慨を得てため息をついた。安心と満足感のため息だ。その真意を察してか、道すがら会話をしていたリョウの祖母とリンコも、相変わらず楽しそうに外を見つめているマオも頬を緩める。車内に居心地のいい雰囲気が流れていた。

 実家に着いてドアを開けると、奥から猫が一匹やってきて三人を出迎えてくれた。まだ若く、鳴く声にも元気があって可愛らしい。実際は三人のためではなく、飼い主であるリョウの祖母の帰りを待っていたのだった。

「おばあちゃん。猫なんていつの間に飼ってたの?」

 リョウが尋ねると、祖母は手の中の猫をなでながら答える。

「それが、つい先月なのよ。雨の日に家の前で鳴いてたのを、可哀そうだからうちで飼うことにしたの。おじいちゃんと二人っきりじゃあ、やっぱり活気がなかったから。今じゃあ、うちのムードメーカーよ」

「名前は何ていうんですか?」

「うふふ」

リンコの問いに、リョウの祖母は笑って答える。

「リョウタって言うのよ」

 疲れたマオを休ませるためにしばらく睡眠を取ると、起きた時にはすでに日が暮れかかっていた。最初に目を覚ましたのは、始めての遠出に未だ興奮覚めやまぬマオだ。リョウとリンコが寝ぼけ眼で居間にやってくると、マオはすっかり仲良くなったリョウタをじゃらして遊んでいた。リョウにとって初めて見る、マオの笑顔があった。

 しばらくして祖父が帰宅すると、すぐに夕飯が用意された。少なくとも学園の外に出れば大食いの部類に入るリョウですら、驚くほど大量のごちそうが机の上をところ狭しと並べられていく。ここのところ食欲が低下していたリョウは物量に圧倒されて、本当に食べきれるのか、と心配になった。しかし食べ始めると意外にも箸が進む。学食ばかりで長いこと食べていない、郷里の味だ。

 そしてリョウは自分たちが限りなくリラックスしていることに気づく。笑顔になったマオだけではなく、自分も、久しぶりに酒を飲み顔を赤らめている祖父とグラスにビールを注ぐリンコも、リョウの器が空になる度にお変わりを出す祖母もそうだ。帰省を決断する前こそ、さまざまなことを気にかけていたが、いざ来てみるとこれほど心休まることもない。

「リョウは何泊していくんだ?」

 リョウの祖父が尋ねる。

「うん、一ヶ月ぐらい」

「そうか」リョウの祖父が新聞を広げて、記事を指差しながら言う。「もうしばらくすると、白鳥座の流星群が来るらしい。見るのにいい場所を知っているから、行ってみなさい。車も貸してやるから」

「あら、リョウちゃん。ずっとこっちにいるんじゃないの」今度は祖母が少し驚いたように言う。「てっきり、もう学校は辞めてこっちに住むつもりなのかと……」

「こら、母さん」リョウが否定しようとしたところに、祖父が口を挟む。「うちにはもうリョウタがいるんだから」

「ああ、そうね。そうだったわね」

 リョウの祖母は笑って答えた。しかしリョウの目に、その後の祖母の様子はどこか悲しそうに見え、逆に祖父は怒っているように見えた。

 ようやく料理を完食し、風呂に入る順番を待つ間リョウは用意された部屋のベッドに寝転がった。元は死んだリョウの父の部屋で、祖母が掃除こそこまめにしているものの内装や家具の配置は父が学生のころからまったく変わってないらしい。成人男性が使えるサイズのベッドがそこにしかないために、リョウがその部屋を使うことになったのだ。女性陣二人は、客間にしかれた布団で寝るらしい。二人は、あてがわれた部屋の畳床をどう思うだろうか、とリョウは一瞬考える。そしてあれこれ考えたい気分になった。

 ……考え事をするなら、あそこだな。蚊が出るかもしれないから、蚊取り線香を。それからたぶん全然使ってないから、ほこりが積もっているだろうな。雑巾も持っていこう。

 リョウは腰を上げて、向かった先は屋根の上に作られたテラスだった。見てくれは、広いベランダと言ったほうが的確だと思うほど簡素で手作り感に溢れている。天体観測が趣味だったリョウの父が子供のころ、どうしてもとねだって後から工事で取り付けたものらしい。手すりなどは父親がデザインしたもので、リョウが見てもやはり洗練されていない、子供の作品だと思う。

 市民プールにもあるような形のロッキングチェアーに腰掛ける。予想通りほこりまみれで、リョウは持ってきた雑巾で軽く拭いてから深く座った。そうして蚊取り線香に火をつけて、リョウの周りに蚊を寄せ付けずなおかつ線香の臭いも最小限に抑えられると思われるポイントに置いた。すでに外は真っ暗だが、街灯のおかげで線香のくゆる様子がはっきりとわかる。今は風が吹いていないようだ。

 静かだった。遠くでたまに車が通る音以外は、虫の音ぐらいしか聞こえない。皆と一緒に食事を楽しんでいた時とはまた違った安心感を、リョウは一人味わっている。

 そしてリョウは思う。今、久しぶりに実家へと帰ってきた。きっかけは自分の機械虫の様子がおかしいためだが、ゆっくりと考えたいこと、振り返りたいことが山ほどある。

 あの時、リンコと一緒に被害を受けていなければ、学園に入ることもなくこの地で安穏と暮らしていただろう。アニー先生と出会っていなければ、孤児たちの面倒を見ることもなく、同期の生徒たちと遊ぶ時間が増えたはずだ。アレックスに因縁をつけられていなければ、他の生徒たちと同じように堂々とびくつくこともなく過ごしていたに違いない。そうあったなら、学園内で有名になることもなく、したがってタックに襲われることもなかった。

 そう言えばあのジャングルの一件以降、アレックスにもタックにもあっていない。アレックスはおれ対策として他の生徒から機械虫を奪いまくっていると聞いているが、タックについてはまるで音沙汰なしだ。もともとインドア派ではあったはずだが、それにしても二度も命を狙っておきながらその後まったく動向がわからない。

 いいや、自分に本心を隠すのはよそう。おれが気になっているのはただ一人、サムのことだ。あいつはあの晩おれを置いて逃げおおせた後、課外プログラムはおろか学園からもいなくなってしまった。つまるところ失踪してしまったのだ。学園の職員も親しい友人も、誰もやつの行方を知らない。ひょっとしたら、あの晩に死んでいたのかもしれない。しかし、それなら機械虫が残る。宿主の死後、脳による統制を失った機械虫は宿主の全身を食い尽くして、しかし自律で動くことは出来ず息絶えて、最終的に宿主とそっくりそのまま同じ形をした金属の人形が出来上がるという。それが見つからない以上、サムはまだ生きているのだ。

 訓練の後、リョウとリンコ、それからリンダは学園の特殊調査室に呼び出された。理由はその三人こそ、脱走したサムと最後に行動をともにした人間であり、彼の居所を知っている可能性が高かったからだ。脱走の共犯ではないか、という疑いを含んだ質問すらされた。結局誰もサムの行く先など見当もつかず、三人はお咎めなしで開放された。

 しかし、それでサムへの追跡が終わったわけではない。要塞学園内での機密情報は漏洩厳禁。ましてや傭兵コースの、それも機械虫に関わることなどトップシークレットだ。草の根も分けるような捜索が行われているに違いない。そしてサムを発見した後は、地獄のような拷問の末に殺される。以前、諜報科の知人から聞いた、拷問への耐性を付ける授業の話がリョウの脳裏に浮かぶ。舌を噛み切ったほうがマシだとさえ思える光景だが、残念ながら猿ぐつわを付けられて自害することも許されないらしい。

 一つ、リョウがため息をついたのと同時に風が吹き、線香の煙を散らした。

 今夜はもう、よそう。何について考えるにしても、明確な答えがないうちに頭をひねるべきじゃない。もちろん、おれ自身の機械虫の件も。全部保留にしておこう。与えられた休日を楽しむことこそ必要だ。だから帰省してまで学園から離れたのだから。

 階下で祖母が騒がしくリョウの名を呼んでいる。風呂の順番が回ってきたのだ。ここでリョウが遅れてしまえば後がつかえる。

 リョウは実家から漂う平穏と自身の心境とのギャップに苦笑しながら、静かに階段を下り始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ