子
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ど、どうしよう。
早紀は、鎧の側で固まったまま動けずにいた。
イデルグの息子と思われる男は、すぐ近くに迫っている。
彼女の存在に、気づかないままだ。
自分の能力を、疑っているわけではない。
子供の頃から、無意識に使ってきた能力だったし、蝕の戦場でもその力はいかんなく発揮されているようだ。
しかし、さすがに目の前に来れば、分かるのではないだろうか。
ましてや、彼は早紀の能力を知っているようだ。
知っているからこそ、強く意識をこらせば気づかれると思った。
零子も、タミも──イデルグも、「いる」と分かっているのならば、速さの差こそあれ、早紀を見つけたではないか。
は、離れよう。
ゆっくりそっと、ホールから出て行こう。
早紀が、そーっと動こうとした瞬間。
男は、ぴたっと動きを止めた。
まるで。
耳を澄ますみたいに。
早紀も、足をぴたっと止めた。
視線が。
イデルグの息子の視線が、軽く周囲に巡らされる。
気配はなくとも、空気が動くのは止められない。
足音だって、ほんのわずかくらい、生まれているのかもしれない。
あの父の血を、受け継いでいるのだ。
鋭くても、おかしくなかった。
動きを止めたおかげか、幸い見つけられなかったようだ。
しかし。
「いるのか? カシュメル卿の魔女」
堂々と呼びかけられて、更にどきっとする。
大胆で、効果的な方法だった。
早紀は、客人で。
もしこの呼びかけに応じず、自力で彼に見つけられてしまったら、スパイ容疑くらいかけられそうだ。
やましいことが、ないのならば。
「います…」
カシュメル卿とやらのために──答えておくべきだった。
※
「マジか…」
早紀の存在を、声から認識するやいなや、イデルグの息子は目を見開いた。
ようやく、焦点の合った瞳。
そして。
「マジだ…こりゃ…すげえな」
笑い出す、大きな口。
おかしくてたまらないように、彼は身体をのけぞらせて笑う。
「なるほど…確かに、一筋縄じゃいかないぜ」
早紀に近づきながらも、彼の笑いは止まらない。
対する彼女は、どう反応したらいいのか分からなかった。
一体、どんな風にイデルグは、彼女のことを言ったのか。
「だが…面白い…面白いぞ、お前」
大きな手が。
がしっと、早紀の手首を掴んだ。
反射的に身を引こうとするが、掴まれた手はビクともしない。
「オレは、甲斐…お前は?」
魔族にしては、好奇心に満ち溢れた強いまなざし。
早紀が逃げたがっていることさえ、自分の欲望に正直過ぎて、気づいていないようだ。
「あ…」
引き結んだ唇を、動揺したせいで開いてしまった。
魔女ではなく、過去の早紀に戻ってしまう。
「あの…手…」
離して。
何とか、そこまで声に出来た。
「ん? ああ…いや、駄目だ。手を離したら、お前消えるだろ? 早く、名前を言え」
だが、向こうはさっぱり譲歩しなかった。
早紀の能力に対する衝撃が、彼に手を離させないのか。
こうなったら、とにかく早く名前を名乗って、解放してもらうしかない。
「さ…早紀」
空を切りそうになる唇で、ようやく名前を声にした。
「早紀か、了解…それじゃあ早紀…」
名前を、視線に乗せる、というのだろうか。
甲斐という男は、前よりも強いまなざしで彼女を見た。
そして──こう言った。
「早紀…オレの子を産まないか?」




