かけるべき言葉
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「ただし…あなたが追わなければなりません」
早紀の魔力の糸を、自分から切り離す前――タミは言った。
この糸の戻る場所を、真理自らが追え、と言うのだ。
ただでさえ理不尽に出て行った者を、カシュメルの当主である彼が。
タミは、自分の青い手のひらから伸びる糸を、不服げに見下ろした。
「この糸は、純粋な彼女の魔力で出来ています…ということは、切り離した途端…私は見失ってしまうでしょう」
不服なのは、早紀の存在を見失ってしまう自分について、か。
タミの言葉は、彼女の持つ正しい知識で出来ている。
カシュメルが――いや、早紀と契約している真理でなければ、糸を追えないと言うのだ。
手のかかる。
ため息の後。
「糸を切れ」
そう、指示を出した。
しゅるんっ。
戒めから逃れた早紀の糸は、風などない室内で、一度うねるように舞い上がった。
タミは、宙に視線をさまよわせている。
もうおぼつかなくなったのか。
次の瞬間。
糸は、最短距離をゆくべく、窓のわずかな隙間をすり抜けた。
あの通りに、追え、と。
ふぅ。
真理は、窓辺に近づくと、そのガラスを開ける。
まだ、明るい外。
生身で飛ぶのは…久しぶりだな。
人間に見られず飛ぶくらいは、まったく問題はない。
問題は。
他の魔族。
カシュメルの当主が、真昼間から生身で空を飛ぶ。
どんな、あらぬ噂を立てられるものか。
しかし。
真理には、選択肢はなかった。
こうしている間にも、糸は遠くへと向かう。
ああ。
理不尽だ。
真理は、窓から飛び立った。
※
そして真理は、理不尽な女の前に立つ。
二人──ずぶ濡れのまま。
しかも、その水は塩水というおまけ付きだった。
早紀が囚われていたのは、海中だったのである。
自室の床を海水で汚しながら、真理は魔女を見下ろしていた。
彼女はうなだれていて、死刑判決を待っているようにも見える。
ふらふらと家を出て、海族に捕まって殺されかけてました、など失態と呼べるレベルではない。
青い被膜の向こう。
真理は、海中で見たのだ。
彼女の首にかかる、男の手を。
正確には、早紀の魔力の糸が、穴を穿った瞬間に見えたのだ。
何を、素直に殺されかけている。
真理は、目を見開いていた。
そして──糸の穿った穴を引き裂いたのだ。
海族の男を、見た。
生まれて初めて見る、青の一族。
氷の壁を突き破り、彼は水の主の顔をして、闇の鎧を見据えたのである。
自分が生身であり、相手が鎧持ちの魔族であったとしても、一切の脅えも怯みもなかった。
あの目は。
戦う者の目だった。
上に立ち、殺せる者の目だった。
本能的に真理は気づいたのだ。
海族と蝕を争うことになったならば、この男と相対することになろう、と。
確かに、男は早紀を殺そうとしていた。
だが。
殺し方の、手ぬるさが気になってもいたのだ。
その気になれば、早紀は一瞬で絶命させられただろう。
憎い魔族の女を殺す方法とは、とても思えなかった。
そして。
男は、早紀を帰した。
真理が奪い返したのは間違いないが、最終的にそれに男は同意したのだ。
でなければ、海中であっさり見逃すはずがない。
援軍を呼ぶことも出来たはずだ。
なのに、見逃した。
まるで。
まるで、そう──早紀に、好意にも似た感情を抱いているかのように。
※
好意?
自分の思考に、嘲笑が浮かんだ。
どこの世界に、魔女に好意を持つ海族がいるのか。
そう思って、早紀の本当の母親の存在が頭を掠める。
海族と、何らかの関わりのある魔女。
死んでなお、娘を振り回し続ける。
確かに、その女の血を、早紀はきっちり引いている気がした。
でなければ、これほどまでに真理が振り回されることなどないのだろうから。
人畜無害のようにうなだれる魔女から、海水がしたたり落ちる。
彼がこのまましゃべらなければ、あと数十時間でもそのまま時を止め続けそうな気配だ。
理不尽だな。
その言葉は、山ほど彼の中で渦を巻き続ける。
だが。
早紀を打ちのめすほどの、強い怒りがわきあがらない。
それが、真理にも不思議だった。
いくら鎧の憑き魔女とは言え、死なない程度に怒りをぶつけることは出来るのだ。
それほどの屈辱を、この女は真理に与えたはずである。
逃亡し、海族の手に落ち、殺されかけ、それを当主自らに助けに行かせた。
憑き魔女でなければ、間違いなく万死に値する。
なのに、深く呼吸を繰り返しながら、早紀の前に立っているのだ。
おそらく、あきれかえっているのだ、自分は。
真理は、そう分析した。
あきれすぎて、怒りを通り越してしまったのだ、と。
だから、物も言えないでいる。
「………」
物も言えない自分にしびれをきらし、彼は唇を開きかけた。
しかし、声は出ない。
何を言えばいいのか──さっぱり分からなくなってしまった。
いつものように冷たく突き放し、部屋に戻せばいい。
二度と部屋から勝手に出ないよう、出入り口に魔錠でもかければいい。
なのに、真理は言葉を探せなかった。
そう。
彼は、早紀にかけるべき言葉を、無意識に探していたのだった。
※
かけるべき言葉。
そんなことに、何故自分は尽力しているのか。
その事実に、真理は眉を寄せた。
気をつかうべき相手では、決してない。
下僕相手に、探してまでかける言葉などありはしないのだ。
だが、真理は打ちすえる力も、罵る怒りも発揮できないままだった。
いっそこのまま。
早紀を置き去りに、部屋を出て行ってしまいたかった。
この場にいたくないとさえ、思い始めていたのだ。
しかし、ここは自室で。
早紀を追い出すべきだった。
『部屋に戻れ』
それだけ言えば、事は足りる。
足りるのだ。
それなのに──唇は動かない。
足も動かない。
俺は…どうしたいのだ。
真理の矛盾する心を、砕くものがあった。
ノックだ。
この、海水まみれの二人に、割って入ろうとするものがいる。
「タミです」
その声に、どこか安堵する自分がいた。
「入れ」
声が、出た。
さっきまでが嘘のようにあっさりと、当たり前のように言葉を発していた。
ドアを開けた彼女は、すぐに部屋の中に視線を走らせる。
早紀を探しているのだろう。
その視線が、水に濡れた床に注がれ──そして、ようやく見つけたようだった。
微かに、表情を緩める。
早紀が見つかったことを、喜んでいるのだろうか。
彼女は、真理へと視線を動かす。
そして。
「折檻されますか?」
涼しい声で、上に立つ魔族らしいことを言い放ったのだった。




