隙間
首をへし折られるほどの強さではなく、伊瀬はただ静かに早紀を殺そうとしてくれた。
その、残酷なあたたかさの向こうで―― 一滴。
確かに一滴、水がしたたったのだ。
それは、青く細い流れを生み出した。
雫を追うように細長い青が、滑り込んできたのである。
ぁ。
苦しい喉元が、ドクンっと反応した。
あの、青は。
あの――濃紺は。
刹那。
青い空間自体が、大きくたわんだ。
ぐわんと、気が唸った。
伊瀬が、はっと顔を天に向けた時。
泡のように。
部屋は。
弾けた。
水は、即座にうねりを持って早紀を包みこむ。
首から引き離される、あたたかな残酷。
しかし、その大きな手は、即座に早紀を捕まえようと伸ばされた。
ここは、水の中。
伊瀬のテリトリー。
この中なら彼は、地上よりも速く、そして強い。
早紀の目前に、大きな手が広がる。
再び、彼女が伊瀬に捕らわれようとした――その時。
いきなり降りた白いカーテンが、その手を消してしまう。
冷たい、とても冷たい、氷のカーテン。
あ。
ぁあ!
急激な温度の変化に、早紀を取り巻く水は蜃気楼のように揺らめいた。
早紀の真上。
いびつな光の屈折率の物陰から。
白い白い指先が――伸ばされていた。
※
水中で。
天を仰いだ早紀の、額に押しあてられる指先。
ごぼっ。
彼女の吐き出した空気が、蜃気楼の向こう側の景色を、粉々にしてしまう。
だが。
だが、早紀の額に触れる者など――ただ一人。
何故?
明確な疑問さえ間に合わないほど速く、指先は円を描いた。
黒い泡が、早紀の全身を包んだ。
水の中で鎧になるのは、これが初めて。
全身から吹き出す黒い魔気の代わりに、水が押し寄せてくる圧迫感。
そして。
水よりも大きな質量が、早紀の中に滑り込んだのだ。
忘れもしない、独特の生々しさ。
あ。
何故、泣きそうになったのだろう。
もう何もかもどうでもよくなって――それこそ自分の命にだって、興味を失っていたというのに。
自分の隙間を埋められると、満たされた幸せのような錯覚を覚えるのか。
早紀の戸惑いが落ち着くのを――待ってくれない者がいた。
白いカーテンが、眼前で砕け散ったのだ。
美しいほどの、氷の破片の乱舞。
その舞と共に、赤茶けた濁流が踊る。
伊瀬の長い髪が、生きもののように水中でうねっていた。
早紀は、身構えた。
いや。
身構えたのは、早紀の中の男。
魔族の、男。
あっ。
早紀は、慌てた。
確かにここは、伊瀬のテリトリーだ。
しかし、彼は生身なのだ。
そんな姿で、この身に挑んでは危険ではないのか。
この鎧の持ち主が、海族に対して加減するはずがない。
さっき。
さっき、確かに彼は早紀を殺そうとした。
だが彼は、最後まで優しくあろうとしたのだ。
その伊瀬が。
顎を上へと上げた。
遠くの水面を指すように。
帰れ、と。
そう言っているのだろうか。
次の瞬間。
伊瀬は、水に溶けて――消えてしまった。