おかあさん
雷と雨を引き裂いて飛んでいた鎧は、ゆっくりと減速していく。
はっきり、目的を持った動きだった。
鎧の中で、寒くもないのに震えを止められずにいた早紀は、ある方向を見た。
正確には、いまの鎧の主導者である真理が向いた方を、自動的に見ただけだ。
雨にけぶる四角い建物の、ひとつの四角い窓。
その窓辺には──ベッドがあった。
そして。
人が、横たわっていた。
病院?
早紀が、ぼんやりとその認識をした直後。
あ。
決壊する一瞬前の、ひとつの言葉。
ぁああああああ!!!!
ステルスなど、一瞬で崩壊するほどの大声を、早紀は鎧の全身で放っていた。
勿論、それは物理的に外に漏れることはない。
真理の、意識的聴覚をつんざくだけだろう。
しかし、早紀は叫ばずにはいられなかった。
そこには、おかっぱの女性がいたのだ。
記憶より年を重ねてはいるものの、早紀の記憶を鮮明に塗りつぶすほどの威力があった。
お母さん!
猛獣が吠えるように、早紀はそれを叫んだ。
驚きよりも早く、野生そのもので出来た愛しさが駆け抜ける。
そして、本能のまま彼女はその部屋へ向かおうとした。
のに。
ガチャン。
身体は、不恰好な金属の音を立てるだけで、真理に制されてしまっていた。
すぐそこに、会いたくてしょうがなかった母がいるのだ。
一秒でも早くその側に駆けつけ、自分が早紀だと名乗りたかった。
そして、優しく抱きしめて欲しかった。
制御される鎧もものともせず、早紀はガシャガシャと関節部を鳴らして動こうとしたのだ。
『あれは…人間だ。お前の本当の母ではない』
あ、れ?
鎧の動こうとする雑音のせいで──何を言われたか、よく聞こえなかった。
※
雨の中で。
伝聞ばかりで作られた、昔話を聞いた。
昔々、ではなく――ちょっとだけ、昔の話。
魔女と人間の娘が出会い、親交を持ったこと。
魔女が、自分の赤ん坊を、人間に預けて死んだこと。
人間は、その子を育てていた。
しかし。
人間と魔族が長く一緒にいたために、魔気のせいで人間はどんどん身体を壊して弱っていった。
このままでは、魔族の子供を残して死んでしまう。
そう悟った人間は、生前の魔女が言っていた言葉を頼りに、彼女の血族に子供の存在を伝える。
そこへ、ちょうど生け贄の魔女を欲しがっていた本家に、その情報が届いた。
生け贄にされるとも知らず、育てられなくなった人間は、子供を手放した。
それが、早紀の幼少時代の真実。
産みの母は死んだ。
しかし、育ての母は生きていた。
だから、早紀の知る真実と、事実は食い違っていたのである。
淡々と事実のみを語られる言葉を聞きながら、早紀の目は病室のベッドを見ていた。
彼女は、入院生活を余儀なくされているようだ。
自分の発していた魔気が、どれほど育ての母を苦しめたのだろう。
死を感じるほどに、彼女を追い詰めていたのだ。
早紀は、動けないまま窓を見ていた。
どうして、近づけようか。
魔気でボロボロにされた女性に、更に魔気を浴びせることなど、出来るはずがなかった。
愛の記憶が。
早紀の中に、確かにあった愛の記憶が、雨に打たれていく。
狂おしいほど、この愛を伝えたい相手がそこにいるというのに、雨はその火が燃え上がるのを邪魔するのだ。
後はただ、くすぶるばかり。
何も考えられなくなった早紀の身体は、ゆっくりと病院に背中を向けた。
自分の意思ではない。
真理が、そうしたのだ。
鎧でよかった。
初めて──そう思った。
でなければ、早紀はきっと一人では帰れなかっただろうから。
※
ずぶ濡れの鎧が、真理の部屋を濡らす。
構うこともなく、彼は早紀の中から抜け出た。
あぁ。
いまほど、彼女はその喪失感を、痛く感じたことはなかった。
ほんのわずかの温度も失って、自分がただの抜け殻になってしまう気がしたのだ。
せめていっそ。
肉を持たない、この無機質な鎧のままでいられたら。
しかし、真理の指が額をなぞる。
ガシャン。
金属が崩れ落ちるように、早紀を肉の塊に戻してしまう。
水で湿った床に、彼女は膝をついた。
そんな早紀を、真理は見下ろしているようだ。
「何故、そんなに過去にこだわる…」
降り注ぐ視線に乗って、彼はそう聞いた。
さっきの母の姿が、早紀の脳裏を矢のように貫く。
だ。
だって。
彼女は、自分のおかっぱの頭を、強く両手で掴んだ。
だって、私には。
「私には……過去しかないもの」
楽しい記憶も、嬉しい記憶も、あの過去の中にしかない。
小さな小さな絵本におさまる程度の、短い幸せな思い出。
その後は。
ただ生かされ、ただ生き延びていただけ。
ああ。
疲れた。
強い倦怠感と、虚無感に包まれる。
早紀は、のろのろと立ち上がった。
のろのろしたまま、真理の部屋を出る。
そして。
自分の部屋を、素通りしたのだ。
そのまま──屋敷を出てしまった。




