「だから…出て行けと行ったんだ」
「私が見たいのは、これではない!」
ドアの向こうで、修平が声を荒げた。
本当に彼の声かと、一瞬耳を疑うような感情的な声。
「違うだろう? 分かっているだろう? 本物はこうじゃない」
高揚していく、狂気的とも思える修平の声が続けられる。
「本物は、吸い込まれるほど沈んだ闇の色をしているはずだ!」
強く、強く、誰かに言葉をぶつけていく。
その声が、いきなり途切れた。
何の話をしているのか。
修平は、何を考えているのか。
早紀は、声をかけられないまま、じっと外の声を拾い続ける。
「ああ、大丈夫だ…心配はいらない」
沈黙の後。
突然、修平の声が猫なで声に変わる。
「いま、私に見せてくれたものは本物だ…ちゃんと、私も分かっている」
言い聞かせるような、ねっとりした声。
早紀は、怖くなった。
聞けば聞くほど、修平は修平でなくなってゆく。
では、あれは誰なのだ。
後見人ではないのか。
一体、何を見ようとしているのか。
「分かっているとも…足りないものも、ちゃーんと分かっている」
ざわざわと、早紀の背中を冷気が這い上がってゆく。
言いようのない恐怖が、物理的なロープ以上に早紀を縛り上げる。
「だから…」
ゆっくり、ゆっくりとした修平のその言葉。
ドアという壁があるにもかかわらず、その壁を貫通して、いま一瞬、早紀に視線が突き刺さった気がした。
「だから…用意したよ、真理…君のために」
きぃ。
足元だけだった小さな光が。
みるみる大きくなって、早紀の部屋の中に差し込んでくる。
ああ…ああ…。
大きくなった光に、彼女はさらされた。
そして、四つの瞳が早紀に向けられる。
修平と──真理と呼ばれた少年の目だった。
※
あの真理が――驚いていた。
床に転がる早紀を見て。
初めて見るその顔に、早紀の方が驚いてしまいそうだ。
しかし、そんな場合ではない。
彼女は、不自由な姿のままで、二人を見上げた。
驚いている真理の横で、修平は薄ら笑いを浮かべている。
「ほら…真理…これが必要なものだろう」
何を。
修平は、何を言っているのか。
彼の指す手は、早紀の方を向いている。
笑顔をたたえ、瞳は恍惚と輝きながら真理を見ていた。
「この大事な日に、この子を家に置いておかないなんて…駄目じゃないか」
修平の瞳が、ふっと自身の手へと落とされる。
左の手首。
時計の位置。
修平の唇の端が、ゆっくりと上がる。
「ハッピーバースデイ、真理」
瞬間。
ゴトリ、と重い音がした。
二人の男の、もっと後ろ。
ミシミシと、床がきしむ。
一筋の、冷たい空気が早紀の鼻先を撫でた。
何。
四本の足の向こうは、暗い空間。
そこで何の音がしているのか、早紀は目をこらして見ようとした。
「さあ、お目覚めだ」
修平が、音の方を──ではなく、早紀の方へと歩みを進めてくる。
「長い眠りだったんだ…おなかをすかせているんだ…かわいそうに」
「あっ!」
早紀は、縄を切られた事実を認識する暇もなく、右腕を掴まれ引き上げられた。
自分の足で立っている、ということではない。
修平の片手に釣り上げられるようにして、ぶらさがったのだ。
不安定に、足がゆらゆらと揺れる。
痛い、という事実より先に、全身を襲う恐怖。
掴まれた手の冷たさが、つま先まで凍らせるようだ。
「だから…」
そんな恐怖の彫刻と化した早紀に。
真理が、小さくため息をついた。
「だから…出て行けと行ったんだ」