授業
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情けないパジャマ姿から、着替えを終えた早紀は、枕元をじっとみた。
母の写真から少し離れたところに、リボンを置いていたのだ。
夢の中に持ち込んだとは言え、実際にリボンを巻いたまま寝ていたわけではない。
どうしよう。
と、思いながらも、早紀はリボンに手を伸ばしていた。
ただの細長い布に感じるが、それを自分の左の髪に近づけると。
しゅるり。
生き物のように動き始め、リボンは早紀の髪を編み始めるのだ。
伊瀬のくれた、海のリボン。
そして。
もしかしたら、自分の中の『水』と、何か関係があるのかもしれない。
けれど、父親の記憶なんかない。
聞いた記憶もない。
問題は。
この事を、鎧以外に話せないことだ。
あの鎧の男は、早紀が何の種族であれ、興味もないし頓着もしない。
だが、魔族にとって、他の種族は敵なのだ。
そして、更に早紀の味方にならないものが増えた。
タミと呼ばれる魔女だ。
あの黒々しい彼女なら、ホウキに乗って空を飛んでいても、とても似合うだろう。
いまどき、ホウキに乗る魔女がいるのかどうか、早紀は知らないのだが。
真理のお相手になるということは、家柄もしっかりしているのだろう。
幸い。
彼女も、上手に早紀を見失ってくれる人のようだ。
それを生かしながら、逃げるしかない。
早紀が、そんな消極的理論に走っていた時。
またも、部屋がノックされた。
うう。
もう、真理とタミでおなかいっぱいな上に、彼女には考えなければならないこともあるというのに。
「は…い」
歯切れの悪い声で、返事をする。
「タミです…入ってもいいかしら?」
あう。
訪問者は──おなかいっぱいの片割れだった。
※
何の用だろう。
何故か早紀の部屋で、お茶の準備が始まった。
来たばかりの彼女は、それが自分の権利であるかのように、使用人を使っている。
さすがは、良い家柄だ。
未だ早紀は、彼らに何かを頼むことさえ、ほとんど出来ないでいるというのに。
まあ。
早紀の能力上、使用人たちも彼女の存在を、うすらぼんやりとしか認識していないのかもしれないが。
お茶の準備が終わるまで、何の話も始まらない。
ソファに、向かいあって座っていながら、早紀はいたたまれない時間を過ごさなければならないのだ。
しかし、タミは大きな目で、まばたきもほとんどしないまま、彼女をじっと見つめ続けている。
睨まれている気がして、しょうがない。
だが、その凝視っぷりは、どこかで覚えがあるものだった。
あ。
零子だ。
学校で、彼女が自分を見る時も、そんな目だったのだ。
まばたきの隙に、早紀が消えてしまうとでも思って──ああ、なるほど。
納得した。
タミも、彼女を見失うまいとしているのだ。
「しゃべってくれないかしら」
使用人たちが下がった後、最初にタミが言ったのは、そんな言葉だった。
な、何を?
早紀は、たじろいだ。
ちょっとだけ、ギクリとしていた。
自分の中にある、何かを白状しろと言われた気がしたのだ。
しかし、その秘密を共有しているのは、早紀と鎧の男だけ。
彼女が、知っているはずがない。
「何でもいいから、声を出して…もう、ぼんやりとしか見えてないの」
その声には、悔しさが混じっている気がした。
早紀を見失うのは、屈辱なのだろうか。
「は、はい」
何でもいいと言われたので、とりあえず返事を返す。
すると、黒く大きな目が、はっきりと早紀を真ん中に映した。
ほぉっと、タミは安堵の吐息をつく。
「まるで…海族といる気分だわ」
その、吐息の影から呟かれた言葉は──早紀の鼓動を止めるかと思った。
※
「海族を…知ってるんですか?」
反射的に、早紀は食いついてしまった。
いま、彼女の中で一番大きくなった、その種族の話だ。
まさか、タミの口から出てくるとは、思ってもみなかった。
「私は、鎧鍛冶の一族よ…天族も海族も敵ですもの…敵を知らなければ、鎧は作れないわ」
真理は、名前しか紹介しなかったため、彼女の口から語られることは、とてつもない驚きだった。
もっと、貴族っぽいお嬢様かと思っていたのだ。
鎧鍛冶、ってことは。
早紀の頭に、鎧の男がよぎった。
金属の防具のはずなのに、意思らしきものを持っている。
彼を作った一族だろうか。
「海族って…どんな相手です? ま、まだ、戦ったこと、なくて」
早紀にしては、随分慎重に言葉を選んだ。
戦い以外で、海族に興味を示していると思われると、不都合だったのだ。
これなら、自然な質問ではないか──多分。
「………」
大きな瞳が、じっと早紀を見る。
真意を見抜かれる気がして、つい目をそらしてしまった。
「そうね…彼らは、水の中では自由に姿を隠せるから…誘い込まれない方がいいわ」
だが、少しだけタミの雰囲気が変わった気がした。
言葉が、するすると出てくる、というか。
さっきまでは、どこか早紀を警戒している様子も感じられたが、それが少しだけやわらかくなったような。
「雨の日は、更に危険よ…雨の日に海上で蝕が起きたなら、その蝕は諦めるべきだわ」
それから──
早紀は、あっけにとられていた。
タミの唇は、どんどん知識を溢れさせていくのだ。
蛇口をひねったかのように。
もしかして、この人って。
早紀は、ありがたい情報を流し込まれながら、タミを盗み見た。
この人って──戦闘ヲタク?
※
レコーダーが欲しい。
早紀は、講義を受ける生徒となりながら、切実にそんなことを思っていた。
タミの語る言葉は、理解できないものが8割だったのだ。
冷静な口調ではあるが、彼女の戦闘に対する蛇口は、締められることなくダダ漏れになっている。
しかも、難しい専門用語がバンバン飛び出すからたまらない。
それは何? どういう意味?
質問を挟む隙間さえ、見つけられないのだ。
しょうがなく、分かる部分だけを、早紀は拾い集めた。
力のベクトルは、x軸とy軸共に魔族と天族は真反対。
海族は、x軸は魔に近く、y軸が天に近い。
xとyの値が、真逆の海族もいる。
説明の仕方はもっと違ったが、早紀は語られる言葉を、何とか頭の中でグラフに直すことが出来たのだ。
海族の、特殊なベクトルのゆえに。
「海族は生まれつき、天族にしか効かない力を持つものと、魔族にしか効かない力を持つものに別れてしまったの」
言葉の糸が、早紀のグラフの上をすべり落ちていく。
ということは、海族とは言っても、実質的な力は魔寄りか天寄りということだ。
伊瀬は、どっちだったのだろう。
早紀を傷つけなかったということは、魔寄りだったのだろうか。
「勿論…物理的な力技は、別ね」
伊瀬のことを考えていた、彼女の頭の上を言葉が流れる。
その言葉には、若干の軽蔑がこもっていた。
野蛮な、とでも言いたげなのか。
「だから海族の戦士は、みな物理能力を鍛えるの…魔にも天にも対抗できるように」
ああ。
納得してしまう。
彼の、素晴らしい身体を思い出してしまったのだ。
極東魔族の四席の中で、あの身体に対抗できるのは、おそらく1stだけだろう。
「だからこそ…不思議なの」
何か、鋭いものが、刺さったかと、思った。
それが、タミの視線だと分かり、びくびくと彼女を見返した。
「天にも魔にも効く…能力があるなんて」
鋭い目の中を、xとyの軸がうねる。
早紀の力のベクトルに──その黒い手袋を伸ばそうというのか。