優しい人は遠い人
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『海』
聞こえたのは、その単語。
早紀は、無意識に歩みが遅くなってしまった。
胸が、ドキドキしてきたのだ。
逆に、顔からは血が引いていく。
もしや、と。
もしや、伊瀬と呼ばれた男は。
「同族とは言え、お礼をしなければね…」
早紀の状態には気づかずに、彼は考えるように空を見上げた。
青い青い、早紀の心にはそぐわない、美しい空を、だ。
「お、お礼なんて…い、いらないですから」
お礼が欲しくて、足を止めたわけではない。
今にして思えば、足を止めた事そのものが、呪わしくなってきたほどである。
毒のない瞳が、いけなかったのだ。
すがるもののない早紀が、惹かれずにはいられなかった、あの瞳が。
しかし、掴んだ綱は──海につながっていた。
海というキーワードから連想する種族など、貧相な知識の早紀は、ひとつしか持っていなかったのだ。
何故、種族の違う彼が、魔力を吸えたのか、理由はよく分からないが。
魔族だって。
バレたら、どうなるんだろう。
心の中で、早紀は小動物のように、小刻みに震え始めた。
ステルスも起動出来ない状態で、それに気づかれたら──敵対関係なのだから、生きて戻れないのではないか。
となると。
気づかれないまま、うまくやり過ごして離れるしかない。
「そういえば…名前を聞いてなかったね…ん?」
青空から視線を落とした伊瀬が、言葉の最後を疑問に変えた。
早紀が、びくっと飛びのいてしまったせいだ。
あわわわわ、私の馬鹿。
心の中の小動物が、表に出てしまっている。
「あ…いえ…あの」
唇が、ぷるぷる。
そんな、恐れおののく早紀に──伊瀬は、やわらかく微笑んだ。
「気づいたんだね、私が誰か…でも、そんなに怖いものじゃないから、心配しなくていいよ」
だが。
何と勘違いしたのか。
彼の言葉は、早紀の知らない方向へ、ねじ曲がったのだった。
※
「そうだ」
伊瀬は、早紀をじーっと見つめた後、にこりと微笑んだ。
こわがらせまいと、声も微笑みもとりわけ柔らかくしている気がする。
心の奥の優しさが、透けて見えるようだ。
さっきの彼の言葉から推測するに、怖い立場(?)のようだが、それが信じられないくらいに温かく感じる。
伊瀬が、そうすればそうするほど、早紀は消えてしまいたい気分になるというのに。
彼は、早紀の前で、両方の人差し指を立てて見せた。
その指の腹同士を、ぴたりと合わせる。
「君に…似合う色を」
二つの人差し指が、すぅっと離れた。
指の間から、濃紺の糸が。
いや。
布が。
細く、長く。
しゅるりと、たわむように、ひねるように。
一瞬、早紀の目はそれに奪われた。
現れたのは──濃紺のリボン。
深い海の中と、同じ色。
「そうか…これが君の色か」
大きな両の手の上で、渦を巻くそれを、伊瀬は満足げに見つめた。
早紀も、その濃紺のリボンから、目を離せなかった。
差し出されるリボンを、だが、ふるふると首を横に振って拒む。
同族では、ないんです。
本当は、本当は私。
頭の中に、真理の冷たい目が閃く。
どうして、私は魔族だったのだろう。
海族だったなら、きっといまの一瞬を、喜んだに違いないというのに。
「大丈夫、よく似合うよ」
リボンは、しゅるんと自分から動き出した。
魔法──ならぬ、海法とでもいうのだろうか。
生き物のようにそれは、早紀の黒髪を絡め取る。
おかっぱの、横の髪を一房。
リボンごと、髪を編みこんで。
伊瀬は、微笑んだ。
早紀は──泣いた。
※
気づいたら、屋敷の前だった。
早紀は、逃げ帰ってきてしまったらしい。
屋敷の金属の門扉を握りしめ、長い長いため息をつく。
泣いたせいか、頭は痛いし、鼻はつまるし。
だが。
伊瀬の存在は、彼女の心に鮮烈な印象を残してしまった。
優しい、海の人。
すっかり心を弱くした早紀にとっては、誰よりも頼りたい相手に見えて。
だが。
早紀は、この門扉の向こう側の人間だった。
その事実を、彼に告白さえ出来ないのだ。
正門を開けることは出来ないので、のろのろと脇の小さな通用口に向かう。
いまの自分の背中には、たくさんの失望が積み込まれているだろう。
そんなズタボロの彼女を。
玄関で、出迎えた男がいた。
「……」
無言の──真理だ。
びくぅっと、飛びのきそうになる。
あの真理が、玄関にいるはずがない。
ましてや、自分を出迎えるはずがない。
しかし、彼はそこに立っていた。
他に誰か来るのではないかと、早紀が後方を振り返ってしまったほどだ。
そんな彼女の、後頭部に。
「……部屋に来い」
微かな冷気。
不機嫌なのか怒っているのか、はたまた普通の声なのか。
まったく判断のつかない声音と温度に、早紀があわてて彼を見直そうとすると。
既に、真理は背中を向けて、階段を登り始めていた。
いまは、彼の一方的な話を、聞かされる気分ではない。
だが。
従わないわけには、いかない。
しゅうんと。
早紀は、重い足を踏み出さねばならなかった。




