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極東4th  作者: 霧島まるは
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優しい人は遠い人

---

『海』


 聞こえたのは、その単語。


 早紀は、無意識に歩みが遅くなってしまった。


 胸が、ドキドキしてきたのだ。


 逆に、顔からは血が引いていく。


 もしや、と。


 もしや、伊瀬と呼ばれた男は。


「同族とは言え、お礼をしなければね…」


 早紀の状態には気づかずに、彼は考えるように空を見上げた。


 青い青い、早紀の心にはそぐわない、美しい空を、だ。


「お、お礼なんて…い、いらないですから」


 お礼が欲しくて、足を止めたわけではない。


 今にして思えば、足を止めた事そのものが、呪わしくなってきたほどである。


 毒のない瞳が、いけなかったのだ。


 すがるもののない早紀が、惹かれずにはいられなかった、あの瞳が。


 しかし、掴んだ綱は──海につながっていた。


 海というキーワードから連想する種族など、貧相な知識の早紀は、ひとつしか持っていなかったのだ。


 何故、種族の違う彼が、魔力を吸えたのか、理由はよく分からないが。


 魔族だって。


 バレたら、どうなるんだろう。


 心の中で、早紀は小動物のように、小刻みに震え始めた。


 ステルスも起動出来ない状態で、それに気づかれたら──敵対関係なのだから、生きて戻れないのではないか。


 となると。


 気づかれないまま、うまくやり過ごして離れるしかない。


「そういえば…名前を聞いてなかったね…ん?」


 青空から視線を落とした伊瀬が、言葉の最後を疑問に変えた。


 早紀が、びくっと飛びのいてしまったせいだ。


 あわわわわ、私の馬鹿。


 心の中の小動物が、表に出てしまっている。


「あ…いえ…あの」


 唇が、ぷるぷる。


 そんな、恐れおののく早紀に──伊瀬は、やわらかく微笑んだ。


「気づいたんだね、私が誰か…でも、そんなに怖いものじゃないから、心配しなくていいよ」


 だが。


 何と勘違いしたのか。


 彼の言葉は、早紀の知らない方向へ、ねじ曲がったのだった。



 ※



「そうだ」


 伊瀬は、早紀をじーっと見つめた後、にこりと微笑んだ。


 こわがらせまいと、声も微笑みもとりわけ柔らかくしている気がする。


 心の奥の優しさが、透けて見えるようだ。


 さっきの彼の言葉から推測するに、怖い立場(?)のようだが、それが信じられないくらいに温かく感じる。


 伊瀬が、そうすればそうするほど、早紀は消えてしまいたい気分になるというのに。


 彼は、早紀の前で、両方の人差し指を立てて見せた。


 その指の腹同士を、ぴたりと合わせる。


「君に…似合う色を」


 二つの人差し指が、すぅっと離れた。


 指の間から、濃紺の糸が。


 いや。


 布が。


 細く、長く。


 しゅるりと、たわむように、ひねるように。


 一瞬、早紀の目はそれに奪われた。


 現れたのは──濃紺のリボン。


 深い海の中と、同じ色。


「そうか…これが君の色か」


 大きな両の手の上で、渦を巻くそれを、伊瀬は満足げに見つめた。


 早紀も、その濃紺のリボンから、目を離せなかった。


 差し出されるリボンを、だが、ふるふると首を横に振って拒む。


 同族では、ないんです。


 本当は、本当は私。


 頭の中に、真理の冷たい目が閃く。


 どうして、私は魔族だったのだろう。


 海族だったなら、きっといまの一瞬を、喜んだに違いないというのに。


「大丈夫、よく似合うよ」


 リボンは、しゅるんと自分から動き出した。


 魔法──ならぬ、海法とでもいうのだろうか。


 生き物のようにそれは、早紀の黒髪を絡め取る。


 おかっぱの、横の髪を一房。


 リボンごと、髪を編みこんで。


 伊瀬は、微笑んだ。


 早紀は──泣いた。



 ※



 気づいたら、屋敷の前だった。


 早紀は、逃げ帰ってきてしまったらしい。


 屋敷の金属の門扉を握りしめ、長い長いため息をつく。


 泣いたせいか、頭は痛いし、鼻はつまるし。


 だが。


 伊瀬の存在は、彼女の心に鮮烈な印象を残してしまった。


 優しい、海の人。


 すっかり心を弱くした早紀にとっては、誰よりも頼りたい相手に見えて。


 だが。


 早紀は、この門扉の向こう側の人間だった。


 その事実を、彼に告白さえ出来ないのだ。


 正門を開けることは出来ないので、のろのろと脇の小さな通用口に向かう。


 いまの自分の背中には、たくさんの失望が積み込まれているだろう。


 そんなズタボロの彼女を。


 玄関で、出迎えた男がいた。


「……」


 無言の──真理だ。


 びくぅっと、飛びのきそうになる。


 あの真理が、玄関にいるはずがない。


 ましてや、自分を出迎えるはずがない。


 しかし、彼はそこに立っていた。


 他に誰か来るのではないかと、早紀が後方を振り返ってしまったほどだ。


 そんな彼女の、後頭部に。


「……部屋に来い」


 微かな冷気。


 不機嫌なのか怒っているのか、はたまた普通の声なのか。


 まったく判断のつかない声音と温度に、早紀があわてて彼を見直そうとすると。


 既に、真理は背中を向けて、階段を登り始めていた。


 いまは、彼の一方的な話を、聞かされる気分ではない。


 だが。


 従わないわけには、いかない。


 しゅうんと。


 早紀は、重い足を踏み出さねばならなかった。


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