空の涙
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真理の、プライドはずたずただった。
対等に戦えていたはずの戦況は、早紀に邪魔され、ベルガーの助けを借りた上に、抉るような嫌味で畳み掛けられたのだ。
これは、父親経由で受けた屈辱ではなく、真理自身が受けたものだった。
『痛い、痛い』
そんな彼の頭の中には、ひよわな早紀の声が響き渡る。
真理は、まったく痛くないため、その言葉に同調できるはずもなかった。
鎧と魔女の同化についての基礎知識はあるが、全てを知り尽くしているわけではない。
鎧が傷ついて、痛がるなんて想像だにしていなかったのだ。
そして、真理は短い時間で選択を強いられる。
このまま、痛がる早紀を引きずって実力で戦うか。
再びステルスモードで、不意討ちで戦うか。
この一瞬の迷いでさえ、二体の敵の片割れが、こっちに向かってくるには、十分な時間なのだ。
そして。
真理は、答えを出す必要がなかった。
近づく敵を認識するや。
ひよわな早紀の声が。
聞こえなくなった。
真理の指示も待たず――彼女は保身に走ってしまったのだ。
おかげで。
いきなり、真理を見失ったらしい敵の戸惑いを、目の当たりにさせられたのだ。
これでは…ただの作業ではないか。
忌々しく――真理は、刀を振り下ろしたのだった。
※
トゥーイは、来ていないと思っていたら。
「奴なら、ずっと上空だ」
三体を落として、蝕に戻ってきた真理に、イデルグは天空を指す。
ちょうど、降下してくるところだった。
「トゥーイ卿は、目が効くからな…戦力が足りている内は、厄介な奴がこないか見張ってもらっていた」
「きませんね、向こうのトップも…青も」
黒耀石の目を持つ鎧が、真横に立つ。
その石が、まるで生きているかのように、兜の上を這いずった。
本来、あるべき位置ではないところまで、自由に動いている。
「ついに、くたばってくれているなら万々歳だがな…まあ、青が来るには距離があるから、そっちはいいだろう」
イデルグが、魔気を吐き出しながら、蝕を見つめる。
ピークはとっくに過ぎており、もう少しで蝕は閉じるだろう。
青か。
静かすぎる鎧の中で、真理は屈辱にまみれたまま呟いた。
もうひとつの種族――海族だ。
奴らは、名前の通り海上が縄張りで。
今回のように、蝕が陸地の上であれば、現れない。
しかし、世界中の海の広さを考えると、侮れない勢力だ。
今の真理は、自分の失態から逃避しようとしていたのかもしれない。
新しい情報で、頭をいっぱいにしているフリを。
しかし――黒耀石が、彼を見るように動いた。
まるで、さっきの戦いぶりを、見ていたと言わんばかりに。
カシュメルの名に、泥を塗りたくられた気分に、彼は耐えなければならなかった。
これが…4thの立場か。
だが。
「こうして、目の前にいるのに…霞んで感じるよ。僕のこの目でさえ…悔しいけどね」
真理の、被害妄想とは裏腹に。
トゥーイは、称賛を口にした。
それは、真理自身ではなく――鎧を誉めたに過ぎなかったが。
※
「蝕が…終わるぞ、卿ら」
トゥーイと真理の間の空気を、ベルガーが一言で断つ。
非常によろしくない気分のまま、しかし真理は、空蝕の閉じゆく様へと視線を馳せた。
初めての蝕と、その蝕の終わりなのだ。
横向きにある瞼が、ゆっくりと閉じていくような様を、じっと見つめた。
その瞼が、もとの空に触れようとした時。
微かなきらめきを見せる。
ああ。
これが──涙か。
「染めるぞ」
イデルグが、下から何かを捧げ持つかのように、両手を差し出す。
鎧から溢れる魔気とはまた違う、明らかに故意に作り出す魔気を、その両手に乗せるのだ。
ベルガーは、恭しく宙で片膝をつくようにして、手から魔気を生み出す。
トゥーイも、両手に気を溢れさせ始めた。
初めての戦い。
初めての勝利。
そして、初めての──儀式。
両手を、ゆっくりと前に出す。
全身を血液のように流れる魔力を、両手に集めるのだ。
魔力を皮膚のすぐ内側に集めると、立ちのぼるように魔気が溢れてくる。
こうして、涙を魔族の色に染めるのだ。
黒く、より黒く。
そうすることで、この蝕の持つエネルギーは、魔族のものとして極東エリアに降り注ぐ。
『地』を支配するに相応しい種族を決めるための、エゴイスティックなマーキングだ。
魔のエネルギーを帯びた涙を浴びると、無傷では済まない他の種族は、その間、隠遁を余儀なくされる。
魔族たちの学校や屋敷などは、敵の涙の影響を受けないよう『傘』をかけてある。
その『傘』の範囲以外、自由に動き回れないのだ。
出られるのは、鎧持ちくらいか。
「どうした、ベルガー卿…」
完全に黒に染まった涙が、蝕の終わりからこぼれ落ちる瞬間。
イデルグが、隣の男を気にした。
羽の鎧を持つ男が、一瞬辺りを気にする動きをしたからだ。
「潮の…否…気のせいであろう」
ベルガーは、すくっと立ち上がるや兜を左右に振って見せた。
こうして。
真理の初陣は──終わった。