地味な娘
「おはよう、お母さん」
ベッドから這い出した早紀が、一番最初に挨拶する相手が、母親だった。
枕元で、にんまり微笑む若い笑顔の写真。
そのにんまり顔を見ると、早紀もねぐせだらけの頭のまま、同じようににまっとしてしまう。
母親譲りの黒々とした髪。
そんな髪をボブにしているものだから、今風で言うと少し重たいイメージだろう。
しかし、早紀の記憶の中の母親は、いつもそういう髪型で。
心のどこかで、ずっと母の存在を引きずっている早紀には、他の髪型にしようという気持ちにはなれなかった。
えへへへ。
写真に向かって、もう一回しまりのない笑顔を浮かべると、早紀は身支度を始める。
高校の制服は、真っ黒で出来ている。
まるで喪服だ。
エスカレーター式の私立高で。
小学校の頃から、ひたすら制服は真っ黒。
公立高校でもよかったのだが、この家のしきたりと言われたら、居候の早紀は従わないわけにはいかなかった。
生徒も、独特の雰囲気のある人たちばかりだ。
お金持ちに生まれ育つと、そんな風になるのだろう。
そんな真っ黒制服に、真っ黒髪の早紀が部屋を出ると、ちょうど奥の部屋のドアが開くところだった。
「おはようございます、修平さん」
ぺこりと頭を下げる。
「やぁ、おはよう。今日も時間通りだね」
優しい、お兄さんのような存在の──鹿島修平。
とても背が高く手足が長く感じるので、早紀は物語の『あしながおじさん』のようだと、こっそり思っている。
正確な立場を言うと、この家の「主人」の従兄に当たり、後見人でもある。
そう、主人の従兄。
この家の当主より、年上ということだ。
不幸はどこにでも現れるもので。
早紀を引き取ってくれた、優しいおじさまとおばさまは、一昨年不慮の事故で亡くなってしまった。
その二人は、ここの主の本当の両親ではなく後見人らしいのだが、詳しいことは知らない。
ともかく、屋敷に残されたのは、居候の早紀とこの家の若き当主となった少年。
それが。
すぅっと。
空気の動く音がした。
何故だろう。
早紀には、その音もなく扉の開く気配が分かるのだ。
引っ張られるように、気配の方を向いてしまう。
真っ黒な。
早紀と同じように真っ黒な制服を着た、真っ黒な髪の少年が現れた。
鹿島 真理。
それが──この屋敷の当主の名前。
※
初対面で、早紀に出ていけと言い放った相手が、この真理だ。
子供心に、自分が歓迎されていないことを、その瞬間に理解した。
だが、その当時の早紀は、本当に小さくて。
そして、唯一の肉親であった母を失って、行くあてなどありはしなかった。
だから小さい間は、出来る限り真理を避け続けた。
また、あの強い力で引っ張られ、ぶたれたり放り出されたりするんじゃないかと、怖かったのだ。
だが、成長していくにつれ、恐怖は憧憬へと変わってゆく。
真理は、とても綺麗な子だった。
冷たい顔立ちは、年を重ねるごとになお冴え渡り、氷の世界の王子様がいたら、きっとこんな顔よねと、早紀の目を奪ったのだ。
しかし、十年以上同じ屋敷で暮らしてきたが、真理と親しくなるきっかけなど見つからずじまいだった。
それどころか、一昨年からこの屋敷に住まうようになった修平との方が、よほど話をしている。
「おはよう、真理」
従兄の修平は、真理には怯まない。
にこやかに、朝の挨拶を投げ掛ける。
真理は、それを微かに目で確認しただけだ。
相変わらずの氷の王子っぷりである。
「そう言えば、真理は明日誕生日だろう?」
視線だけの応対に怯むことなく、修平は話を続ける。
ああ、そうか。
同居していながらも遠い存在の真理の誕生日は、やはり遠い存在だ。
覚えているのに、意識していない。
11月13日。
それが、明日。
真理は、17歳になるのだ。
そんな自分の誕生日の話だというのに、真理の冷ややかな視線は、早紀に向くではないか。
なぜ、私を見るのっ!?
思わず、早紀はキョロキョロしてしまった。
自分を見られる理由なんて、ないと思っていたのだ。
そして、そんな無駄なことを、真理はしない。
「お前…」
しかも。
よりにもよって、今日はお言葉つきだ。
尚更、早紀はどぎまぎする。
乙女ちっくな、どぎまぎではない。
学校で、先生にいきなり指名された時の感覚。
しかし。
やはり、相手は真理だった。
「お前、まだここにいるのか」
早紀の心を凍土に叩きつける、彼らしい言葉。
十年以上の月日で、早紀が獲得したもの。
それは。
「はあ…まあ」
図太さだった。