第四章 昭和初期の探検隊と島の変化
時代は移り、大正から昭和にかけての頃。本土の学者や探険家の間で、「南の島にオランダ人失踪の洞窟あり」という噂が広まり、学術的な興味を引き始めた。民俗学や地質学を専攻する若い研究者たちが、この神秘に満ちた洞窟をぜひ調査したいと熱望するようになったのである。
しかし、当時の島は本土との交通手段が限られており、ガジュマルやサトウキビ畑に囲まれた農道や海岸沿いのアダン古道が、外界との主要な連絡路だった。台風の季節になれば船の往来も途絶え、島は容易に孤立状態となる。そんな環境の中で、島の村長や長老たちは、外部の人間を積極的に受け入れようとはしなかった。特に「オランダ洞窟」の調査など、絶対に許可できないことだった。
「あの洞窟は我々の祖先が封印した聖域だ。学問のためとはいえ、軽々しく立ち入るべきではない」
村長の言葉は重く、研究者たちの要請は度々断られていた。
ところが昭和十年代に入ると、軍部がこの島の近海に基地を建設する計画を打ち出した。戦略的要衝として、この島の地理的価値が注目されたのである。軍の測量隊が上陸し、詳細な地図を作成するための調査が開始された。島民たちは軍の権威に逆らうことができず、やむなく協力を余儀なくされた。
調査に参加した地質学者の坂崎博士は、かねてより「オランダ洞窟」の謎に深い関心を抱いていた人物だった。東京帝国大学で地質学を専攻し、特に海食洞の形成過程について研究を重ねていた。軍の命令という強力な後ろ盾を得た彼は、反対する島民を説得し、正式に洞窟探索を実行する許可を取り付けることに成功した。
「科学の発展のため、そして軍事上の必要性から、あらゆる地形を詳細に調査する必要がある」
坂崎博士の説明に、軍の責任者も同意した。こうして、長らく禁足地とされてきたオランダ洞窟への本格的な調査が決定されたのである。
この頃、島の自然環境にも微妙な変化が見られるようになった。クイナたちは人間の活動の増加に驚いてか、いつもより森の奥深くに姿を隠すようになった。ハイビスカスの花も、まるで何かを恐れるように色褪せて見えると語る島民もいた。島全体が、これから起こる出来事を予感しているかのようだった。




