視えない私の神攻略
湿った石の匂い。肌を撫でる、澱んだ空気の重み。最新型VRデバイスを通じ、私の脳に直接送り込まれる触覚の信号は、現実のそれとは比べ物にならない。現実の肉体よりも遥かに引き上げられた感覚により、微かな浮遊感を伴う世界。
一歩、踏み出す。
足裏の薄いソール越しに、石畳のわずかな凹凸と、そこから伝わる硬質な反発が膝へと抜けていく。肌に当たる空気の跳ね返りが、前方に的があることを、その圧迫感をもって教えてくれた。
「…六体目」
私は小さく呟き、腰の鞘に右手を添えた。前方、数メートル。空気がわずかに震えている。獲物が放つ熱気が、周囲の冷気と混ざり合い、肌を刺す微細な対流を生んでいた。
第十層の通常モンスター。美しい光に満ちた草原へと向かうはずのエリア。だが、私はあえてその逆方向、誰も踏み込もうとしない、地下エリアへと足を向けていた。
ヒュッ。
空気を切り裂く、鋭い震動。左斜め前方、四十五度。敵が地を蹴った瞬間、床を伝う地響きにも似た微震が、私の足裏から脊髄を駆け上がった。
私は、半歩左へ体を捌く。鼻先を、野獣の体臭を伴った突風が通った。すれ違う瞬間、抜刀する勢いを利用し、刀の柄部分で突く。
ゴンッ!
鈍い衝撃が手のひらに伝わる。姿勢を崩した獲物の呼吸が乱れた。衝撃により中断された抜刀を、下半身と腰の捻りにより強制的に再始動させる。崩れた姿勢を立て直そうとする一瞬を、私は逃さない。
水平に抜刀した刀を、素早く上段へ切り返し、頭部から股下にかけて振り下ろす。
「…一本」
一閃。仮想の肉が断たれる感触が、電気信号となって右手に重く沈み込む。ドサリ、と重量感のある二つの物体がほんのズレもなく崩れ落ち、粒子となって霧散する気配が、揺れていた空気を静寂へと戻した。
私が今いる『プリミティブ・センセーション・オンライン』では、アカウント作成時に、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚のうち、どれか一つを強制的に消失させられる。一方で、どれか一つの感覚を底上げすることができる。
多くの障害者が現実で失った五感を取り戻そうと、一縷の望みを抱いてこの世界にやってくる。彼らは高価なデバイスを買い揃え、失った五感をゲーム機能により補完し、奪われた光や音をこの疑似世界に求める。
広告のキャッチコピーが、耳の奥で冷たく響く。
『あなたは、失った感覚に目を向けるか?それとも新たな感覚に目を向けるか?』
多くの障害者プレイヤーがゲーム機能をフル活用して光や音を取り戻そうとする中で、私はあえて、視覚消失を選択した。失ったものを補完するためじゃない。失ったからこそ研ぎ澄まされたこの感覚が、仮想現実という極限の物理演算下でどこまで通用するのか。それを確かめるためだけに、私はここにいる。
八歳の時、原因不明の難病によって、私は光を失った。剣道名門の家に生まれ、神童とまで持て囃された日々。それらは色彩と共に、砂のように指の間からこぼれ落ちていった。
周囲の憐れむような溜息。距離を置く友人たち。何より、腫れ物に触れるような家族の視線。同情という名の薄寒い空気から逃れるように、私は独り、家の道場で木刀を振り続けた。目が見えないから何だというのか。足の裏から伝わる床の冷たさ。握った柄の木目。頬を撫でるわずかな空気の揺らぎ。それらすべてを繋ぎ合わせれば、世界は見える。いや、「視える」のだ。
「…ようやく、着いた」
歩を進めるほどに、肌を刺す空気の密度が狂い始めた。第一層の静寂を塗りつぶす、圧倒的な質量を持った殺気が前方から押し寄せてくる。床を伝う微震は、もはや心臓の鼓動のように規則正しく、そして重い。
これが、サービス開始から七ヶ月、文明の光と視覚情報に慣れきったプレイヤーたちを、ただの一人も通さず絶望に叩き伏せてきた存在。十層ごとに配置されているエリア唯一の超越個体。
「什柱の神々…」
第十層の地下に鎮座する神は什幻と呼ばれている。相手がどんな形をしているのか。どんな色の身体を持ち、どんな凶悪な目をしているのか。私には一生知ることはできない。
けれど、床を捉える足裏の筋肉の収縮。肺が空気を吸い込む予兆。殺意を伴って収束する空気の揺らぎ。それらは、目で見ている誰よりも、私には鮮烈に、残酷なまでにリアルに伝わってくる。
感覚を取り戻すためにこの世界へ来た者たちは、ここを「救い」と呼ぶのだろう。けれど、私にとっては違う。失ったものに縋るために、ここへ来たわけじゃない。私はこの世界を、私のまま攻略する。あの日、真っ暗な道場で独り木刀を振り始めた時から、私の時間は一秒たりとも止まってなどいない。
「視えない私の神攻略、とくと見せてあげる」
鞘から解き放たれた刀身が、微かな風鳴りを上げた。嵐の前の静けさのなか、私は誰に見せることもない、鋭く口角を上げた。




