第9話 初めて見せた怒りと、守られた理由
その日の夕方。
予報センターは、次の低気圧の対応で慌ただしくなっていた。
澪は資料を抱えて廊下を歩いていたが、
急ぎすぎて足を滑らせ、バランスを崩した。
「きゃ──」
資料が床に散らばる。
「大丈夫?」
声をかけてきたのは、三浦だった。
「白石さん、最近頑張りすぎじゃない?
無理しないほうがいいよ。ほら、手貸す」
三浦が澪の腕を掴もうとした、その瞬間。
「触るな」
低く、鋭い声が廊下に響いた。
澪も三浦も驚いて振り返る。
黒川晴臣が立っていた。
いつも冷静な彼が──
明らかに怒っていた。
「く、黒川さん……?」
三浦が戸惑う。
「白石は俺が見る。下がれ」
「え、いや……俺はただ──」
「聞こえなかったのか」
黒川の声は低く、静かで、しかし明確に怒っていた。
三浦は気圧され、何も言えずに去っていった。
澪は呆然としたまま立ち尽くす。
「く、黒川さん……そんな言い方しなくても……」
黒川は澪の腕にそっと触れ、支えながら言った。
「……怪我はないか」
「だ、大丈夫です……」
「本当にか」
黒川は澪の手を取り、指先を確かめるように触れた。
その仕草は驚くほど優しい。
「……痛いところは」
「ないです……」
黒川は安堵したように息を吐いた。
だが次の瞬間、澪を見つめる目が鋭くなる。
「白石。なぜ周囲を見ずに歩く」
「え……」
「危ないだろう」
「す、すみません……」
「謝れと言っているんじゃない」
黒川は言葉を切り、少しだけ視線を逸らした。
「……心臓が止まるかと思った」
澪は息を呑んだ。
(……そんなに心配してくれたの?)
黒川は続けた。
「君が怪我をするのは……嫌だ」
その声は、怒りではなく、
必死に抑えた感情の震えだった。
澪の胸が熱くなる。
「黒川さん……」
「白石」
黒川は澪の肩に手を置き、まっすぐ見つめた。
「……俺は、君を守りたい」
澪は言葉が出なかった。
ただ、胸の奥が熱くて、苦しくて、嬉しかった。
黒川はふいに視線を逸らし、低く言った。
「……さっきは、言いすぎた。すまない」
「い、いえ……」
「だが、あれだけは譲れない」
澪は思わず聞き返した。
「……何が、ですか」
黒川は一瞬だけ迷い、
しかし覚悟を決めたように言った。
「君に触れていいのは……俺だけだ」
澪の心臓が跳ねた。
黒川はそれ以上何も言わず、
ただ静かに澪の資料を拾い集めてくれた。
──この日、黒川が初めて見せた“怒り”は、
澪を守るためのものだった。
そしてその感情は、
もう隠しきれないほど大きくなっていた。




