第8話 変わり始めた距離と、触れそうな指先
翌朝。
予報センターは、いつもより静かだった。
澪はデスクで資料を整理しながら、胸の奥が落ち着かないのを感じていた。
(……昨日の黒川さんの言葉、まだ頭から離れない)
「君が、他の誰かに心を向けているように見えると……落ち着かない」
あれは、どういう意味だったのだろう。
考えるだけで胸が熱くなる。
そんなとき。
「白石」
低い声がすぐ後ろから落ちてきた。
振り返ると、黒川晴臣が立っていた。
いつも通りの無表情。
……のはずなのに、どこか柔らかい気配がある。
「今日の解析、俺と一緒にやる」
「えっ、で、でも今日は三浦さんと──」
「俺がやる」
即答。
澪は思わず瞬きをした。
(……なんか、最近“俺がやる”が多い気がする)
黒川は澪の返事を待たず、歩き出した。
「来い」
「は、はい!」
***
データ室。
二人きりになると、空気が変わる。
黒川は複数のモデルを立ち上げ、澪に席を示した。
「昨日の進路変化、もう一度確認する」
「はい」
澪が画面を覗き込むと──
黒川が、いつもより近い。
肩が触れそうな距離。
息がかかりそうなほどの近さ。
(……ち、近い)
澪が少し身を引こうとした瞬間。
黒川の手が、澪の椅子の背に触れた。
「動くな。見えない」
「っ……!」
耳元で低い声。
澪の心臓が跳ねる。
(な、なにこれ……!)
黒川は気づいていないのか、淡々と説明を続ける。
「このラインの変化、昨日より顕著だ。君はどう見る」
「え、えっと……」
「迷うな。君の判断は正しい」
まただ。
また、その言葉。
胸の奥が熱くなる。
黒川は澪の手元に視線を落とし、ふいに言った。
「……手が冷えているな」
「えっ」
黒川は澪の手に触れた。
ほんの一瞬。
けれど、その温度が澪の心臓を強く打たせる。
「集中しろ。……大丈夫だ」
「だ、大丈夫じゃないです……!」
思わず漏れた言葉に、黒川がわずかに目を見開いた。
「……何が大丈夫じゃない」
「ち、近いです……!」
黒川は一瞬だけ固まり──
ほんの少しだけ、視線を逸らした。
「……すまない。気づかなかった」
(絶対気づいてた……!)
澪は心の中で叫んだ。
黒川は咳払いをし、少しだけ距離を取った。
だが、その横顔はわずかに赤い。
「……白石」
「はい……」
「距離が近いと、気になるのか」
「き、気になります……!」
黒川は数秒黙り──
低く、静かに言った。
「……俺は、気にならない」
澪の心臓が止まりそうになった。
(……それって)
黒川は続けた。
「むしろ……近いほうが、いい」
澪は息を呑んだ。
黒川は視線を画面に戻し、淡々とした声で言う。
「……解析を続けるぞ」
だが、その耳はほんの少し赤かった。
──この日、黒川の“距離の詰め方”が変わったことに、
澪はまだ気づいていなかった。




