第11話 名前を呼んだ声と、触れた指先
会議が終わる頃には、澪の体力は限界に近かった。
(……やっぱり、無理して来るんじゃなかった)
視界が揺れる。
椅子から立ち上がった瞬間、足元がふらついた。
「白石さん、大丈夫?」
同僚が声をかけてくれたが、澪は笑ってごまかした。
「だ、大丈夫です……」
そのとき。
「白石」
低い声が会議室の入口から響いた。
黒川晴臣が立っていた。
その目は、明らかに怒っていた。
「来い」
「え、あの……」
「来い」
黒川は澪の腕を掴み、会議室の外へ連れ出した。
***
廊下。
人のいない場所まで来ると、黒川は澪を壁際に立たせた。
「……倒れるところだった」
「す、すみません……」
「謝るなと言った」
黒川は額に手を当て、深く息を吐いた。
「……心配させるな」
その声は、怒りではなく、必死に抑えた感情の震えだった。
澪の胸が熱くなる。
「黒川さん……」
「座れ」
黒川は澪を近くのベンチに座らせ、水を渡した。
澪が水を飲むと、黒川は隣に腰を下ろし、
澪の手をそっと取った。
「……まだ熱い」
「す、すみません……」
「謝るな」
黒川は澪の手を包み込んだまま、低く言った。
「……さっきの続きだ」
澪の心臓が跳ねた。
(続き……?
“言えなかったことがある”って……)
黒川は数秒黙り、
覚悟を決めたように澪を見つめた。
「白石」
「……はい」
「俺は──」
その瞬間、澪の体がぐらりと傾いた。
「っ……」
黒川が即座に抱きとめる。
「無理をするなと言っただろう」
「ご、ごめんなさい……」
「謝るな」
黒川は澪の額に手を当て、眉をひそめた。
「……もう限界だ」
「でも……仕事が……」
「仕事より、お前のほうが大事だ」
澪の胸が熱くなる。
(……また“お前”って)
黒川は澪の頬に触れ、静かに言った。
「白石」
「……はい」
「……いや」
黒川は一度目を閉じ、
そして、ゆっくりと澪の名前を呼んだ。
「……澪」
澪の心臓が止まりそうになった。
(……名前……?
黒川さんが……私の名前を……)
黒川は澪の手を強く握り、低く言った。
「……もう、白石とは呼びたくない」
澪は息を呑んだ。
黒川は続けた。
「お前を……特別に呼びたい」
胸が熱くて、苦しくて、嬉しくて、
澪は何も言えなかった。
黒川は澪の額にそっと触れ、静かに言った。
「……今日は帰れ。送る」
「で、でも……」
「反論は聞かない」
黒川は澪を支えながら立ち上がった。
──この日、黒川が初めて呼んだ“澪”という名前は、
二人の関係を確実に変えていくことになる。




