094話『同じ方向』
火曜日。
在宅に切り替えた朝。
窓の外は静かで、ここは普段と変わらない。
それでも、チャットの返信が遅い。
会議が減っている。――連休の気配だけが、仕事の端に滲んでいた。
スケジュールを確認する。
連休明け、4月の研修を終えた新卒が3名――配属。
研修を終えた3人が、いきなり戦力になるわけじゃない。
むしろ最初は、“戦力が増える”じゃなくて、“仕事量が増える”。
だから朝のうちに、摩擦を先に潰す。
アカウントと権限、リポジトリ、チケット、連絡導線。
初日に詰まりそうな箇所を全部、手順に落としておく。
それと、最初の一週間だけは「何をどこまでやるか」を一枚にして渡す。
迷わせないためじゃない。迷ったときに戻る場所を作るためだ。
厄介なのは、AIが当たり前になったことだった。
使い方は教える。速くなるし、品質も上がる。――ただし、ルールごと教えないと危ない。
「この情報は入れていい。ダメ」
「引用はどこまでOK」
「社外に出せる文章と、社内だけの文章」
そして何より、自力をつけさせるのが難しくなった。
聞かれて「AIがそう言ってました」で終わるのが一番まずい。
“答え”じゃなく、“根拠”を持って返す。
自分の言葉で説明できる。
そこまでを仕事として教えなきゃいけない。
午前の仕事を一区切りつけたあたりで、共有の感覚がちらついた。
張っていた糸が、ふっと切れる。
また張る。切れる。張る。
(……あ、また往復してる)
コユキだ。94階と行ったり来たりしている。
そのたびに、僕の中の“共有”が微妙に切り替わるのが分かる。
『今日、外に出る予定ある?』
念話が飛んできた。
声の調子が、もう答え待ちというより“予定の確認”。
『ないよ。午後はいつも通り半休で、94階で訓練するくらい』
『よし。じゃあレグリスの教育、進めとくね』
即決だった。
『……そんなに張り切るんだ』
『時間がある時にやらないと、育たない』
言い切るのがコユキらしい。
僕はカレンダーを見ながら、午前の残りタスクを確認した。
午後。
94階の空気は、相変わらず“現実”と違う。
温度も匂いも、広さの感覚も。
ここに来ると、脳が勝手に切り替わる。
僕はスーラと一緒に訓練を、淡々と回した。
コユキはレグリスの隣にいて、言葉を投げていた。
あれは教育というより――“癖を作っている”に近い。
「こう。違う。もう一回」
そんな短い指示が、容赦なく続く。
レグリスは、機械みたいに従う。
返事は、前より音が、ほんの少しだけ人に寄ってきていた。
「了解しました。指示を反映します」
「同様のミスは回避します」
「次の反復に移行します」
(ほんとに……)
僕の方は、僕の方で。
スキルの運用を詰め、余計な動きを削り、効率だけを残していく。
そして――身体の内側で、何かが“ひとつ上がった”感覚が走った。
念のため、ステータスウィンドウを開く。
――レベル60。
僕は息を整えて、汗の引き方を確認してから、コユキの方を見た。
声は届かない距離じゃないのに、訓練の音に紛れて――言葉が、ところどころ欠けて耳に入ってくる。
「……作れる?」
「……を……したら……用意可能」
(……何を作らせてるんだ)
昨日の時点で、92階の魔力炉のチャージは終わっている。
戻るだけなら戻れた。でも、延長している。
コユキのことだ。
レグリスに関しては、合理のつもりで、余計な寄り道もする。
――頼むから、変なものじゃありませんように。
夕方。
レグリスが92階へ戻る、と告げた。
「本日、92階へ帰還します。次回のチャージ完了予定は、5日後です」
「……次、5日?いつも3日じゃなかった?」
コユキに投げると、一拍だけ黙った。
知らない沈黙じゃない。分かっていて、飲み込む沈黙だ。
「うん。今回は……理由がある」
含みじゃない。
コユキがこういう言い方をする時は、最近は決まってる。
(……また、驚かせたいんだな)
理由を言わないのは、隠したいからじゃない。
こちらの顔が変わる瞬間を、ちゃんと見たいからだ。
僕はそれを分かってるから、そこで止めた。
詮索じゃなくて、信頼で。
「了解。じゃあ、帰ろう。今日はここまで」
コユキは、得意げに小さく頷いた。
夜。
いつもの家。
いつもの明かり。
いつもの風呂。
ディアが作る夕食。
コユキはそこにいる。
そして――テーブルの端、器の陰に、スーラがちょこんと“いる”。
週末の事件が、嘘だったみたいに。
ただの日常が、何事もなかったように戻ってくる。
充実している。
食後、ふと考えた。
(今が楽しい理由って、何だろう)
ゲートが現れてから、確かに“攻略”がある。
初めて触る良作ゲームみたいに、知らないものを覚えて、伸びて、積み上げていく感覚がある。
でも、たぶんそれだけじゃない。
コユキと、ディア。
この二人の存在が、想像以上に大きい。
僕は離婚を経験している。
“誰かがいる=充実する”なんて単純じゃないことは知っている。
彼女がいても、妻がいても、心が乾く日はある。
隣に人がいるのに、孤独が増えることだってある。
じゃあ、今は何が違う。
――同じ方向を向いている。
――同じ目的がある。
――信用と信頼が、積み上がっている。
――一緒にいて疲れない。
それだけだった。
MMOのゲームをやっていた頃も、仲間と過ごす時間は確かに楽しかった。
夜にログインして、ダンジョンを回って、笑って、勝って。
でもゲームを辞めると、目的が消える。
同じ方向が消える。
すると、関係の“芯”も薄くなる。
僕の場合は、そうだった。
それでも――同じ道を、並走できる相手が現れた。
それが、日々の充実に繋がっている。
ゴールが同じで、同じ速度で、同じ景色を見ながら歩ける――そんな相手なんて、そう簡単に見つからない。
一昔前は、途中で道が分かれても、簡単に離婚はできなかった。
世間体とか、お金とか、生活とか。理由はいくらでも並んで、どちらかが自分の道を折って、相手の道に乗る。
「我慢できる方が我慢する」なんて、綺麗な言い換えをしながら。
でも今は、共働きが当たり前で、世間体も昔ほど絶対じゃない。
お金の心配だけで縛られる時代でもない。
三組に一組、なんて言われる時代だし、たぶん――そういう“無理の積み重ね”が、もう続かない証拠なんだろう。
だからこそ――同じ目的地に向かって並走できる相手は、貴重だ。
人じゃない。モンスターだ。
それでも――僕の横に、今、同じ方向を向いて歩ける仲間がいて楽しめている。
「……らしくないこと、考えてる?」
コユキが、覗き込むみたいに言った。
図星の刺し方が雑で、ちょうどいい。
「少しだけ」
「へぇ」
ディアが、静かに笑う気配を落とした。
「あなたが“少しだけ”と言うときは、だいたい深いわ」
「……放っておいて」
「放っておくわ。――でも、戻ってきなさい。……ほら、目の前に私たちがいるでしょう」
その言葉で、現実が戻る。
ありがたい。
こういう“戻し方”ができる相手がいるのも、今の強さだ。
寝支度をし布団に沈むと、スーラが枕元にひんやりと寄ってくる。
小さく震えるみたいに、ぷるん、と一度だけ形が揺れた。




